ディスカバー・ニッケイ

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法案の署名 (英語)

(英語)1988年、シアトルのJACL総会に参加していた日のことでした。次の日の朝、大統領が法案に署名をすると連絡が入りました。我々は、「大統領が署名?」と言って驚きました。そのニュースを聞いた時、私たちはシアトルに居たわけですからね。我々は、航空券を予約し、ホワイトハウスに電話をかけ、こう言いました「ただ署名するだけではだめなんだ。公の式典にする必要がある。皆でワシントンDCに飛び、明日到着する」。すると彼らは、「わかった。署名式にしよう。午前11時に始める」と言いました。

全員が航空機で向かうことになり、シアトルからワシントン、そしてワシントンDCまで航空機の予約をしようとバタバタしていました。我々は夜間航空便で飛び、ホワイトハウスに到着しました。皆がかすんだ目でレーガン大統領の署名式を見守りました。

大統領が法案に署名している写真があるのですが、私はパット・サイキに、「パット、ちょっとここのサインを見て」と言いました。大統領が署名する用紙は、法案の赤線コピーと呼ばれていて、下院議長代行としての私の署名もあるものでした。上院議長代行のスパーキー・マツナガの署名もありました。マツナガ議員と私の上院・下院議長代行としての署名があり、レーガン大統領の署名がありました。私は、このようなことが実現可能な国は、アメリカ合衆国をおいて他にあるだろうか、と考えました。


政府 政治 リドレス運動

日付: 2008年7月4日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: トム・イケダ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

ノーマン・ミネタ氏は、1931年11月12日に生まれました。第二次世界大戦中、ミネタ氏は家族と共にハートマウンテン強制収容所に収容されました。

彼の政治家としてのキャリアは、サンノゼ市会議員への任命に始まりました。副市長を経て、1971年サンノゼ市市長に就任しました。

ミネタ氏は、1975年から1995年下院議員を務め、1988年の「市民の自由法」(H.R. 442, the Civil Liberties Act of 1988、日系アメリカ人補償法)の成立を陰で支えました。この法案の成立により、政府は、第二次大戦中の日系人強制収容を違憲と認め、強制収容された日系人に公式に謝罪し、損害賠償を行いました。

2000年、ミネタ氏は当時のクリントン大統領による任命で初のアジア系アメリカ人内閣として商務長官に就任しました。翌年、ジョージ・W・ブッシュ大統領の任命により唯一の民主党内閣として運輸長官に就任しました。また、ミネタ氏は、この役職が制定された1967年以降最も長く同職を務めた議員でした。(2011年12月)

スー・エンブリー

正義への戦い(英語)

コミュニティ活動家、マンザナー委員会の共同創設者(1923年 - 2006年)

ヘンリー・ミヤタケ

歴史は変化し続ける(英語)

補償運動の発起者の一人(1929-2014)

チェリー・キノシタ

賠償金請求の必要性 (英語)

補償運動のリーダーの一人 (1923 - 2008年)

チェリー・キノシタ

苦しみを乗り越えて (英語)

補償運動のリーダーの一人 (1923 - 2008年)

ビル・ホソカワ

賠償(リパレーション)から補償(リドレス)へ (英語)

ジャーナリスト (1915 - 2007年)

ビル・ホソカワ

証拠の強み (英語)

ジャーナリスト (1915 - 2007年)

ピーター・アイロンズ

動かぬ証拠の発見 (英語)

戦時中の裁判の再審要求を担当した弁護士(1940年生)

ピーター・アイロンズ

学ぶべき教訓 (英語)

戦時中の裁判の再審要求を担当した弁護士(1940年生)

チエ・トミヒロ

聴聞会の証人委員としての役割 (日本語)

JACLシカゴ支部の補償委員会の委員長

チエ・トミヒロ

話すことを阻んだ恥の意識 (日本語)

JACLシカゴ支部の補償委員会の委員長

チエ・トミヒロ

今後すべきこと (日本語)

JACLシカゴ支部の補償委員会の委員長

バート・ナカノ

補償運動への参加者の増加 (英語)

政治活動家 (1928-2003年)

バート・ナカノ

ワシントン政界の説得 (英語)

政治活動家 (1928-2003年)

バート・ナカノ

大衆の力 (英語)

政治活動家 (1928-2003年)

ジョージ・ヨシダ

三世と補償運動(英語)

音楽家 (1922年)