ディスカバー・ニッケイ

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渡米の準備

当時ね、あの、来るのにもですね、何か、手続き関係が遅れてしまって、僕が、7月の10日までに、アメリカの、土踏まんと、ビザがだめになるって言われたんですね。それで、ちょうどその、赤坂の、港区にあるアメリカ大使館に行った時に、えーと、金曜日か何かだったのかな、あれな。それで、2日、土日がだめですからね、金曜日にやっともらえたんですが、もらってきた時にね、もらう時に、その、7月10日までに、あのー、アメリカの土を踏めるっていう証拠持ってこいって言われたんですよ。それで、ちょうど、あの、うちのおじさんとこから来た、あのー、エアメール持って行ってね、こういうわけだって、係りの人に見せたらね、オッケーって、ビザもらった覚えがあるんですよ。

で、来たのは、ですから、当時ね、パンアメリカンが就航してから、2年半かたってないと思うんですがね。それに乗ったのはいいです、初めから、飛行機に。で、来たんですけどね、36時間かかって、羽田からロサンゼルスまで、飛行機で着いたの覚えてるんですよ。で、当時は、あの、ほら、あのー、あれ、ウィ―キ島ですかね、羽田からウィ―キ島寄って、それからハワイに寄って、ロサンゼルスですよ。

ですから、ロサンゼルスの飛行場に着いた時はね、着いて、ここに1週間おって、エンペラバリーに勤めに行ったんですけど。その時、あの、ロサンゼルスの印象はですね、川がないはずなのに、何か橋がいっぱいかかってるっていうような印象を持ったんですよ。ほら、あの、ブリッジがあるでしょ。道路越すね。


日付: 2007年5月8日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: 渡辺 美津江

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

米澤義人氏は、宮城県中新田町に1930年に生まれる。日本では、学校卒業後、農業試験場で農業技術を学び、県庁の農業技師の職に就いた。その関係で、アメリカで農業を営んでいた叔父に、事業を手伝って欲しいと頼まれ、1956年7月に渡米した。

最初の2年は、カリフォルニア州のインペリアルバレーの叔父の農場で野菜や果物などを栽培。この当時から、叔父に連れられ、宮城県人会の活動に参加するようになる。その後、叔父の勧めで英語を勉強するためにロサンゼルスへ移動。学校へ行きながらも、生活のために様々な職を転々とした。最終的に、UPSの職を得、退職する1992年まで32年間勤務した。

退職を機に、宮城県人会の会長へ就任。現在も会長職を継続し、活発に活動している。(2009年2月)