ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1104/

日本へ関心のある孫

僕はね、あんまり教育親じゃないんですよね。うちの親父は、あの、僕、仕事先で、仕事の鬼だったから、うちのワイフが見てましたけど。でも、子どもたちはね、やっぱり、あの、日本に行きたいってこと思っとったんで、連れてったことあります。だから、今でも、孫が今度ね、日本に行きたいし、それから、日本語を学びたいって。一人の孫は、今でもずっと土曜日にね、日本学校に行ってますよ。おいそこめのほうですけど。で、日本の、あの、漫画本ですか、あれなども、取ってきて読んでますけどね、二人、二人かな、孫が。それ、読んでますけど。ただ、僕思うには、それから、うちの娘が今、学校の先生してるのがいるんですが、これは日本に連れて行って、兄貴だのと、それから、うちのおじさんのほうと話しましたら、やっぱり、自分は将来、先生になって、生徒に教えるって。それが、お金儲けるよりも何よりもええことだって言ってね、やってますよね、その子。


日付: 2007年5月8日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: 渡辺 美津江

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

米澤義人氏は、宮城県中新田町に1930年に生まれる。日本では、学校卒業後、農業試験場で農業技術を学び、県庁の農業技師の職に就いた。その関係で、アメリカで農業を営んでいた叔父に、事業を手伝って欲しいと頼まれ、1956年7月に渡米した。

最初の2年は、カリフォルニア州のインペリアルバレーの叔父の農場で野菜や果物などを栽培。この当時から、叔父に連れられ、宮城県人会の活動に参加するようになる。その後、叔父の勧めで英語を勉強するためにロサンゼルスへ移動。学校へ行きながらも、生活のために様々な職を転々とした。最終的に、UPSの職を得、退職する1992年まで32年間勤務した。

退職を機に、宮城県人会の会長へ就任。現在も会長職を継続し、活発に活動している。(2009年2月)