ディスカバー・ニッケイ

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渡米後の農場生活

とにかく後継ぐつもりでおったから、真面目で、一生懸命やりました。えぇ。だから、冬もね、あのー、夏もなかったですね、ほとんど。で、ハーベストタイムはね、僕、よく言うますけど、3ヶ月だったんですよ。トマトとキャンタロープなどをね。ああいうスクワッシュだの入って。で、一晩ね、だいたい3時間から、一日4時間ぐらいしか寝なかった時ある。ずっーとですよ。3ヶ月ぐらい。

っていうのは、あの、お百姓さんっていうのは、出荷しない時でも、用意があるんですね、いっぱい。その次の。ですから、夜などは、ことにあの、その、ウィークディはですね、レイバーボーイをピックアップして来て、朝早く。そして、連れて行って、置いて、今度全部やってから、今度レイバーボーイをキャンプに戻すでしょ。で、戻って来たら、次の日の用意しなきゃいけないですよ。お水の用意したり、いろんな。そうすると、そんな時間ない。「よし、早く寝よう」って言うんですよ、おじさんが。だけど、もう寝る時、もう11時はすぐ済みます。で、次の日の朝、今度もっと、ほら、あのー、早く起きなきゃいけないでしょ。もちろん、飯食わんかったら、働けないから、飯食う時間もあるしね。そうすると、やっぱり寝る暇ってあんまりないんですよ。

おじさんがね、僕自慢するんじゃないけど、言いましたね。「お前はよく働くなぁ」って。「お前のように働くのは見たことない」って。


日付: 2007年5月8日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: 渡辺 美津江

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

米澤義人氏は、宮城県中新田町に1930年に生まれる。日本では、学校卒業後、農業試験場で農業技術を学び、県庁の農業技師の職に就いた。その関係で、アメリカで農業を営んでいた叔父に、事業を手伝って欲しいと頼まれ、1956年7月に渡米した。

最初の2年は、カリフォルニア州のインペリアルバレーの叔父の農場で野菜や果物などを栽培。この当時から、叔父に連れられ、宮城県人会の活動に参加するようになる。その後、叔父の勧めで英語を勉強するためにロサンゼルスへ移動。学校へ行きながらも、生活のために様々な職を転々とした。最終的に、UPSの職を得、退職する1992年まで32年間勤務した。

退職を機に、宮城県人会の会長へ就任。現在も会長職を継続し、活発に活動している。(2009年2月)