ディスカバー・ニッケイ

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働きながら家族をサポート

えぇ、こっち、ロサンゼルスに来たんですよね。で、2年か3年ぐらいアダルトスクールか、家出してから、覚えておって、そのうちに、あの、お前、そのままで行くんだったら、だいたいほら、おじさんとこから、お金もらうことできないでしょ。で、自分でやんなきゃいけないから、食っていかなきゃいけないですよね。で、それあったのと、あの、お前、年が年だから、結婚したらいいんだがって言うんで、結局結婚しちまったら、今度ほら、サポートしなきゃいけないでしょ。で、うちのがね、あのー、お父さん、パートタイムで働いて、あんた学校に行けって言ったんですよ。で、それで、結婚してまもなく子どもできたでしょ。だから、ワイフそんなに使うことできないでしょ。で、結局働いたわけですよ。だから、運よくね、友達の紹介だので、UP(United Postal Service)に入ったわけですよ。

UPでも、僕、あの、言葉知らんかったら、あの、使えんと思ったんだけど、そのー、読めるんは読めるし、それから、あの、荷物の入れ分けだったら構わんって言って。入れたらいいでしょ、僕んとこ。ただあれ、当時のね、マネージャーが、あのー、日本人ものすごい好きな人だったんですよね。ですから、僕ら、あの、あのー、あそこのハーバーフリーウェイとナインスとオリンピックのあるプラントで働いたんですけど、あそこにいる時ね、日系人だけですよ、あの、土曜日に働くの。7人来るのが決まってるんですよ。で、他のやつは全然使わないんですよ、他の人間。もちろん、その時、あの、人種もそんなにいませんでしたからね。


日付: 2007年5月8日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: 渡辺 美津江

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

米澤義人氏は、宮城県中新田町に1930年に生まれる。日本では、学校卒業後、農業試験場で農業技術を学び、県庁の農業技師の職に就いた。その関係で、アメリカで農業を営んでいた叔父に、事業を手伝って欲しいと頼まれ、1956年7月に渡米した。

最初の2年は、カリフォルニア州のインペリアルバレーの叔父の農場で野菜や果物などを栽培。この当時から、叔父に連れられ、宮城県人会の活動に参加するようになる。その後、叔父の勧めで英語を勉強するためにロサンゼルスへ移動。学校へ行きながらも、生活のために様々な職を転々とした。最終的に、UPSの職を得、退職する1992年まで32年間勤務した。

退職を機に、宮城県人会の会長へ就任。現在も会長職を継続し、活発に活動している。(2009年2月)