ディスカバー・ニッケイ

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入会当時の宮城県人会の活動

やっぱり、あの、一世の人たちですか。そういう人たちいたのに、二世の年取った人たちで少なくなってますから、昔とはだいぶ変わってます、もう。えぇ。でも、今ね、去年、21年ぶりで、ほら、ピクニックやったんですけど、だけど、何世になるのかな、奥さんが、うちの弟のワイフっていうのがね、まだハワイの二世だか三世だか、そこの子どもたちの孫が来ましたよね、そういうの。で、うちの場合は、ワイフから数えていけば、孫が五世になるわけですよ。だけど、僕が一世かって言うと、そう言っちゃあいけないんだけどね。で、あの時ね、あのー、うちの子、大きな県人会じゃないんだけど、100人ぐらい来ましたかね、えぇ。

うちらの場合は、東北人のせいかね、あのー、金もそうなんですけど、そうじゃなくて、みんなにいかに、集まってもらって、援助してもらえるかとか考えてんですよね。だから、それだけ頭の回転悪いんだかも知れませんね、宮城県人は。特に、東北人中でも。そのせいか何か知らんけど、あの、ある程度の金があるんだったら、皆さんにおあげして、援助してあげたらどうかなっていうようなかっこでいく点があるんじゃないかなって思うんですよね。


日付: 2007年5月8日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: 渡辺 美津江

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

米澤義人氏は、宮城県中新田町に1930年に生まれる。日本では、学校卒業後、農業試験場で農業技術を学び、県庁の農業技師の職に就いた。その関係で、アメリカで農業を営んでいた叔父に、事業を手伝って欲しいと頼まれ、1956年7月に渡米した。

最初の2年は、カリフォルニア州のインペリアルバレーの叔父の農場で野菜や果物などを栽培。この当時から、叔父に連れられ、宮城県人会の活動に参加するようになる。その後、叔父の勧めで英語を勉強するためにロサンゼルスへ移動。学校へ行きながらも、生活のために様々な職を転々とした。最終的に、UPSの職を得、退職する1992年まで32年間勤務した。

退職を機に、宮城県人会の会長へ就任。現在も会長職を継続し、活発に活動している。(2009年2月)