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第1800工兵部隊の一員。戦後本田の輸出部にて、アメリカと日本の貿易を促進(1919-2020年)
(英語)家では日本語を話しました。母は日本人教師で、良い意味でとても厳しい人でした。父は、それほど厳しくはありませんでしたが、宮元武蔵という有名な侍の書籍の熱心なコレクターでした。僕は、父から宮本武蔵にまつわる様々な話を聞かされ、それらは僕の生活の一部となりました。
例えば、父はよくこんなことを口にしていました。「侍は人に見せるために刀を抜くことは決してない。侍にあるのは鍛錬のみ。瀬戸際に立ち、窮地に追い込まれた時にのみ、勝つか名誉の死を遂げるかの覚悟をして刀を抜くのだ。」僕は、このような武士道の教えを父から受けました。 僕は、剣道も少し習い、高校を卒業した時、剣道の先生が短剣を2つ下さいました。校長先生は、「これは切腹のための短剣だ。名誉を汚すようなことをしたら、それで何をすべきか君にはわかるね」と言いました。僕は臆病で血を見るのが嫌いだったので、家の中に自分への戒めとして置いておくことにしました。
僕は、家ではこのような教育を受けていました。学校では真逆で、完全にアメリカ式でした。友人たちは皆アメリカ人か日系二世で、スポーツをしたりボーイスカウトに入ったり、典型的なアメリカ人の中高生がすることをしていました。僕は、両方の文化にバランス良く触れていたと思います。当時の僕は特に何も思わず、普通だと思っていましたが、今となっては、当時の僕は両方の文化からそれぞれ何かを得ていたのだと思います。
日付: 2005年3月25日
場所: 米国、カリフォルニア州
インタビュアー: ソージン・キム
提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター
セドリック・シモ氏は、1919年に生まれ、ロサンゼルスの多人種が混在する地区ボイルハイツで育ちました。シモ氏は、ボーイスカウト活動や剣道に取り組み、日系人スポーツクラブのクーガースでも活発に活動しました。シモ氏は、カリフォルニア大学バークレー校の大学院に在籍していましたが、真珠湾攻撃の次の日、徴兵令状を受け取りました。彼は、アメリカ陸軍情報部語学学校への配属を希望しました。しかしながら、休暇中にマンザナーに強制収容された母親への訪問を禁じられたことに激怒し、外国戦線への参加を拒否しました。その結果、彼は、工兵第1800大隊に配属されました。この部隊には、疑いをかけられたドイツ系、イタリア系、日系人が配属され、戦闘隊が訓練中に壊した道路、橋、フェンスの修復工事にあたりました。シモ氏は、工兵第1800大隊を名誉除隊した後、ボイルハイツへ戻り、ホンダに就職し、輸出担当部門で副代表となりました。 2008年11月20日、日本政府は、日米貿易摩擦が問題となった時期、当時ホンダで働いていたシモ氏が、両国間の貿易推進に寄与したことを評価し、旭日双光章を授与しました。
2020年4月、100歳で亡くなりました。(2020年4月)
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