Ryusuke Kawai

ジャーナリスト。慶應大学法学部卒。毎日新聞記者などを経て独立、ノンフィクションを中心に執筆。『大和コロニー「フロリダに日本を残した男たち」』(旬報社)、『「十九の春」を探して』、『122対0の青春』(共に講談社)など著書多数。日系2世の作家、ジョン・オカダ著『No-No Boy』の翻訳を旬報社より出版。『大和コロニー』は、「Yamato Colony: The Pioneers Who Brought Japan to Florida」として、University Press of Floridaより英語版が出版。

(2018年3月 更新)

community ja

世界のなかの日本と世界

フロリダと天橋立-その3

その2>>

100年後のフロリダと宮津をつないだ酒井襄とは?

以上が、ヤマトコロニーと森上氏の歴史であるが、おさらいしてみればわかるように、最終的にこの「モリカミ」が誕生したその発端は、森上氏との直接の関係で言えば酒井襄氏である。記録によれば、彼は1874(明治7)年生まれで95年に同志社を出て、同志社の創始者である新島襄を見習ってアメリカへ渡ったという。名前の襄も、新島襄に倣ったらしい。50歳前にアメリカで亡くなっている。

「モリカミ」がまとめたヤマトコロニーの資料によれば、酒井家は宮津藩に使えた侍の家系だったという。ニューヨークに留学していたくらいだから、さぞ立派な家柄か優秀な人物で、故郷の宮津では知られているのだろうと思い彼の足跡も調べてみた。

[inline:yamato5.jpg]

しかし、これが不思議なことに、何者なのかがよくわからない。まず、宮津市役所に問い合わせてみたところ、同市総務室で広報を担当する横谷宏明氏がいろいろと調べてくれたのだが、どうも酒井という名前のそれらしき家はあっても、酒井襄とはつながらないというのだ。

さらに、となりの京丹後市にも問い合わせてくれたのだが、手がかりはつかめなかった。ならば、一度現地を訪ねてみようと思い、たまたま姉妹都市のデルレイ・ビーチから高校生や、三堀氏など「モリカミ」の関係者がやってくるというので、6月半ばに出かけてみた。

郷土史の関係者をはじめ森上氏の親戚の井田氏やかつて父親がヤマトコロニーに入植したという稲穂隆夫氏、そして100歳になるという地元の方などに会って話を聞いたが、結論から言えば、酒井襄につながる事実はなかった。それならば同志社大学になにか彼の足跡は確認できないものかと、同大の社史資料センターにも問い合わせたが、手がかりはなかった。

[inline:yamato4.jpg]

酒井襄より少しあとの大正時代に入って、宮津出身者で同志社へ進み、その後アメリカに留学した別の人物の記録は郷土史に残っていたので、こうした進取の気性はこの宮津にはあっただろうとは推測できた。また、ヤマトコロニーに入植経験があるという、稲穂氏の父親については、宮津ではなく隣の旧熊野郡久美浜町(現・京丹後市)の出身であることから、ことによると酒井氏も宮津ではなく、周辺の地域の出身ではないかとも想像できた。

宮津に滞在中、横谷氏の運転する車で案内されて1時間弱、稲穂氏の自宅を訪ねた。隆夫氏によれば、父親の芳蔵氏は独身時代に、辻井氏なる地元の名士に誘われて入植したが、およそ10年で見切りをつけて帰国したという。その際に、大きなのこぎりや自転車をアメリカから持ち帰ったそうだ。

生前、父親から聞いたというおもしろい話を一つ聞かせてくれた。それは、コロニーにいたとき、強盗のようなものに襲撃されたときのことだった。

「映画でやる西部劇なんていうのは絵空事だ、実際は銃で撃ち込まれると、ただ家の中で怖くて隠れていて、音が止むと音のした方に、こっちからも撃ち返すだけだって言ってましたよ」。そう笑った。この話だけでもコロニーでの暮らしがどんなものか、資料では感じられないことが伝わってくる。

[inline:yamato6.jpg]

100年以上前にフロリダに鉄道が敷かれ、開発がはじまったのがきっかけで、ニューヨークを経由して海外入植の話が京都の日本海の町に伝わる。そして大志を抱いた男たちが海を渡り、コロニーを作る。結局、当初の計画は挫折し、ほとんどの人々はアメリカの各地に散らばり、新しい生活と家族を作り、それがいまや3世、4世となっている。

その一方で、一人この地に居続けた森上氏は一代で終わったが、彼だけが確かにフロリダで自分の名前「モリカミ」を残した。それがもとで、いまやアメリカのティーンエイジャーが毎年気軽に宮津を訪れ、ホームステイしながら日本の高校生と交流し、日本三景の一つ、天橋立などを見て回っている。

酒井氏や森上氏がこんなことを想像できたはずはないといっては言い過ぎかもしれないが、ことの発端から100年後の成果を考えると、人の歴史の不思議さを思わざるを得ない。

参考ウエブサイト
* The Morikami Museum and Japanese Gardens

*本稿は、時事的な問題や日々の話題と新書を関連づけた記事や、毎月のベストセラー、新刊の批評コラムなど新書に関する情報を掲載する連想出版Webマガジン「風」(2010年6月30日号)からの転載です。 

Read more

community ja

世界のなかの日本と世界

フロリダと天橋立-その2

その1 >>

自分の名前をフロリダに残すために

結局、耕作条件は悪くそのため農業としては目立った成果も上げられず、入植者は徐々に減っていった。真偽のほどは定かではないが、土地を所有した日本人のなかには1925年にマイアミビーチが開けて、フロリダの土地ブームがおきるなかで土地を高値で手放し、帰国したり他州へ移ったものもいたという。

そして、太平洋戦争が始まる頃には、コロニーに残っていたのはわずか数家族だけになった。また戦争によって42年には、コロニーの土地はアメリカ政府によって没収される。こうしてコロニーは戦前に事実上消滅していった。

しかし、森上氏だけは農業を続け踏みとどまった。これより前に英語の話せなかった彼は、地元の子供たちにまじって英語を学び、自分で収穫した作物を売買もした。戦争中森上氏は、地元の農園主の管理下に置かれ無報酬で耕作を続けたが、戦後になって耕作した土地を無償でもらい受けることができたという。

戦後も農業を続ける一方で少しずつ土地を買い増ししていった。そして最終的には150エーカー以上の土地を所有することになった。それでも土地を売ることはせず、パイナップルや野菜に囲まれた自然のなかに彼は身を置いたが、現地での家族はなく、トレーラーハウスを生活の場としての暮らしぶりは質素だった。

日本人の移民一世の多くが、成功の暁には故郷に錦を飾ることを夢見ていたように、森上氏も当初は一旗揚げて故郷に凱旋するつもりだった。しかし、晩年はアメリカの市民権を得てアメリカに骨を埋める覚悟だった。ジョージ・スケジ・モリカミと現地では名乗った彼が、最後に望んだのはなんとか自分の名前をフロリダで残すことだった。

一方、彼の所有する土地の価値は時とともに高くなる。それはいいのだが、同時に多額の税金もかかる。そこで彼は、自らの土地をすべて地元に寄付することで名前を残すことにした。その橋渡しをしたのは、現在「モリカミ」の副理事長をするジェームズ三堀氏だった。日本からマイアミ大学に留学した後、フロリダで就職をしようとしていた彼は、たまたまデルレイ・ビーチに出かけたときに、「あんた、日本人かい?」と、日本語で声をかけられたのだった。その声の主が森上氏だった。それが縁でいろいろと相談され、法律に詳しい三堀氏の助力によって、地元パームビーチ郡に土地は寄贈され、日本庭園を含むミュージアムができることになった。一口に寄贈して公園化するといっても、その間の手続きや法的な問題をクリアーするのは並大抵のことではない。

「森上さんの持っている土地が、いったいどれなのかを、あの原野のようななかで土地台帳と照らし合わせながら確認するのだって大変だった」と、三堀氏は当時を振り返る。これはほんの一例である。

1976年2月29日、森上氏は89歳でこの世を去った。そしてその1年後、「モリカミ」は一般に公開され、徐々に拡張と整備を重ねて2001年に現在の形になった。05年にはコロニー誕生の100年祭が現地で行われ、かつて入植した日本人たちの末裔が、フロリダやアメリカ各地、そして日本から集まった。その人たちの皮膚の色はさまざまだったところに、世代を超えた時間の流れが映し出されていたようだ。

日本へ残してきた思い

森上氏は、生涯を通じて独身だったことに加えて、渡米してから一度も日本に帰ることはなかった。フロリダに渡るとき、まず神戸から横浜まで船に乗った。そのとき船上から見た富士山が生まれて最初で最後に見た富士山だったという。横浜からは海路でアメリカ西海岸のシアトルに渡り、そこから延々鉄道をつかってフロリダにたどり着く。

[inline:yamato3.jpg]

彼は、土地はもっていたが現金はほとんどもっていなかったと三堀氏は言う。あるとき「日本に一度帰ったらどうだ」と、お金を援助してくれる人がいたが、彼はそれを断った。父親が亡くなったときも帰らず、故郷の宮津にいる親戚は憤慨したことがあった。しかし、彼が故郷や実家のことを思わなかったかと言えば、決してそんなことはなく、長男として家のことを案ずる手紙を、実際家を継いだ妹にあてて何通も書いている。

また、森上氏がそもそもアメリカに渡るきっかけとなった一つに、結婚を申し込んだ相手の家に断られたという“失恋”の事実がある。その女性のことを渡米後もずっと思っていたことが、これらの手紙からうかがい知ることができるという。このことは、現在宮津市に住む井田和明氏を訪ねて聞いた話である。井田氏は森上氏の妹の孫にあたり、その家は、場所は少し移動したが、かつて森上氏が生まれ育った家だった。

建築後、百数十年がたつしっかりした構造で、建築時の図面も残っているほどだった。家業はもともと農業だったという。長男だった助次氏がどうしてこの家を出てフロリダへ渡ったのかというと疑問はあるが、ことによると“失恋”の痛手が大きかったのかもしれない。

その3>>

*本稿は、時事的な問題や日々の話題と新書を関連づけた記事や、毎月のベストセラー、新刊の批評コラムなど新書に関する情報を掲載する連想出版Webマガジン「風」(2010年6月30日号)からの転載です。 

Read more

community ja

世界のなかの日本と世界

フロリダと天橋立-その1

アメリカ南東部のフロリダ州に、日本文化を紹介するモリカミ・ミュージアムと日本庭園があることと、そこで春に行われた大きなフェスティバルの模様を前回紹介した。

日本とはあまり縁のないような場所にある「モリカミ」の名称は、森上助次という人物から由来する。いまから100年以上前にフロリダに農業移民として入植した日本人の一人である森上氏は、生前に所有する土地を地元のパームビーチ郡に寄贈し、それがもとでこのミュージアムと庭園ができあがった。また、これが縁で同郡内にあるデルレイ・ビーチという町と、彼の故郷である京都府宮津市は、姉妹都市関係を結び交流を続けている。今年も6月半ば、デルレイの高校生が数日ではあるが、宮津でホームステイをしながら地元、府立宮津高校で学んだ。

日本三景として有名な天橋立がある、日本海沿いの宮津と大西洋岸に位置する亜熱帯のデルレイ・ビーチ。この二つを結びつけた森上氏は、なぜ20世紀のはじめに、はるばるフロリダへわたったのだろうか。そして二度と日本の土を踏むこともなかった一方で、フロリダにその名前を残すことになったのか。その背景には、彼だけではない、宮津から集団で移住し、フロリダで成功を夢見た人たちの物語があった。

「ヤマトコロニー」をつくった二人の日本人

[inline:yamato1.jpg]

移住の足跡については、「モリカミ」の資料やアメリカへの日本人の移住について地方別にまとめた『米国日系人百年史 : 在米日系人発展人士録』(新日米新聞社、1961年刊)、さらにアメリカで出版された『Konnichiwa Florida Moon』という森上氏の物語などをもとにまとめてみたい。

発端は、当時のフロリダでの鉄道建設だった。石油王のロックフェラーとスタンダード石油の経営にかかわった大富豪に、鉄道王といわれたヘンリー・フラグラーという人物がいる。彼は、Florida East Coast Railwayという会社をつくり、19世紀末から20世紀初めにかけて、フロリダの大西洋岸のジャクソンビルから最南端のキーウェストまで鉄道を敷いた。と同時に、大西洋岸のフロリダの開発を進めて、今日のリゾートの基礎をつくったと言われる。

開発にともない同社は、マイアミの北40マイルのところに所有する1260エーカーの土地の一部にパイナップルを植え付けた。しかし安いキューバ産には対抗できなかったため、太平洋側ですでに野菜作りをして実績をあげていた日本人を入植させて野菜をつくらせようと考え、その土地を日本人に提供すると公表した。

このことを知って、フロリダに入植しようと決意した日本人が当時アメリカにいた。ニューヨークに留学中だった奥平昌国と酒井襄(じょう)の二人である。奥平は九州豊前の国、中津藩藩主奥平昌高の弟だというが、酒井については宮津の出身で、同志社で学んだ後にニューヨークの大学に留学したとされている。

これが1904(明治37)年のことで、二人は現地で土地を購入して、「ヤマトコロニー」と名付けた。さらに酒井は事業を拡張しようと、郷里の宮津に帰って、入植者を募り十数人を引き連れてフロリダへ戻った。1906年、07年と同じく宮津や近隣の峰山方面(現在の京丹後市)から入植者が続いた。このなかの一人が森上氏だった。 

一方、奥平も日本から青年を連れてきたり、また、カリフォルニア方面からも日本人が入植し、1910年前後の全盛期にはコロニーの人数は100人を超えていたという。女性たちが加わり、現地で子供が生まれて学校もできていった。

「モリカミ」の日本庭園のなかにできた、桂離宮を模した最初の展示棟には、当時のコロニーの様子を示す写真や酒井、奥平、森上ら三氏の写真なども展示されている。集団で暮らしたであろう建物や子供を含めての記念らしき集合写真もある。ワイシャツにネクタイを締め、女性はワンピース姿という身なりをしている。自動車を運転しているところをとらえた写真もある。

他のアメリカへの日本人移民もそうだが、記念写真はかならず撮るようで、それもみな洋風に正装をして日本では見られないようなモダンな姿で納まっている。一種の成功の印でもあるのだろう。

しかし、この立派な写真の陰にある実際の生活となると厳しかった。南部フロリダは湿地帯は多く、雨も多く肥料が流されたり、さらに蚊など虫は多く、蛇、毒グモ、ワニなども生息している。これらに注意しながらジャングルともいえる地を開墾していかなくてはならない。

コロニーでは、最初はパイナップルをつくっていたが、のちにトマトやコショウ、ナスなど野菜作りをはじめたという。収穫した野菜や果物は、近くに市場がないので鉄路で遠くニューヨークやシカゴなどへ販売をした。鉄道の最寄りの駅は、このコロニーの名前をとって、「YAMATO」と呼ばれていて、当時の様子をあらわす写真も残っている。

[inline:yamato2.jpg]

その2>>

*本稿は、時事的な問題や日々の話題と新書を関連づけた記事や、毎月のベストセラー、新刊の批評コラムなど新書に関する情報を掲載する連想出版Webマガジン「風」(2010年6月30日号)からの転載です。 

Read more

community ja

世界のなかの日本と世界

フロリダの日本庭園とコスプレ-その3

その2>>

庭園のなかをコスプレのティーンエイジャーたちが・・・

敷地内には黒い瓦屋根の本館と最初にできた平屋の建物がある。本館には、木版や着物、陶器など日本の美術品が展示されているほか、茶室が設えられている。ユニークなのは、畳の間で茶の湯を行っているときに、お茶を点てるその模様を鑑賞できるようにと、開放された部屋の外に階段状の客席がつくられているところだ。

[inline:florida7.JPG]

本館内には225人を収容できるシアターもあるし、カフェではお寿司をはじめ日本食が楽しめる。日本の工芸品や贈答品などが販売されるショップも、この場所にしてはなかなか充実している。

この建物とは別に、庭園の中程にある平屋の建物では二つの常設の展示がある。一つは「子供たちの目を通した日本」と題した、日本のいまの社会を知るためのもので、小学校の教室の様子や一般家庭のダイニングキッチンなどを紹介している。

[inline:florida8.JPG]

もう一つは、ヤマト・コロニーの歴史が古い写真や新聞記事などとともに理解できるようになっているものだ。

午前中のうちに庭園内は来客がひっきりなしに行き交うほどになった。そのなかでとりわけ目を引いたのが、なにやら派手なコスチュームに身を包んだティーンエイジャーたちだった。その数は時間とともにどんどん増えてくる。

いったい何だろうと思っていると、この日のイベントの一つとして開かれる「コスプレ・コンテスト」に登場する若者たちだった。話には聞いていたが、いまや日本のアニメやマンガが外国の若者へ与える影響力は絶大なようで、私にはいったい彼らがどんなキャラクターに扮しているのかまったくわからなかったが、とにかく想像の世界から飛び出した色鮮やかで奇抜な姿が、しっとりとした日本庭園のなかを歩き回っているのだ。不似合いと言えばそれまでだが、その光景はおもしろいコントラストでもあった。

[inline:florida9.JPG]

大きなテントを張った特設の会場でのコンテストが大いに盛り上がったのは言うまでもない。加えて会場ではアニメのグッズやおもちゃの日本刀などが束になって売られているのも不思議なことだった。

地元のある中学生に「日本に行ってみたい?」ときくと「もちろん!」と答えが返ってきた。

伝統的な日本の文化、芸能ももちろん注目を集めていた。とくにこうした祭りやイベントではよく行われる和太鼓は、音とパフォーマンスの力強さがアメリカ人に受けるのだろう、初めて見る人には新鮮に映ったようだった。

また、千栄子さんがリーダーとなって披露する野点(Tea Ceremony)にもたくさんの人だかりができた。着物に身を包んだ彼女がまず、茶の湯というものについて英語で説明をしてからお茶を点てる。そして、大きな傘の下で待つそのお弟子さんたちにふるまう一連の"儀式"を集まった人たちの前で淡々と繰り返した。青空の下で、静かにゆったりと進む動作に、観衆も静かに見入っていた。

[inline:florida10.JPG]

敷地内には、日本的な食べ物や日本の古本なども売られるなど、出店も集まって、終日大盛況。西海岸のこうした日本をテーマにしたイベントに比べると、東洋人の姿が実に少ないのが印象的だった。

モリカミでは、このHATSUME FAIRのほかに、お正月には餅つきをしたり、お盆には精霊流しや花火を打ち上げるといった季節の催事を開いている。また、年間を通して、生け花教室や茶道教室を開いたり、料理や日本の庭作りを紹介する。日本語教室などといった教育的なプログラムも組み、地域の人に日本文化を広め、人々との交流を図っている。

週末の2日間にわたって行われた、今春のFAIRは天候にも恵まれ約1万人が訪れるほどのにぎわいだった。日本的なものがあまり目立たないこの地のアメリカ人が、日本的なものについてこれほど関心があることは少々驚きだった。しかし、それ以上に心に残ったのは、かつてのヤマト・コロニーの歴史と、森上氏の生涯であり、彼の名前を冠したこの立派な庭園ができるまでのストーリーだった。

次回は、コロニーとモリカミが誕生する、偶然のようないきさつともいえる話をしてみたい。

参考ウエブサイト
* The Morikami Museum and Japanese Gardens

*本稿は、時事的な問題や日々の話題と新書を関連づけた記事や、毎月のベストセラー、新刊の批評コラムなど新書に関する情報を掲載する連想出版Webマガジン「風」(2010年4月30日号)からの転載です。

Read more

community ja

世界のなかの日本と世界

フロリダの日本庭園とコスプレ-その2

その1>>

入植当時のフロリダに思いを馳せながら

その日は金曜日ということもあって、空港内のレンタカー・カウンターは長蛇の列。待つことおよそ1時間余、ようやく三菱のセダンで空港を出たのは午後3時半を過ぎていた。この時期のフロリダにしては、それほど暑くはなくさわやかな陽射しがふり注いでいる。

デルレイ・ビーチまではすぐにハイウェイ95号にのって北上した方が時間はかからないのだが、リゾート地として名だたるフォート・ローダーデールのまちを見ようと、まずは海岸沿いを走るA1Aという道に出て、道路の両側につづく南国情緒を醸し出すパームツリーの間を走る車の列に加わった。右には砂浜と薄い青緑の海が見え、左にはホテルやレストランが建ち並ぶ。どちらにも人があふれていた。

[inline:florida3.JPG]

この時期は学生にとってはスプリング・ブレイク(春休み)で、各地から学生たちがフロリダを目指してやってきて騒ぎ、楽しむのは長年の慣習になっていた。なかでもデイトナ・ビーチやフォート・ローダーデールはそのメッカだった。

そうした学生たちも大勢いるのだろう、人通りでにぎわう繁華街を抜けてしばらくすると、海岸線とほぼ並行してゆったりと川が左手に流れている。川沿いには瀟洒な家々が建ち並び、それぞれが桟橋を突き出し、ボートやクルーザーを係留している。なんとも優雅なアメリカらしいリゾートの景色だ。

そろそろデルレイ・ビーチに近づくので、海を離れ内陸へ向かった。そして地図で確認ずみのヤマト・ロードのサインを見つけた。東西に走るこのヤマト・ロードは、あとで知ったのだが、モリカミができるときに、ハイウェイからつながる道としてそう名付けられたのだった。

95号から片側3車線のこの道路に入ってしばらくして、北に向かったところにモリカミは位置する。私はこの日はハイウェイ近くのホテルに泊まり、翌朝、「HATSUME FAIR」の開催に合わせて会場であるモリカミを訪ねることにしていた。

[inline:florida4.JPG]

祭りの当日、そのヤマト・ロードに沿って車を走らせると、「YAMATO OFFICE CENTER」というビルがある。道路の名前を冠したのだろうが、Yamatoはなかなか有名なようだ。「MORIKAMI MUSEUM」という案内表示もある。しかし、ホテルのスタッフに「ヤマト・ロードのヤマトは日本語だというのを知っていましたか」と、聞くと「いや、知らなかった」という。

あたりは典型的なフロリダの風景が広がる。平坦で森を切り開いたように開発、造成された住宅地や低層のオフィスビルなどが並ぶ。整然としているさまは、いかにも現代人が合理的にデザインしたという町並みだ。

おそらく半世紀前は、原野に等しかったのではないだろうか。湿地帯が点在するこの地はワニも生息しているし、なにより小さな虫たちが無数に飛び交う。フロリダを走る車のなかにはフロントグリルに細かい網の目のようなマスクをかけて走っているのを以前よく見かけたが、これは虫除けのためだと聞いたことがある。森上氏らはこの地に100年以上前に入植したというのだから、その暮らしぶりは想像を絶する。

あらためて気づく日本文化の魅力

周りの緑が目立つころ、ひとつ道を曲がって、さらに木立に囲まれてカーブを描く細い道を進むと、モリカミの中心となる建物の前にでた。すでに近くでは開園を待つ人たちが並んでいる。あちこちで交通整理などで動き回っているのはボランティア・スタッフだろう。

この建物を抜けた屋外で千栄子さんが、「Tea Ceremony」としてお茶をたてて訪れた客に披露するという場に、三堀夫妻を訪ねたのだが、眼前の光景にはっとした。遠くまでつづく水辺とそれを囲む植栽。想像していたよりはるかに広い立派な都市公園のような景色が広がっている。

[inline:florida5.JPG]

茶の湯が始まるまでの間、まずは三堀氏に案内されてひととおり回ってみると、日本庭園を形成する要素が随所に顔をのぞかせる。欄干が目立つ橋、曲がりくねった小道や小さな滝壺、そして水を貯めた竹が石をコツンと打つ鹿脅しがある。竹林をつくり岩を配し、石を敷き詰めた石庭もあれば、見事な盆栽がずらりと並べられている一角がある。

ときどきベンチで一服しながら人々は思い思いに散策を楽しむ。スピリチュアルなパワースポットだと考えているのだろうか、龍安寺にあるような石庭の周りでは、集団でなにやら庭に向けて手を掲げている数人のグループがあった。

配布されている資料などからすると、広さは約200エーカー(約24万坪)で、湖を中心にしてそれらをぐるりと回りながら、6つの区域に分かれてさまざまな表情を見せる庭園を楽しむことができる。ざっとまわっても1・2キロくらいの散歩道だ。

[inline:florida6.JPG]

歩きながらふと感じたのは、オレゴン州ポートランドにある日本庭園を訪れたときもそうだったが、日本文化のもつ特性や魅力である。海外に来てようやく思い知るというのもなさけない。しかし、こうした経験をお持ちの方は多いのではないだろうか。だからこそわれわれは日本を離れて日本を見る必要があり、海外で日本文化を紹介する意義もまたあるのだろう。

また、静けさや無という日本文化の魅力についても考えた。日々の暮らしはさまざまな音に満ちあふれ、遊びも含めていつもなにかをすることで時間を過ごす。そうした現代人の生活で、なにもせずただ静かに美しい庭を眺めて過ごす場としての日本庭園が実に味わい深いものだと実感した。

実際、アメリカ人のなかにも、ここへ来て心の病を癒して帰る人たちがいることを三堀氏は教えてくれた。

その3>>

*本稿は、時事的な問題や日々の話題と新書を関連づけた記事や、毎月のベストセラー、新刊の批評コラムなど新書に関する情報を掲載する連想出版Webマガジン「風」(2010年4月30日号)からの転載です。

Read more