Ryusuke Kawai

ジャーナリスト。慶應大学法学部卒。毎日新聞記者などを経て独立、ノンフィクションを中心に執筆。『大和コロニー「フロリダに日本を残した男たち」』(旬報社)、『「十九の春」を探して』、『122対0の青春』(共に講談社)など著書多数。日系2世の作家、ジョン・オカダ著『No-No Boy』の翻訳を旬報社より出版。『大和コロニー』は、「Yamato Colony: The Pioneers Who Brought Japan to Florida」として、University Press of Floridaより英語版が出版。

(2018年3月 更新)

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一世の記録を拾い集めた男 ~加藤新一の足跡をたどって~

第18回 原爆の日を駆け回る

1945年8月6日、中国新聞の報道部長だった加藤新一は通勤途中、西広島駅近くにいて原爆の閃光を見て、すぐさま市内の中国新聞本社へ向かった。その時見たもの感じたことなどを記録、26年後の1971年に自ら発行人となった「平和競存の創造」のなかで「原爆地獄を往く 一老記者のピカドン体験記」として発表した。以下、その体験記を紹介しよう。

ピカドンの一瞬ピカっと青白い大せん光。つづいてドーンと大きくにぶい大轟音の一瞬。私は地べたに叩きつけられた——。

一九四五年八月六日午前八時十五分。私はあの世界人類が最初に体験した原子爆弾炸裂の瞬間、広島市の西玄関己斐(今の西広島)の宮島電車駅改札口から数歩の国道上に、朝の通勤ラッシュ、市内電車へ乗替えの長い行列の末尾で朝刊新聞に目を落としていた。

これは至近弾、あとの投弾を受けぬ間に——と勝手知った貨物駅入口から、すでに倒壊した倉庫の屋根を飛び越え、韋駄天のごとく山の手に向け走った。

敵機が油を撒いている——と叫ぶ声がする。まことポツポツ落ちている雨は黒くニチヤ、ニチヤしている。その朝は土用の最中で雲一つなかったのに大轟音とともに辺りが薄暗くなり、油に似た黒い雨。一人の兵隊が「油ではない。よごれた雨だ」という。麓の横穴に難をのがれ、東方の市内を見渡すと、全市から火の手があがり、眼前の藁にまで火がついている。

これは尋常なことではない。何か特殊爆弾だ!と叫ぶ声をあとにしながら、再び国道へ降り、草津から来た消防車へ「中国新聞だ」と腕章を示し飛び乗った。

己斐から草津へ向け避難する人々で国道は一パイ。口々に、「手当てをする場所は?」「お医者は何処に—」と救いを求め、火傷で赤くただれた姿、幽霊の如く両手を前に垂れ、あるいは頭髪が焼けちぢれ、子供を抱いた母親、老人を背負ってヨロメキながら歩ゆむ群れをかきわけ、逆に市内へ向かった。

福島町までで消防車は進まず、飛び降りて天満町に来たころ、倒壊家屋に火事が起り、それに西から強風が吹き、もう一歩も進めない。午前九時ごろである。

天満町北側、東洋製罐工場周辺の家屋疎開した広場に差しかかると、バリバリ燃える倒壊家屋の下敷きになった老母を「足がちぎれてもいいから」と若夫婦が必死に引っ張るのを手伝ったが、老母の姿が見えるのに、そのまま火焔の下になり、また若い母親が「この火の下に四才の子供が——」と泣き狂うのをどうすることもできず、生家の横川へ廻るべく、福島橋に戻り倒壊した古田喜三太代議士邸前で「古田さん、古田さん」と大声をかけながら、安芸女学校へ向け北上した。

天満町の川べり石がけには、全身火傷で歩行もできぬ全裸の男女が、北洋アザラシ、オットセイが岩礁に重なり合っているようにして砂上に転がり落ちている様は、全く生き地獄、川床には馬や牛、犬などの屍体とともに無数の焼屍体がゴロゴロしている。

福島町から北上の土手や両側、畑の中まで半死半生、あるいはすでに事切れた屍体やそれを看護する人々で、足の踏むところもない。

自分の生家が見える打越の土手にたどりついたころ、黒煙はもうもうとして近寄られそうにない。かかるうち、バケツをひっくり返したような大雨が北部一帯に降りはじめ、やむなく再び打越山の手、半壊家屋で雨宿り。小一時間後に小降を幸い、火事ですでに焼け落ちた横川一丁目の生家に辿りつき母親の安否を気遣い三〇分あまり焼跡を木切れで掘り廻した。(母は若い二人の弟妹を勤めに出し、野菜をとりに山手へ出かけ無事だった)

午前十一時。川向うの広島別院も焼け落ちたらしく、横川から寺町、十日市——と目星しい建物は何一つなく、全く、焼野原。三篠橋は中央が燃えているので、鉄橋を渡り、白島から常盤橋まで来ると、ここらは余り雨が降らなかったものか、焼け跡の焔がまだ残り逓信病院から八丁堀の電車通はとても熱くて近寄れない。

やむなく、タオルやシャツを川水でぬらして被り、めざす福屋から中国新聞社前へ走りつづけた。

しかし、この沿道は黒焦げ屍体や半死半生の被爆者やタイヤの燃えた自転車を飛び越えて進むのに一苦労。とくに首をもたげて「兵隊さん、水を——」断末魔の声をかけられるのを耳にしながら(ゆるして下さい。どうにもならぬのです)と心に詫びつつ走るのは断腸の思い。

正午十二時。福屋と中国新聞社屋は、外郭こそ、そのままだが、屋内は轟轟と音とたてて燃えている。万事休す。勧銀支店の石段に腰をかけ、汗をふいて一休みするうち、三々五々、そこは新聞社の社員、編集関係ばかりでなく、事務も印刷畑も集る。水主町県庁近くへ勤労奉仕に出勤していた佐々木伊勢治部長以下四〇数名の安否は?(二日後は自分が隊長の当番)

あれこれするうち、郊外府中町山本社長邸から社長命を受けた数名が、「宇品の陸軍運輸部に向け大阪の朝日と毎日に応援を頼む打電に行く」と走り去った。(爾後数ヶ月間は両者の新聞に中国の題字を刷り全購売者に代替発行し協力してもらった。)

社屋前で二、三十名の社員と「無事」を祝福し合ったが、おそらくその半数は原爆症の犠牲になったであろう。日ごろ親しかった松浦寛次(当時副主筆)、佐伯敏夫(後ち夕刊中国編集長)両君とは抱き合うようにして喜んだ。

午後三時。松浦さんは、女学校から勤労奉仕に出たお嬢さんが気がかりで小網町辺りをさがしたいと帰りかける。私も廿日市の平良村を朝出たばかりで安否を家族が気遣っていると思うのと、朝、ピカドンで国道アスファルトに叩きつけられ、数間を手と足でヨヂリ這ったので、ヒザ小僧(半ズボンに巻き脚絆姿だった)を赤くスリむいた上に、貨物倉庫の倒れた屋根をゴム地下足袋で飛び越えた時に数ヵ所釘でふみ抜きしていたのが痛みだし、共に八丁堀—紙屋町—十日町—小網町と西へ帰路についた。福屋から相生橋までは、日銀と住銀ビルが遥か左方に形を店、商議ビルが川ばたに残るくらいで、産業奨励館は見すぼらしい姿になっている。

それよりもひどいのは重傷で逃げられず、ついに黒焦げになった無数の屍体がゴロゴロと並び(はなはだ申訳ないが、朝からの惨死体馴れで、もうそのころはさほど感傷もなく、全くおそろしいことだ)顔をそむけるようにして足を引きずりながら西へ急ぐ。

相生橋の手前、今の原爆ドーム前の電柱に赤くただれた大男が針金でくくられ、往来する人々が何か言いながら煉瓦や小石を投げている。どうしたことかと近寄って聞くと「撃墜米機の米兵の一人だそうだ。こんなことでは腹の虫がおさまらぬ」とさらに何か投げつけている。気負い立った反米的群衆心理はどうする術もない。

小網町辺りの道端には大型セメント水槽が至る所にあり、逃げおくれた男女中学生たちが、熱さにたまらず、水をもとめて水槽に折り重なって赤くユデダコのように死に、なかには握りコブシを高くあげ、苦しみつつ絶息した凄惨な阿ビ叫喚は想像に絶するものがあった。

松浦君は「もう少し詳しく広く探して帰る」という。無理もない。そう言えば、私の一人息子も毎朝広島の日赤病院に通っていたが、どうしたか?と気にかかりはじめた。(松浦のお嬢さんも、私の息子も警戒警報で引き返し無事だった。)

私は一人で、今はビッコをひきながら、電車道(普通の道路は倒壊家屋が焼け落ちて通れない)を己斐に出て高須、古江を経て草津から運転中の電車(重傷でなくては乗せぬのを、新聞社の腕章が物をいい)に乗せて貰い午後六時すぎ、被爆難民救護にゴッタ返している平良村の我家に帰りつき、妻子はもちろん近隣の人々が心から「無事」を喜んでくれた。

広島市中心から十キロもある平良村の自宅も、ピカドンのために障子は破れ、ガラスはこわれ、二階の天井が吹きあげられて引きおろすのに骨が折れ、壁の土など畳の上に散乱し「原爆」の爆風力のすざまじさを今更の如く知らされた。

中国新聞報道部長(編集局所属各部を統合した戦時体制)だった私は、新聞こそ発行不能で取材活動はないにしても、西部軍司令部や県庁記者室の任務もあって翌八月七日からも自転車に白米を積んで「当分帰宅できぬかも知れぬ」と市内へ出かけ、銀山町角の芸銀支店に仮設の県庁並びに県警察本部を中心に行動をつづける傍ら、近親者の安否を探るなど、八月十五日の終戦の詔勅を経て、同二十日前後にアメリカ原爆視察団に同行したスイスの万国赤十字代表二名の案内、通訳に駆り出されるなど、連日、原爆生き地獄を右往左往したのであった。

弟省三(当時廿四才)は原爆三日後、妹文江(当時二二才)は一ケ月後に「兄さん仇を討って——」と死んでいったが、無数の犠牲者が屍体も不明のまま、広島市中央を南北に二分し、南を海軍、北を陸軍が、被爆四日目ごろから低地に屍体を集めて積みあげ、油をかけて焼(酷暑で悪臭とハエがわくので)いて片づけたのに比べると、簡素ながら近親者で葬い得たことはせめてもの救いであった。

いつもはアメリカ帰りで正確に午前八時に出社していた私が、前夜の取材活動(佐伯郡原村農協での広幅蒲蒔き麦の増産座談会に吉岡写真部長—今の広告局長——同道で)が晩くなり、宮島電車三、四台ほどおくれて己斐まで来てピカドンに遭ったため命拾いをした。また、もし生家の横川一丁目に住んでいたら、もちろん同八時には出社していたからお陀仏だったに違いない。

あのピカドン後に、近親者探しその他で入市した人々のうちにものち原爆症で死んだ人も多いなかに、上記の如く文字通り「原爆生き地獄を往く」血のにぢむ体験をしながら今日(七一才)まで生き伸び得たのはそれこそ「儲けもの」である。

平和活動に余生をささげ、憲法改悪など全人類の敵に命がけで斗い「戦争」は断じて阻止する所存である。

第19回 >>

※一部不適切な表現があるが、オリジナルのまま掲載した。

 

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一世の記録を拾い集めた男 ~加藤新一の足跡をたどって~

第17回 広島はアメリカ2世の郷里だから?

日米開戦から8ヵ月余の1942年8月20日、日米交換船で日本へ戻った加藤新一は、郷里の広島市で中国新聞の記者となった。いつからどのような経緯で就職したかはわからないが、アメリカでの邦字新聞の記者としての経験がものを言ったのだろう。

中国新聞は、広島市に本社を置き広島県内のほか、山口県、岡山県、島根県など中国地方で販売されているブロック紙で発行部数は、約53万8000部(2021年3月)。その歴史は古く、明治25(1892)年に「中国」として創刊、明治41(1908)年に「中国新聞」と題号がかわった。


開戦前後の中国新聞

日米開戦の翌年(1942年)に中国新聞は創業50周年を迎えた。開戦後勢いを増していた日本だが、加藤が帰国する2ヵ月前の6月にはミッドウェー海戦で敗北し、守勢に転じていた。1944年にはサイパン島で日本軍は玉砕、東条内閣は総辞職した。日本本土への空襲もはじまり、11月には東京も初めて空襲に見舞われた。

1945年5月15日、中国新聞の東京支社が焼夷弾攻撃によって消失、つづいて大坂支局、岡山支局、宇部支局、下関支局、徳山支局、福山支局が戦火で失われた。このため広島市の中国新聞本社では迫りくる空襲への防衛対策が進められた。

しかし、社員の多くは応召していたため、地方の支局員を交代で動員、防火幕や防火水槽を設けるなどして防空体制を整えた。一方、新聞用の資材は空襲に備えて疎開させた。

戦局が悪化するなかで、中国新聞社の本社では、当時軍の命令によって中国新聞本社員と広島にある各報道機関の従業員とで構成する「中国新聞社国民義勇隊」やビル社屋や印刷機械を空襲から守るための自衛隊が組織されていた。

義勇隊の本部(隊長)は、社長の山本実一で、軍隊組織のように構成されていたが、このなかで加藤新一は、本体の第一中隊長につぐ第一小隊長の任を受けた。帰国後、中国新聞にすぐ入社したとしてもまだ数年の加藤が、こうした地位にあったということは、経験や実力を買われて、記者として社内でもそれなりの地位にあったと推測される。が、彼の戦前の中国新聞社での活動についてはわからない。


原爆前の穏やかさ

1945年4月1日、米軍は沖縄に上陸、日本軍と地上戦を繰り広げた末6月23日戦いを終結させた。本土への空襲も激しさを増していくが、広島市では米軍機が来襲したのは、3月18日,19日と4月30日だけで比較的平穏な日々が続いた。

「広島県が移民県であり、アメリカ二世の郷土だから、空襲目標から除かれているのではないか」という説が飛び出るほどだったという。

だが、そうした説を戦争の冷酷さが吹き飛ばしたのが8月6日だった。午前8時15分、広島市細工町十九番地(現在の大手町一丁目)島病院の当方約25メートル地点の上空580メートルで、アメリカのB29エノラ・ゲイ号が落とした原爆が爆発した。

当時、中国新聞社は爆心地から約1.5キロの広島市上流町二の一にあった。この日出勤の義勇隊員約40人は、午前8時すぎ広島県庁舎北側の天神町の強制建物疎開地に集合して指揮者の命令を待っていた。また、前夜からこの日にかけて宿直していた十数人の社員は、午前7時31分の警戒警報解除とともに一部を除いて仮眠をとりに帰宅したり社の前の支社局員の寮へ帰ったりしていた。本社の社屋内にいたのは10人だった。

爆発と同時に窓ガラスは全部吹き飛び、社員のひとりは爆風にあおられて二階から落下した。

広島の街は一瞬にして破壊され、凄惨な光景がいたるところで見受けられた。


いつものように出勤していたら

この日は平日であり、人々は通勤、通学など一日の仕事をはじめる準備にとりかかろうとしていた。午前8時には警戒警報が解除されたこともあり、ひと息ついていた人もいた。爆発が起きた時、加藤新一は中国新聞本社へ向かう通勤の途中だった。加藤の実家は市内の横川駅に近いところだったが、当時は市内中心部から約10キロほど南西にいった平良村(現在の廿日市市)に妻子とともに住み、毎日そこから社へ通っていた。

出勤時間はいつも守っていたようで、通常は8時には出社していたのだが、この日は前夜の取材で帰りが遅くなったため、いつも乗っている電車(広島電鉄宮島線)より3、4本おそい電車に乗った。

もし、いつもの電車に乗っていたら加藤は、命を落としたか、かなりの重症を負ったと思われる。通勤途中で爆発を知った加藤は、その瞬間から自分がとった行動と目にしたものを記録している。


残された体験記

平和活動に邁進していた1971年、加藤は、自らが発行した「平和競存の創造」と題する出版物のなかで「原爆生き地獄を往く一老記者のピカドン体験記」と題して4ページほどにまとめている。

「この一文は近来『戦争放棄』の平和憲法改悪の機運が強く、生命を賭して第三次大戦阻止のため、また余生を平和運動にささげる原点として一九七一年八月の原爆記念日に際して再記述した。(筆者)」とあるように、いつかはわからないが被爆後に記したものを、26年後に採録したと思われる。

爆発を知った瞬間から、市内の中国新聞本社へと向けて、破壊され死者とけが人がうごめく街を歩き回り、夕刻自宅にようやく戻るまでの間の生々しい記録だ。

油に似た黒い雨が降る。医者はどこだと叫ぶ声。子どもを案じて泣き叫ぶ若い母親。撃墜された米軍機に乗っていた米兵への仕打ち。被爆直後の街の光景がとらえられている。

次回、体験記をそのまま紹介したい。

(敬称一部略)

第18回 >>

注1:中国新聞に関しては「中国新聞八十年史」(中国新聞社史編纂委員会、1972年)を参考にさせていただきました。

 

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一世の記録を拾い集めた男 ~加藤新一の足跡をたどって~

第16回 抑留され、交換船で帰国

日米開戦となってから、日系新聞の編集長という日系コミュニティーの指導的な立場のひとりとして、自身の身に起ったことについて、加藤新一は詳しく記録に残していない。ただ、「日米開戦でモンタナミゾラ抑留所に監禁され、同年六月紐育から第一次交換船で帰国」(「米國日系人百年史」)とあるだけだ。

1941年12月8日未明(ハワイ時間12月7日)、日本軍はハワイの真珠湾を攻撃。その数時間後には、アメリカ連邦捜査局と移民局の人間が、日本人、ドイツ人、イタリア人の家々をまわり、あらかじめ用意されたリストにある一世の男たちを逮捕、連行していった。彼らの大部分は日本語教師、新聞編集者、仏教の僧侶など、地域のコミュニティーのリーダーだちだった。


モンタナ州、ミズーラ抑留所へ

逮捕された男たちは、その後事情聴取を受け、釈放されるものもあったが多くが敵性外国人として、在外外国人抑留所に送られた。主な抑留所は、クリスタルシティー(テキサス州)、ケネディー(同)、シーゴビル(同)、フォートリンカーン(ノースダコタ州)、フォートスタントン(ニューメキシコ州)、オールドレイトンレンチ(同)、ローズバーグ(同)、サンタフェ(同)、クースキア(アイダホ州)、フォートミズーラ(モンタナ州)、サンドアイランド(ハワイ)である。

これらは、のちにアメリカ西海岸などに住む日系の1世と2世、約12万人が送られた全米各地の強制収容所とはちがって、アメリカ司法省と陸軍によって運営されていた。 

本人の言葉を借りれば、加藤が「監禁」されたのは、ロサンゼルスから北東に約2000キロ離れたモンタナ州にあるフォートミズーラ(Fort Missoula)という抑留所(camp)だった。

アメリカ大陸では、17世紀から開拓を続ける白人入植者とネイティブ・インディアンとの間で戦いが続けられていたが、フォートミズーラは、いわゆるインディアン戦争(Indian War)のため1877年に白人が築いた基地だった。ここに日米戦争がはじまると日系人やイタリア系の者約2200人が収容された。


捕虜交換のような日米交換船

抑留所に収容された日本人は、官吏をはじめ商社・銀行員、ジャーナリスト、学者などアメリカの日本人コミュニティーに大きな役割をもつ人物たちだった。同じように、日本や日本の支配下の地域にも開戦後、アメリカの日本人と同じような立場のアメリカ人がいた。両者は、互いに人質のような関係であり、そこで対米、対英に捕虜の交換のように両者を交換しようということになり、中立国を介してこの交渉を行った結果、1942(昭和17)年5月、交換に関する協定が結ばれた。

これを実行に移すために使われたのが「日米交換船」である。日本側、アメリカ側双方から、相手国側の人間を乗せた船を出し、決められた第三国の港に集合する。そこで、乗船者を“交換”するという仕組みである。日米交換船の場合、アメリカ側では交換船はニューヨークから出航することになった。したがって、交換船に乗るものは全米各地の抑留所などから最終的にニューヨークへ集められた。

加藤本人の記録はないが、同じようにアメリカにいて交換船で帰国した哲学者、鶴見俊輔が、文芸評論家の加藤典洋と作家の黒川創を前に語り、加えて黒川が交換船の記録をまとめた「日米交換船」(新潮社)のなかに、抑留から交換船での帰国までの模様が書かれている。

鶴見は当時東海岸、ボストンのハーバード大学に留学していて拘留され、メリーランド州のフォートミードに抑留されたのち交換船に乗るが、サンフランシスコ周辺の日本人商社員らの場合は、開戦から数日のあいだに百人あまりが逮捕され、移民局の留置場に収容され、その後モンタナ州のフォートミズーラ収容所に送られた。

その途中で、ロサンゼルス港ターミナル島の合衆国監禁所などから送られてくる日本人の被収容者と合流して護送列車は北上して、三日目の午後荒野のなかに2,30棟のバラックを鉄線で囲ったフォートミズーラ収容所に着いたという。西海岸からの話は、当時同盟通信のサンフランシスコ支局長の秋山慶幸の「同胞抑留生活の実情」がもとになっている。

では、抑留所から交換船に乗るまではどのような経路をたどったのか、これも加藤の場合はわからないが、鶴見がいたフォートミード抑留所では、交換船に乗って帰国することを希望するかどうかがアメリカ側から質問され、これに答えたのち帰国者が発表された。この段階で帰国はせず残留することを選んだものもいた。


交換場所は東アフリカのロレンソ・マルケス 

アメリカ側は交換船の詳細についても発表した。使用する船は、中立国スウェーデンのグリップスホルム号(1万8000トン)で、北米をはじめカナダ、メキシコ、中米、南米に在留の日本人が乗船することになった。この船は、ニューヨークから出てブラジルのリオデジャネイロでも人を乗せたのち、東へ向けて大西洋を横断し、アフリカ大陸の南端、喜望峰を回り、同大陸東側に位置するポルトガル領のロレンソ・マルケス(現在のモザンビークの首都マプト)で、日米両国の人間を交換することが明らかにされた。

一方、日本側では、日本郵船の浅間丸(1万7000トン)とイタリア船籍のコンテ・ヴェルデ号(1万9000トン)がその任務につくことになった。浅間丸は横浜を出て香港、サイゴンで現地からの帰還者を乗せ、コンテ・ヴェルデ号は、上海から中国の日本占領地からのアメリカ人を乗せて出航、両船ともシンガポールを経由し、インド洋を西に向かって横切りロレンソ・マルケスを目指す。

おそらく加藤も帰国を希望したから交換船に乗ることになったはずである。妻子については、このとき一緒に帰国したのか、1940年に帰国した時にそのまま広島にとどまっていたかは不明である。

いずれにせよ開戦からおよそ半年後、ようやく日米間の「交換」の手続きがととのい、1942年6月18日午前零時前、アメリカ側の第一次日米交換船グリップスホルム号はニューヨーク港を出航した。乗船者の数については、外務省の資料から日本人1066人、タイ国人17人の合計1083人と記録されている(「日米交換船」より)。このなかに加藤も含まれていた。

グリップスホルム号は、一路南下し赤道を越え、7月2日ブラジルのリオデジャネイロに寄港、4日には同港を離れ東へと進路をとり、7月20日ロレンソ・マルケスに到着した。

一方、グリップスホルム号から一週間遅れた6月25日、浅間丸は横浜港を出港、そして29日にはコンテ・ヴェルデ号が上海港を出航、ともに7月22日にロレンソ・マルケスに到着した。翌23日には乗船者の交換がはじまった。日本側の2隻に乗っていた者は、船を下りニューヨークから来たグリップスホルム号に乗り換え、反対にグリップスホルム号に乗っていた者は、そのうち北米組が浅間丸に、中南米組はコンテ・ヴェルデ号に分かれて乗船した。

こうして「交換」を終えると、日本側の浅間丸とコンテ・ヴェルデ号は7月26日に、そしてアメリカ側のグリップスホルム号は、同28日にそれぞれ自国へと踵を返し、日本側2隻は8月20日に横浜へ帰還、アメリカ側1隻は同25日にニューヨークへ帰還し、交換は無事終了した。

横浜の港に下り立った加藤のその後詳しい足取りはわからないが、まもなく郷里の広島で、戦渦の日々を経験することになる。

(敬称一部略)

第17回 >>

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一世の記録を拾い集めた男 ~加藤新一の足跡をたどって~

第15回 米國産業日報の編集長となるが……

前回、加藤新一が記者として所属していたロサンゼルスの日系新聞「羅府日米」をめぐるスト問題について簡単に触れたが、加藤が編集した「米國日系人百年史」のなかの「米国日系人の刊行物」のなかに、この点について詳しく書かれている。

それによると、実業家でもある安孫子久太郎はサンフランシスコで新聞「日米」を創刊し、ついでロサンゼルスにも進出を図り、「北米報知」(1915年発刊)を買収し、「羅府日米」を創刊した。

サンフランシスコの新聞「日米」では、安孫子久太郎社長と従業員側とが対立した結果、社長が編集部員に退社を求めた。これに対し従業員側は、退職者の復職や未払賃金の支払などを求めたが聞き入れられなかったため、ストライキに入った。

このとき、ロサンゼルスの「羅府日米」にいた加藤は、羅府日米の社員を代表し、いわば兄弟紙の「日米」の争議調停のため、同僚ひとりとともにサンフランシスコに出向いた。しかし、「日米社側が一応妥結案を承諾しながらも翌朝に至り寝返りを打ったため、社側に誠意なしとして直ちに羅府へ飛行機で帰り、従業員に報告」、そして加藤をはじめ幹部社員の三人は未払給料三ヵ月分の支払を受けて退社した。

自分が正しいことと思ったことは、実行に移すという加藤の性格を表わしているようなエピソードだが、同じようなことは戦後、加藤が中国新聞に記者として籍を置いていたときもあった。


「米國産業日報」で

「羅府日米」のあと1931年創刊の「加州毎日」の立ち上げとともに健筆をふるった加藤だが、本人によるプロフィールでは「1933年から南加中央農事会幹事、南加農会連盟支配人を勤め、その間朝の羅府農産物市況放送を創始」とある。加州毎日の記者の仕事をしばらく兼務していたようだ。

そして、農業関係の仕事の経験を生かしたのだろう、農家の支持を得て1937年からは「米国産業日報」という新聞の編集長に就任した。「米國日系人百年史」によれば、「同紙は、はじめ加藤が南加農会聯盟幹事としての傍らその週刊機関誌を発行していたのを、のち沼田利平その他の協力と、佐々木雅実らの有力者の後援下で「加州産業日報」という日刊紙として、1938年に改組、名を『米國産業日報』と改めたもので南加一円を地盤としていた」という。

ここに登場する沼田利平氏は、加藤と同じ広島の出身で、さらに戦後郷里広島で加藤と同じ中国新聞の記者となった。

米國産業日報は、「日刊紙のほとんどが夕刊(午後発行)であったのに対し、朝刊だったことも有利に作用し、日米開戦まで継続した」1

また、同紙は、羅府新報、加州毎日と並ぶ存在となり、購読料の値上げの際にも三紙合同で広告を紙面で掲載していた。


全米に広がる日系新聞

日米開戦前年の1940年の時点で、ロサンゼルスにはこの三紙のほか、週刊紙の「南加時報」があり、海岸地区のサンペドロ市では「南加沿岸時報」が発行されていた。中部カリフォルニアではフレスノ市に「中加時報」が、また州都サクラメントには「桜府日報」があった。

サンフランシスコ地方では、1899年創刊で全米に読者のある「日米」と、同じく広く読者を抱える「新世界朝日」があった。後者は、1935年に「新世界日日」と「北米朝日」が合併して誕生した。このほか週刊紙「太平洋時代」などがあった。

「米國日系人百年史」によれば、当時全米で日系の新聞は25紙発行されていた。

1940年に「全米日本人産業総覧」を編集した加藤は、この年一度日本へ戻った。昭和15(1940)年8月4日付の「日米」紙に、小さく「加藤新一氏 鎌倉丸 帰朝」という記事が載っている。ロサンゼルスの産業日報編集長の加藤が、妻と一緒に鎌倉丸で日本へ行き、四ヵ月滞在したのちアメリカに戻るので、その挨拶に日米社を訪問したとある。この記事の通り、戻ってきたと思われる加藤は、ひきつづき同紙の編集長をつとめた。

翌1941年5月21日付の加州毎日には、「米國産業日報社 創立七周年記念演藝會 一流の師匠總出の豪華版」の見出しで、三段の記事が掲載されている。

出演者の顔ぶれと、会のプログラムが載っているが、その一項目として 「在米同胞万歳 編輯長 加藤新一」とある。おそらく、加藤が編集長として万歳の音頭をとったのだろう。

まだ、このころは開戦の緊迫感はそれほどなかったのかもしれない。しかし、紙面のトップは「米國よ参戦してくれ 英紙が公然泣き付く 武器や慰問袋では足らぬ」との見出しが踊っている。「ロンドン発のニュース」として、すでにドイツと戦っているイギリスの新聞が、社説で対独戦勝利のためアメリカに参戦を求めている、という記事である。

この約半年後、日本軍がハワイの真珠湾を攻撃、日系新聞の編集長という職にあった加藤は、アメリカ連邦捜査局によって身柄を拘束された。

(敬称一部略)

第16回 >>


注釈
1. 「アメリカの日系新聞」(春原昭彦、『ソフィア:西洋文化ならびに東西文化交流の研究』28(4)1980-01-15) 

 

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一世の記録を拾い集めた男 ~加藤新一の足跡をたどって~

第14回 日系新聞の記者となる

中部カリフォルニアで父を手伝い農業に従事した加藤は、父が日本に戻るとひとりロサンゼルス近郊のパサデナに出て造園業をつく。しかし、まもなく日系新聞の記者となった。ジャーナリズムに長年携わる彼の原点である。

北米でもハワイでも、そして南米でも移民社会のなかからは自然と日本語の新聞が生まれる。言葉の壁によって情報を得るのが難しいなか、日本語での情報は生活に欠かせないからだ。初期の日本語新聞は、日本で自由民権運動に関わった青年たちによる政治的な文書という意味があったが、移民が増えるにつれて各地域のコミュニティー紙が拡大していった。

ハワイ、サンフランシスコ、シアトル、ロサンゼルスをはじめデンバーやソルトレークシティ、シカゴなどでも日系新聞は誕生した。加藤新一が記者として活躍していたロサンゼルスの日系新聞は、サンフランシスコよりかなり遅れて1903(明治36)年4月に創刊された『羅府新報』がはじまりだった。


羅府日米から加州毎日へ

大正時代に入り、日系人社会が発展し「リトル・トウキョウ」が形成されるころになると、『羅府日米』や『南加タイムス』などが創刊された。つづいて1931年には『加州毎日』が創刊された。こうした新聞は、経営上の問題や編集方針の違いなどから、廃刊や合併などが絶えず、人材も流動的だった。

加藤が所属した『羅府日米』や『加州毎日』もその例に漏れることはない。「米国初期の日本語新聞」(田村紀男、白水繁彦編、勁草書房)には、前者の廃刊から後者の創刊にいたる動きが、加藤の名も交えて以下のように紹介されている。

「一九三〇年の不況のあおりで、桑港の『日米新聞社』社内に賃金遅延などがあり、その不平を土壌に一九三一年に日米新聞争議がひきおこされる。この過程で安孫子久太郎社長の所有する『羅府日米』が売却され、間もなく廃刊になる。この『羅府日米』の社員でストに同情的な井上勇、加藤新一、松井豊蔵らは、一九三一年一一月、藤井整のもとに新しい日刊紙『加州毎日』を発刊するに至る」。

これをみると、加藤は最初『羅府日米』で記者をしていたが、つぎは発行人をサポートする形で『加州毎日』の記者となったことがわかる。

安孫子久太郎(1865〜1936)は、日本人移民のリーダー的な存在であり、事業家でもあった。彼は、出稼ぎ的な志向の強い日本人移民に、アメリカに定着して生活し地域の一員となるように啓蒙すると同時に、そのための活動も実践した。


日系新聞のデジタルアーカイブから

当時の日系新聞はどのようなものだったのか。加藤はどのような記事を書いていたのだろうか。調べていく中で、インターネット上で「邦字新聞デジタル・コレクション ジャパニーズ・ディアスポラ・イニシアチブ」というページにであった。

これは、アメリカのスタンフォード大学の「The Hoover Institution Library & Archives」のなかにあるもので、同サイト上の説明によると、

「アメリカ大陸、アジアにおける海外在住の日本人や日系人が発行した海外日系新聞を集めた世界最大規模のオンライン、オープンアクセス、全ページ画像を提供するコレクションです。新聞の画像を可能な限り光学文字認識(OCR)でテキスト化することにより、新聞記事の検索を可能にしました。各新聞は発行年月日、新聞名、発行場所ごとに閲覧でき、サイト内で他の新聞と横断検索ができます」とある。

ここにはアメリカで発行された日系新聞もデータ化されていて、キーワードによって記事検索ができるようになっている。ここで「加藤新一」で検索すると、本人が記者として書いたものと、本人について書かれているものが数十件でてきた。

1925年から1940年までの間の、『羅府新報』、『加州毎日』のほか『新世界朝日新聞』、『大北日報』、『日布時事』に載った、加藤新一が署名で書いた記事と加藤新一の名前が出てくる記事だ。


1932年ロサンゼルス・オリンピックを取材  

検索によって見つかった加藤本人が書いている記事は「トメト耕作者 統一運動の内容」(『加州毎日』1935年12月13日)のような農業関係の記事や論説のように主張を掲げた記事があったが、もっとも目をひいたのは、1932年7月30日付の『加州毎日新聞』の1面を飾った「ロサンゼルス・オリンピック開催」の記事だった。

「大會開く」という見出しのトップ記事のほか、「あすは勝つぞ 青年日本 初登場 見よ!」の見出しがついた、競技別の日本選手の活躍予想や「出陣を前に 抱負を語る選手たち」の見出しで、個別の選手のインタビューなどが紙面を埋めている。

当日の朝のスタジアムの写真も2枚掲載されているオリンピック特集だが、このなかで「メードイン日本 繪日傘の花野 日本新聞記者八十名」という見出しで、「オリンピック スタジアムにて 加藤新一記」という記事が2番手で掲載されている。

この年の7月30日に開幕したロサンゼルスオリンピックの模様をスタジアムにいた加藤が臨場感を漂わせ記している。以下、少し長くなるが加藤による開幕の模様を一部紹介しよう。

「歴史的開場式を見んものと押し寄せたる観衆は無慮十万餘、折角照りつける南加の陽光は、少々暑く、これを避ける日本国産の日傘は千紫万紅色とりどりにして一大美観を呈した。

定刻午後二時、カーチス副大統領はモーニングにシルクハットの服装で、大スタヂアム正門に姿を現わすや學内にギッシリとつめた十万餘の観衆は破れるごとき拍手を送る。

副大統領がスタヂアム北側正面一段高い名譽総裁席に着席二時三十五分観衆総立ちのうちに二千人の大バンドと一千人の大合唱團が場内を壓して米國々歌を奏する。

終わるや、ギリシャ代表選手を先頭にABC順で各國選手團が、各プラカードと國旗を先頭に西南入口から隊伍堂々と繰り込む。

日本選手は三時三分秩父宮殿下御下賜の絹地日章旗を先頭に既報の如き順序にて隊伍を整え、堂々と入場し万雷の如き拍手を浴びせかけられた。(後略)」

 この日の紙面の華となるような記事を任せられた加藤の意気込みが伝わってくるようだ。

(敬称一部略)

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