Ryusuke Kawai

ジャーナリスト、ノンフィクションライター。神奈川県出身。慶応大学法学部卒、毎日新聞記者を経て独立。著書に「大和コロニー フロリダに『日本』を残した男たち」(旬報社)などがある。日系アメリカ文学の金字塔「ノーノー・ボーイ」(同)を翻訳。「大和コロニー」の英語版「Yamato Colony」は、「the 2021 Harry T. and Harriette V. Moore Award for the best book on ethnic groups or social issues from the Florida Historical Society.」を受賞。

(2021年11月 更新)

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「米國日系人百年史」を読み直す~パイオニアたちの記録をたどって

第6回 南部加州の日系人~その2

第5回 「南部加州の日系人 ~ その1」を読む >>

アメリカにわたった日本人は、出身地や宗教、職業などを基準として多くの団体を組織していくが、その一つにロサンゼルスでは「南加中央日本人会」という組織が早くに誕生、さまざまな分野で戦争直前まで活動をつづけた。

「米國日系人百年史」第二章の「南部加州」では「第三節 南加中央日会の足跡」として、日系移民がまとまって相互扶助や権利の向上、そして生計の安定などのために奮闘してきた歴史をまとめている。

そのなかからおもだった動きを紹介したい。

南加中央日本人会は、1915年9月1日に発足。「同会は一九一一年度から在米日本人会代表者会へ代表者を送り、羅府日本人会を中心に漸く激化してきた加州排日土地法対策その他諸般の問題処理に当った。一九一四年四月九日南加各地の日本人会代表者が集まり、排日土地法など時局多端にかんがみ、従来の単なる連絡団体にすぎなかった『南加連合日本人会』を独立団体に改組を決定、・・・」。

関東大震災時には33万ドルを集める
 
その後の活動記録をいくつか拾ってみると、実に多岐にわたっている。

▼一九一六年=水害被害地救護、地方団体の紛争仲裁、婦人の日曜労働中止指導

▼一九一七年=賭博撲滅運動推進、在留民衛生状態の改善

▼一九一八年=排日漁業法案防止運動、写婚禁止に抗議運動

▼一九一九年=日本練習艦隊の歓迎

▼一九二〇年=各地日会に青年会設置と各地に農業組合設置奨励

▼一九二四年=関東大震災に南加から三三万ドルを集め救援

▼一九三二年=八月に第十回オリンピック大会と全米市民協会大会開かれ、共に歓迎援助。

▼一九三五年=満州、日支事変で米国の対日空気悪化につき日米親善の運動を展開

このあと、日米間の摩擦が激化していき、南加中央日本人会は日本へ献金をすると同時に日米親善を働きかけるといった、日系人の複雑な心境を映すような活動をしている。

1940年には、南加中央日本人会という名称は、「米国最大の日本人密集地にふさわしく」米国中央日本人会と改称。そしてこれから開戦まで、同会は時局に対応してめまぐるしい活動をする。

同年2月21、22日に高野山ホールで開かれた定期代表者会議は「終始空前の大緊張を示した」。ここで時局対策決議がおこなわれる。

▼決議文 日系米国市民の父兄たる吾人米国中央日本人会代表者は、第二の故郷たる米国に於いて常に種々の恩恵に浴する機会を与えられていることを感謝す。非常時の場合は米国のために市民同様、総ての義務を遂行するに毫も躊躇するものに非ず。(以下略)

日本人として、アメリカ国民として

すでに二世への招集もはじまり、志願兵や徴兵の招集に応じて入営する前には、米国中央日本人会が奨励して壮行会が盛んに開かれた。同会の時局委員は彼らを激励した。

その内容は、「~米国の模範的兵士となって大和民族の真心と優秀さを示し、もって世界における日本民族の価値を高めよ。諸君は、人種としては日本人であるが、諸君の国籍はアメリカにあり、立派なアメリカ国民である。後顧の憂いなく、誠心誠意を以ってアメリカに忠誠を尽くし、以って日米親善に貢献されよ~」というものだった。

時局委員会は華府(ワシントンDC)にも出かけ、日米関係が最悪の事態になったとき在米日本人の十分な保護をアメリカ政府へ陳情、ルーズベルト大統領夫人や司法長官とも面会した。この結果、公正な保護を約束された。

また、ロサンゼルスにある英字紙の編集長などを川福亭や一富士亭といった料理屋へ招待したり、ロサンゼルス郡の米国在郷軍人の幹部団を招待して親善をはかった。このほか地元の有力者による時局講演会などを日本人のために開いた。

1941年夏には、ワシントンDCに赴任する野村吉三郎大使にもサンフランシスコでカリフォルニアの日本人の実情などを伝えた。

しかし、こうした努力も41年12月7日の日本軍によるパールハーバー奇襲で水泡に帰す。その日の午後4時、中央日本人会は緊急時局委員会を開き、善良なる米国市民として米国の法律規範を忠実に守るようにといった決議文を通過して散会した。その夕刻から、時局委員の大多数は有力敵性外国人として捕えられた。

こうして米国中央日本人会の活動は幕を閉じた。

 

(注:敬称略。引用はできる限り原文のまま行いましたが、一部修正しています。また、地名については「百年史」にある表し方を基本としました。)

第7回 >>

 

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「米國日系人百年史」を読み直す~パイオニアたちの記録をたどって

第5回 南部加州の日系人 ~ その1

第4回「北部加州の日系人」を読む >>

「米國日系人百年史」(1961年)を編集した新日米新聞社がロサンゼルスを拠点としたということもあるだろうが、ロサンゼルスを中心とする本書の第二章「南部加州 (SO.CALIFORNIA)」は、全1431ページのうち440ページにもわたっている。

なぜこれだけの分量になるかというと、そのほとんどが紳士録的なページで、南カリフォルニアで事業に成功した現地での著名人をはじめさまざまざな分野で活躍してきた日本人、日系人についての紹介にあてられているからだ。

そのなかには、本書を出版した新日米新聞社の社長であり弁護士の城戸三郎も含まれている。また、短命に終わった新日米新聞社についても、設立に至る経緯や事業内容などについて2ページにわたって紹介されている。

同社の社屋は、ロサンゼルスの「345 E.2nd St. 」にあり、写真で見ると3階建てで、1960年春に同社内で撮影された社員18人がそろった写真(以下)も掲載されている。日本語メディアがまだ勢いのあったころの様子がうかがえる。

また、広告記事のなかにはこのころ日本に進出してまもない「アメリカン・ホンダ・モーター会社」(社長、本田宗一郎)や、「ハリウッドトヨタ自動車株式会社」、「アメリカ松竹」などが登場する。

最初の日本人は1870(明治3)年

「第一節 南加州の日本人の沿革」、「第二節 南加州日系人の農業」では、日本人の足跡とこの地で日本人が地盤をつくった農業の発展について細かく記録されている。

これによれば、ロサンゼルスの初期の日本人に関しては、1870(明治3)年に日本人2人が在住していたことが確認された。また、「1887(明治20)年には、田中孝平(ベイカスフィルド前日会長)が渡米し、白人家庭の料理人としてサンデーゴ市に入り込んだ等は最も古い史実である」とある。

このほか、「1893(明治26)年森田群治がサンバナデノ町に於ける街路樹植えつけ樹木の買い入れを請け負った」ともある。

その3年後には、日本食料品店が初めてメーン街のプラザ公園付近で開業して、この地域の日本レストランも相当繁盛したが、日本人排斥の声もあがった。また、「1898年サンタフィ線及サンピドロ鉄道が南加新線の敷設工事に日本人を使役した。これが為羅府に於ける邦人は急激に増加を示し、その翌年はその数二千人と称された」という。

1906(明治37)年末時点でのロサンゼルス市とその近郊の日本人の数は、6889人と思われる。

農業については、最初に日本人がこの地で農業に従事したのは1900年前後で、柑橘園や砂糖大根園で働いていたのが、その後急増し1905年ごろには約5000人になり、日本人経営の農園は、規模の大きな順に砂糖大根2400エーカー、セロリ1894エーカー、野菜類1280エーカー、イチゴ類687エーカーとなっている。

1906年のサンフランシスコの大震災によってロサンゼルス地域への移住者が急増したが、白人労働者から暴行・排斥を受けたこともあった。その後排日土地法(第一次、第二次加州排日土地法)の影響で、非市民は土地が所有できず、土地会社の株主になることもできなくなったため法律通過前に多くの日系人によってこうしたに土地会社が設立された。

戦後は住宅開発で農業は制限される

その後大恐慌を経てこの地の農業は隆盛を極めるが、日米開戦を迎え根底から覆される。

「借地、歩合耕作者など収穫直前の作物を多少にせよ金にした者は良いが、しからざる者は二束三文に叩き売るか、あるいは債権者に募集されるものも続出という一大混乱下に将来がどうなるか五里霧中のうち、それぞれ涙を呑んで奥地へ立ち退いた者もあり、各収容所入りを余儀なくされたものであった」と、解説する。

終戦直後は対日感情の問題もあり帰還に二の足を踏んでいた日系人だが、農業家として帰還一番乗りしたのは、当時の記録では「サンタアナの仁田正助と西羅府の近沢頼雄の両人だと言われる」。戦後の食糧不足からWRA(戦時転住局)からは日系人の農業経営は歓迎された。

しかし、住宅開発によって農耕地は徐々に狭隘になった。オレンジ郡では1950年ごろから住宅化が進み、とくに「ディズニーランド」の建設以後は農耕は制限されてきたという。

 
(注:敬称略。引用はできる限り原文のまま行いましたが、一部修正しています。また、地名については「百年史」にある表し方を基本としました。次回は「南部加州の日系人 その2」で戦争直前の日系人団体の対応などを紹介します。)

 

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「米國日系人百年史」を読み直す~パイオニアたちの記録をたどって

第4回 「北部加州」の日系人

「米國日系人百年史」(1961年発行)は第一篇「総論」と、第二篇「各州日系人発展史 地方篇」の二つに大きく分かれる。このうち、全体の約3分の2にあたる1000ページほどをさいて全米各州別に日本人、日系人の百年の足跡をたどっている。ページ構成をみると、カリフォルニア州だけが北部、南部、中部とわけられ全体の約半分を占め、残り半分が他の州にあてられている。

各州とも「最初に日本人がこの州に踏み入れたのはどこで、どういう日本人が何のために移住してきたのか」といった、日本人移住(移民)のルーツを可能なかぎり記している。そして、各地に日系人が定住し、どのようにコミュニティーをつくり、発展していったかを俯瞰する。

また、戦時中はどのような経験をしてきたのか、戦後の復興はどうであったか、世代がかわってどのようにコミュニティーや各種日系の団体が活動してきたかを、具体名をあげて記している。名士や成功者、異色の存在についてはその横顔を紹介する。

北カリフォルニアからたどる

本連載では第4回以降、「米國日系人百年史」を各州別に読み、その内容を紹介していく。今回は第1章「北部加州」。その第1節「日本人先着の地桑港」では、次のように記している。

「わが在来日本人活躍の端緒は、桑港を振り出しに展開されて居る。初期時代の在住日本人の中に米人雑貨商店に勤務していた佐藤百太郎が当時渡米しても西も東も分からない新米者に対し、種々な便宜を与え、働口の周旋をしており、後ち布哇から転航した牧野富三郎も亦同時代支那人桂庵に出入して労働口を日本人に供給し合っていた。…」

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初期の団体である福音会や商店銀行の開業、1906年の桑港の大地震と日本人に与えた影響、また日本人墓地の存在に触れている。このあと、地域別に紹介。

「第2節 湾東地方の日系人」の湾東とは、オークランド、バークレー、アラメダの三市を総括した呼称。「日本人は農業、商業、洗濯業、花園業に多年の地盤を有し…」とある。

「第3節 湾南地方の日系人」で解説するのは、サンフランシスコ湾南西のサンマテオ、パロアルト、マンウテンビュ、サンノゼ、ギルロイといったまちと日系人について。このうち、サンノゼあたりに最初に入った日本人は広島県人で1892年とある。

つづいて「第4節 中部沿岸の日系人」というのはサンノゼの南、太平洋沿岸のワツソンビル周辺、サンベニト郡、サンタクルズ、サリナス、モントレーを指している。サリナスの日本人農家はレタス栽培を得意としていたという。モントレーでは「野田音三郎はハエナワ式漁業を試み頗る有望なことを認め多くの邦人に漁業創始の端を拓いた」とある。

「第5節 湾北地方の日系人」では、ソノマ郡がまず最初にあげられているが、ここはのちに「葡萄王」といわれた薩摩藩士、長沢鼎がイギリス留学からの帰途、アメリカに入国後に移住した地として知られることなどを記す。

「第6節 桜面都平原の日系人」は、州都サクラメント市周辺について。正確な記録はないが、1890年には「日本人の成業者が一軒あったと伝えられている」とする。このほかフロリン、ルーミス、プラーサ郡、メリスビル、コートランドなどについて紹介する。

戦争開始後の出来事なども掲載

「第7節 河下地方の日系人」では、サクラメント川に沿った、コートランド、ウオナッツグローブ&アイルトンの3地方でのさまざまな日系人の活動に触れる。その一つが1914年の「河下学園」なる日本語学園の開校。また、1915年に日本人家屋70余戸を焼き払う大火の記録も。

このほか、7節ではストクトン市について、農園開拓の先駆者として牛島謹爾(うしじま・きんじ)の事業について詳述している。異色の入植事業である「コーテズ植民地」の紹介もある。

第8節は、「北加州日系人の戦後復興」で、戦争による強制立ち退きによって離散した日系人たちが、どのように再興を果たすか、あるいは別の道を歩んでいくのかなどをみる。そのなかでサンノゼを「北加各地において日系人の帰還又は新移住者の、もっとも多数をみた」としている。

「第9節 戦時戦後の産黄金平原」では、戦争勃発後の混乱、関係する収容所での生活などを記す。サクラメントでは、日本軍のフィリピン攻撃の影響で、フィリピン人の暴動が起き、「山口県人木村儀一が自分の店さきで、客と見せかけて入った比島人の為めにピストルを乱射され即死する惨劇も起った」と記す。

「第10節 北加州の日系人団体史」では、対排日運動への対処や日本人会、日本人商工会議所をはじめ、各地域の県人会、故郷会、そして仏教会など宗教団体について細かく情報を載せている。

“紳士録”的な記事としては、叙勲者、事業成功者十数人を特集している。

(注:引用は原文のままに行いました。また、地名については「百年史」にある表し方を基本としました。敬称略。次回は「南部加州」をみていきます)

 

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「米國日系人百年史」を読み直す~パイオニアたちの記録をたどって

第3回 移住、被爆体験、平和運動へ ~ ジャーナリスト、加藤新一の仕事(下)

第2回 「加藤新一の仕事(上)」を読む >> 

新日米新聞社の編集主幹として「米國日系人百年史」を取材、執筆、編集した加藤新一は、太平洋戦争を挟んで日米を行き来して生涯を終えた。アメリカに対する思いは被爆体験からすれば複雑だったはずだが、アメリカの民主主義を評価し移住した日本人・日系人の足跡を記録、後半生は平和運動に尽力した。

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加藤は1900(明治33)年9月広島市に生まれる。1916(大正5)年、修道中学1年のとき、すでにカリフォルニアのフレスノでブドウ栽培をしていた父親に呼び寄せられ、現地のハイスクールに通った。23年に父親は帰国するが加藤はロサンゼルス郊外のパサデナに落ち着いた。

1925年に羅府新報に入社、その後加州毎日で3年記者として働いたのち、アメリカ資本に押される在米同胞のために産業組合運動を推進、「米国産業日報」という機関紙を創刊し副社長兼編集長となった。また、南加州農産連盟支配人をつとめた。

しかし太平洋戦争がはじまると社の幹部であった彼は、1941年2月から42年6月までモンタナ州のミヅラ収容所に抑留される。ここは司法省管轄の収容所の一つでアメリカ政府にとって問題ありとみなされた「アメリカ市民以外の人間たち」が収容された。

1942年8月には第1回の(戦時)交換船で帰国し、翌年9月に郷里の広島にある中国新聞社に入社、広島に原爆が落とされたときは報道部長だった。8月6日午前8時15分の原爆投下の直前、加藤は出勤途中で宮島線己斐駅(西広島駅)で、市内電車への乗り換えのため行列の末尾で朝刊を読んでいた。                                 

一瞬の青白い大閃光と大轟音にたたきつけられた彼は、すぐさま市内の中国新聞社へ向かい、その後自宅の平良村(廿日市市)へ戻る。この間市内で見聞きした凄惨な光景はのちに「原爆生き地獄を往く~一老記者のピカドン体験記」として著している。

* * *

「兵隊さん、水を」という断末魔の声を耳にしながら、どうすることもできず心で詫びて突っ走る。「黒焦げの死体や半死半生の被爆者やタイヤの燃えた自転車を飛び越えて進む…」、「逃げ遅れた男女中学生たちが、熱さにたまらず、水をもとめて水槽に折り重なって赤くユデダコのように死に、なかには握りコブシを高くあげ、苦しみつつ絶息…」

また、墜落した米機から逃れた米兵が民衆にとらえられたのだろう。

「…電柱に赤くただれた大男が針金でくくられ、往来する人々が何か言いながら煉瓦や小石を投げている」。

自宅にいた妻子は無事だったが、3日後に弟が死亡した。終戦後は、アメリカ原爆視察団に同行したスイスの万国赤十字代表2人の案内や通訳に駆り出され、凄惨な現場を何度も歩き回った。そして1ヵ月後には妹が、「兄さん仇を討って」と言い残し亡くなった。

終戦後は編集局次長、文化局次長などを歴任するが、同社で従業員組合が結成されると初代の組合長に就任し活躍。1949(昭和24)年4月からは当時の楠瀬常猪知事に請われて初代の広島県広報委員会委員長をつとめるかたわら日本国際連合協会広島県本部の事務局長となる。

東西の冷戦がはじまり、核戦争の危機が現実味をもって危惧されるようになったころで、自らの被爆体験もあり世界平和を希求する加藤は、こうした対立を避けるため世界政府をつくろうという世界連邦設立の運動に関わる。1952年11月に世界連邦建設同盟のアジア会議が広島で開かれた際は事務局長をつとめた。

翌1953年4月には再び渡米、日米間の文化・経済交流事業に関わり、その後ロサンゼルスの新日米新聞社の編集主幹となってから「米國日系人百年史」を手がけることになる。そして、同社が幕を閉じた1967年に再び日本に戻り、世界連邦広島県協議会理事長をつとめ、海外にも足を運び世界連邦主義を説き、第3代国際連合事務総長ウ・タントが提唱した「地球市民運動」では、地球市民広島連合代表となった。

「一国で平和を保たれる国なんかありゃーしない。キミ、二十一世紀の平和哲学は“相互依存”。人類は同じ家族なんだ。・・・」、「国連に人民会議を作らせる。国家をなくし世界を一つの連邦に。軍事費を太陽エネルギーの開発と食糧増産へ向けるんだ。…」(1978年5月26日付中国新聞)と、加藤は生前訴えている。

1978年、第1回国連軍縮特別総会にあわせて、ニューヨークで市民団体が開いた「生存のための大動員集会」には、原爆で亡くなった弟と妹の遺影を胸に参加した。かつてのアメリカへの復讐心は平和運動へのエネルギーに転嫁していた。

平和運動の一方で、自らアメリカ移住経験者でもある彼は、在米の広島県人とのパイプ役となる「広島北米クラブ」の発起人にも名を連ね、移民先から帰郷する際の便宜を図ることにも尽力した。

1982年2月9日、広島市の自宅で脳梗塞のため81歳で生涯を終えた。ジャーナリストとして平和運動家として、行動し理想を求めた熱血の生涯だった。(敬称略)

第4回 >>

参考:

「平和競存の創造」(1971年、加藤新一著、地球人友の会発行)
「ながれ」(1954年、村上哲夫著、村上十目子発行)
「1978年5月26日付中国新聞広島版」
「1982年2月10日中国新聞・加藤新一氏訃報)

 

※編集部より:読者のみなさんのなかで加藤新一氏のご家族などについてご存知の方がいらしたら、ディスカバーニッケイまでご連絡願います。今後の取材の参考にさせていただきます。連絡先: Editor@DiscoverNikkei.org 

 

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「米國日系人百年史」を読み直す~パイオニアたちの記録をたどって

第2回 全米を9ヵ月、4万マイルにわたり取材 ~ ジャーナリスト、加藤新一の仕事(上)

1961年末にロサンゼルスの新日米新聞社より出版された1431ページにおよぶ「米國日系人百年史」のあとがきを「編者」として、取材、執筆にもあたった加藤新一がまとめている。

そのなかで加藤は、「戦後は米本土の殆ど全域に及ぶ米國日系人の歴史を、今にして誰かが綴り残さなくては、日本民族が、この北米大陸に苦闘を重ねて築いた貴い『百年』の歴史を湮滅することを恐れた」と、使命感を示している。

また、どのような出版物にするかについては「百年の奮闘報告書」として、日本へ向けて日系人の歴史を残し、かつ将来誰かが綴るであろう英文による「在米日系人史」の資料として次世代に残すということを主眼にしたという。

こうした意図のもとに、加藤は1960年の6月以来9ヵ月をかけ4万マイル(約6万4000キロ)におよぶ全米各州への自動車独走の取材旅行に出たと記している。アメリカの東西横断がざっと3500マイルだから11回横断した距離に匹敵する旅である。しかし実際はもっと長かったのかもしれない。

本書の翌年に、この百年史のダイジェスト版のようなかたちで加藤は「アメリカ移民百年史」(時事新書)を著している。

そのあとがきでは「なにかに『ツかれた』というが、全くカリフォルニアから行を起こし、華氏百度前後の酷暑のまっただなか、また零下十度前後の極寒の雪中突破など全米を回ってロサンゼルスに帰るまでの十ヵ月、八万キロ(5万マイル)に及ぶ自動車による独走旅行を強行し、自分ながらよくやり通せた-と『健康』を与えられた天と亡き両親に感謝したこと、再三であった」と振り返っている。

取材にあたったとき加藤はすでに還暦を迎えているが、「40年近い新聞人生活最後の奉公としてこの大事業に取り組むに至った」と、気概を表している。

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フロリダなど辺境の地にも残る取材の足跡

新日米新聞社では過去に「全米日系人住所録」を発刊しているので各地の日系人との連絡網を備えていた。加藤はこれにもとづいて各地の日本人、日系人を訪ねて行った。しかし、それにしても、まだ州をまたぐインターステート・ハイウェイも建設がはじまったばかりのころであり東奔西走の複雑な旅だったとも想像される。

実際どのように走ったのか、実に知りたいところなのだがいまのところそうした記録には出合っていない。しかし、思いがけないところで彼の取材活動の一端を知った。

ここ数年私は、20世紀の初めにフロリダ州南部に日本人によってつくられたヤマトコロニーの歴史について調べているが、その過程で森上助次という人物が戦後家族にあてた膨大な手紙のなかに加藤新一の名前を見つけた。

このコロニーはニューヨーク大学を卒業した酒井醸をリーダーとする日本人によって建設された。森上は数少ない日本人として戦後も現地に残り、晩年地元に土地を寄贈、これがもとでいまでは立派な日本庭園などができている。加藤は、日本人にはあまり縁がないように思えるこの南フロリダで暮らす一世たちを確かに訪ねてきていた。

1961年1月の手紙で森上は「加州羅府新日米新聞社の主幹加藤新一氏」が「日米修交百年祭を記念する全米日系人発展紳士録を発行するため」に来訪し、酒井醸の写真を借りたいと頼んできたと書いている。森上もインタビューを受けたようで彼については本書の「第二十章 フロリダ州」のなかに詳しく出ている。

「従来収録されたことの無い辺境の地域まで含めた」と自ら言っているように、加藤は同様に全米各地で1世、2世を訪ね歩き、聞き取りをしたり資料を集めていたようだ。カリフォルニアについてはこれまでの付き合いから情報は、各地の有志の協力などにより集められたようだが、遠方の情報はまさに足で稼いで得るしかなかったはずである。各地で暮らす登場人物の固有名詞の数をみると恐るべき情報量である。

また、取材、編集、印刷をわずか1年半、昼夜を問わずの作業で完成させたというところも驚く。しかし、短期間で収集した膨大な情報について検証するのは不可能であり、また漏れている情報はもちろんある。その点については、加藤も重々承知で、「すべての本は修正されるためにある」という言葉を引用しながら、本書が「将来に於いて何人かがこれを修正し、一層よきものとすることを期待するものである」と謙虚に語っている。

海外における日本民族の苦闘と発展とともに、その背景にある米国民主主義の偉大さを見てとってほしいとも加藤は願う。

だが、彼とアメリカとの関係は実は複雑なものであった。原爆が投下されたとき、中国新聞の報道部長として広島市にいた彼は凄惨な光景を目にした。そして被ばくよって弟と妹を亡くした。(敬称略)

第3回 >>

 

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