Ryusuke Kawai

ジャーナリスト、ノンフィクションライター。神奈川県出身。慶応大学法学部卒、毎日新聞記者を経て独立。著書に「大和コロニー フロリダに『日本』を残した男たち」(旬報社)などがある。日系アメリカ文学の金字塔「ノーノー・ボーイ」(同)を翻訳。「大和コロニー」の英語版「Yamato Colony」は、「the 2021 Harry T. and Harriette V. Moore Award for the best book on ethnic groups or social issues from the Florida Historical Society.」を受賞。

(2021年11月 更新)

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「米國日系人百年史」を読み直す~パイオニアたちの記録をたどって

第24回 イリノイ州の日系人

イリノイ州はIllinoisと表記するが、これをそのままローマ字的に読んだのか、「百年史」では、第十八章「イリノイス州」と表記している。英語をカタカナに表わすのに決まった法則があるわけではなく、また、英語を漢字に置き換える仕方も決まりがあるわけではないようなので、百年史でも今日では使われない表記がある。イリノイ州の代表的な都市はシカゴだが、これは市我古と表記されることがある。  さて、「百年史」イリノイ州の章では、シカゴ市やその近郊の日本人、日系人の足跡をまとめている。 シカゴ万博からの先駆者たち まず、「先駆者たち」について。シカゴで万国博覧会が開かれたのが1893年。これを目当てに一旗揚げようとして乗り込んだ日本人がいた。百年史ではシカゴ万博から1904年のセントルイス万博までの期間を先駆者時代というべきだろう、と言っている。 この先駆者としてまず紹介されているのが西亀之助。 「彼はそれまで桑港で紀の国屋旅館を経営、手広く日本移民の世話をしていた。シカゴ博覧会でひと儲けしようと乗込み、場内に売店を設け、竹細工や日本雑貨品を販売し、はじめて日本品を紹介した功労者であった。博覧会キングと呼ばれた櫛引弓人も在シカゴ万博に日本茶園を出し好評を博したことがあった」 このほか、前山千太郎(和歌山県人)は繁華街に美術土産物店を開いて大成功。山崎安馬(高知県人)は、セント…

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第23回 中央部五州の日系人

「百年史」では、カリフォルニアなど西海岸の諸州では多くのページを割いていたのが、アメリカ中央部の州ともなると、日本人の足跡や実績は少ないのか、あるいは情報も少ないのか、きわめて限られたページで紹介しているに過ぎない。 「第十七章 中央部五州」として紹介されているのは、北からアイオワ(Iowa)、カンサス(Kansas)、ミゾリー(Missouri)、オクラホマ(Oklahoma)、アーカンソー(Arkansas)の5州である。 5州とも戦前の日系人の人口は統計によると、1940年時点でオクラホマ29人、カンサス19人、ミゾリー74人、オクラホマ57人、アーカンソー3人と少ない。これが戦後に急増するのは、「軍人花嫁の増加」であるという。1960年をみると、人口はそれぞれ599人、1362人、1472人、749人、237人となっている。 各州別に日系人の足跡を追ってみると……。 アイオワ州の日系人 アイオワ州で農業としての日系人の足跡はまれだが、異色の存在として、4200エーカーの借地でポテトやコーンを耕作した仏円幸彦(広島県人)がいた。農業のほかでは、戦前から少数の日系人雛雌雄鑑別師が季節的に入り込み、戦後は首都デモインに定住した。 デモイン市はノルウェー人などスカンジナビア人が多く、人種的な差別はほとんどなかった。この地に定住した日系人は1…

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第22回 中央北部三州の日系人

中央北部三州とは、ミネソタ(Minnesota)、南ダコタ(South Dakota)、北ダコタ(North Dakota)の三州を指している。百年史では、第十六章で10ページを割いている。 ミネソタ州 「一八九三年のシカゴ万国博開催以前に、田中楠太郎経営の百貨店「起立工商会」や「関西貿易商」と呼ぶ日本人商店がセントポールに在り、松原重栄らが営業にあたっていたというからずいぶん古い話である」と、日本人のこの州でのさきがけについて触れている。 日本絵画など美術品を扱って成功した北川留太郎、病理学の権威としてアメリカ人にも知られ、ミネソタ大学などで教鞭をとった池田叶博士。このほか、福井県出身で軍艦のスチュワートから茶店を経営した山崎与四之助、広島県出身で東洋美術店を経営する赤松次郎が、戦前の日系人として活躍した。 留学生としてミネアポリスに来た日本人もいた。なかには中国料理店で働いていた人もいたが、日本と中国との関係が悪化して日本人は解雇された。  陸軍語学校で日系兵が教育される  日系人のほとんどが双子市と呼ばれるミネアポリス市とセントポール市に集まっていた。日系人の人口は1900年に51人でその後微増するが、戦前の1940年には51人と戻り、その後急増して1960年には1726人になる。双子市に日系人が定住した理由についてこう言っている。 「彼らは人種差別の憂き…

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第21回 テキサス州の日系人

「百年史」は、「第十五章テキサス州」に36ページを割いている。ここで紹介されている日本人は、他のたいていの諸州の章に登場するこれまでの日本人移民と、その活動の内容が異なる。テキサスでは、出稼ぎ労働者的な移民もいるが、際立つのはおもに米作のために、日本から資本を投下して入植地を作ろうとする試みである。 入植事業にかかわったものをはじめ、初期の移民のなかで目立った活動やユニークな例などをエピソードを交えて読者をひきつけている。 こうした例を、いくつかまとめて再録するが、その前に、テキサスにおける日本人の存在の概説が書かれているので、それをまとめてみる。 日本人とテキサスの記録に残る最初の関係は、綿花取引に関わり1895年に日本綿花株式会社がテキサス綿花を直接輸入したことに遡る。しかし、それ以前に港町ギャルべストン(ガルベストン)に船乗りとしてやってきた日本人が上陸して、暮らしたと考えられる。 このほか、1899年には地理学者であり衆議院議員の志賀重昂が米国調査のためテキサス州を旅した。有名なアラモの古戦場の跡では、志賀の詩文を刻んだ石碑が建てられている。 1903年には、政友会の代議士で、同志社社長の西原清東らがヒューストン郊外へ米作のために入植、その後も州内各地に米作や柑橘の耕作のために入植者がつづき、各地で開拓がはじまり、やがてテキサスに米作ブームがおきた。 テキサス…

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第20回 ネブラスカ州とニューメキシコ州の日系人

ネブラスカ州 ネブラスカ州は平野が多く、地味豊沃で農業や畜産に適している。おもな産業は農業で、穀物、果物、野菜、砂糖大根、牧草など多種類で、馬の名産としても知られる。州都のオマハは製造業が盛んである。 この州に本格的に日本人が移住してきたのは、1904年で、岡島金弥によってオマハの缶詰工場に約120人が送り込まれたのが最初とみられる。 そのほかの移住者としては、UP鉄道、バーリントン鉄道の沿線に、集団で送り込まれたものがいて、その後、付近の農園で働き、なかには農業家として住みついたものもいる。 商業としては、オマハ、ノースプラット、スカッチブラフなどでホテルや洋食店、日本美術雑貨店を早くから開いたものがいた。なかでも、1960年代までつづいている代表的な店に、オマハの東洋貿易商会、ノースプラットのパレス・ホテル、スカッチブラフのイーグル・カフェーがある。 このほか、リンカーン大学には古くから日本人留学生が学んでいた。 白人と日本人の結婚を禁止 ネブラスカ州内の日系人の人口は、1900年に2人だったのが1910年には590人、以下1920年804人、1930年、647人、1940年480人、1950年619人、1960年905人となっている。(国勢調査より) 「百年史」では、州内の各地域別に日系人の歴史を記録している。 オマハ市のなかで、以下のような興味深い記…

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