Ryusuke Kawai

ジャーナリスト、ノンフィクションライター。神奈川県出身。慶応大学法学部卒、毎日新聞記者を経て独立。著書に「大和コロニー フロリダに『日本』を残した男たち」(旬報社)など。翻訳に日系アメリカ文学の金字塔「ノーノー・ボーイ」(同)。「大和コロニー」の英語版「Yamato Colony」は、「the 2021 Harry T. and Harriette V. Moore Award for the best book on ethnic groups or social issues from the Florida Historical Society.」を受賞。

(2021年11月 更新)

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一世の記録を拾い集めた男 ~加藤新一の足跡をたどって~

第25回 世界連邦建設への訴え

行動するジャーナリストである加藤新一は、書き残したものはすくない。少しでも本人の書き残したものがないか、故郷広島の「広島平和記念資料館」の「平和データベース」で「加藤新一」で調べてみた。すると本と雑誌のなかからいくつか加藤の書いたものがでてきた。

その一つに「平和競存の創造」という出版物がある。「著者 加藤新一著編」、「出版者 地球友の会」、「出版年 1971年12月20日」、「頁数47」となっている。それ以上はわからないので、同資料館内の情報資料室を訪ね、実物を見せてもらった。

それは、どうやらいわゆる自費出版的な冊子で、奥付には編集者加藤新一、発行人加藤新一とある。発行所は「地球人友の会」となっているが、その横の所在地をみると加藤の自宅住所と同じだった。さらに書名の横には小さく「非売品」とある。

「編著者略歴」の最後には、「現在は、世界連邦広島協議会理事長。ワールド・フレンドシップ・センター理事。地球人友の会世話人。」となっている。推測するに、地球人友の会は加藤が立ち上げたもののようだ。


ハワイに世界連邦研究会を

本書のなかで、加藤は「アメリカに渡り世界連邦を説く ハワイに世連研究会が発足」と出した評論を書いている。冒頭にある説明によると、この文章は加藤が1970年8月から3ヵ月アメリカを訪問した際、ロサンゼルスの邦字紙『羅府新報』に連載した「宇宙時代の指標」と題して寄稿したもので、アメリカ在住の日系人に対して書いた。

また、加藤がアメリカ往復の途中、ハワイ・ホノルルに5泊して、現地のラジオ放送や新聞に啓蒙活動をおこない、講演や座談会を開いた。そして1970年11月中旬に、ホノルルに世界連邦研究会を発足させたという。ここからも加藤の旺盛な行動力がわかる。

評論の本論では、アメリカ社会での世界連邦の意義などを在米の日系人に向かって熱く語っている。以下、部分的にそのままを紹介しよう。

「米国連邦制を世界的に」

世界連邦運動とは、在米日系人の皆さんには縁遠いことのようですが、それはただ現在のアメリカ合衆国の連邦制度を世界的に拡大するにすぎません。また東西両陣営の無意味な軍備競争や紛争での高い税金の悩みを軽減することであり、さらにいまアメリカ社会のガンとなっている黒人問題の解決策にもつながる最も身近で切実な問題であることをご存じの人々は案外少なくないようです。

欧州の封建的な古い社会からのがれて米大陸に渡り自由の新天地を拓いた英雄的で人道的なアメリカ人が、その建国精神にもどり、新しい世界全人類的な平和競存時代の先頭にキリスト教国として立たなければ後世の笑いものになることを憂慮します。

「アメリカぼけ」日系人

あまりに極端なようですが、日本のような戦争に敗れ、人類最初の原爆体験者(特に私たち広島県人は)であり、資源に乏しい島国に一億余の大人口を抱え、しかも東西両陣営の谷間ですでに国境を越えての体制争奪戦場にさらされている内地人のわれわれには、失礼ながらアメリカの人々全体が「アメリカボケ」しているようにうつるのです。

世界連邦とは、アメリカの人々にとっても対岸の火災視どころか、世界人類全体の切迫した問題であり、とくに高い税金難と黒人問題では足許に火がついているのです。税金を安くする最も早道は、国連を世界連邦的に強化して各国の軍備を漸減することであり、黒人問題解決も、世界連邦を実現するほどの人々の頭が人類一体観にまで成長しなければダメです。

(中略)

世界連邦運動はアインシュタイン博士や湯川秀樹博士ら核物理学者が、広島や長崎への原爆投下に対し、いち早く唱え、日本では故尾崎行雄翁が昭和21年春の国会に世界連邦建設を日本の国是にする決議案を出したことは有名です。

日本のこの運動の中心である世界連邦建設同盟は昭和23年8月6日(広島の原爆記念日)に東京で尾崎行雄総裁、賀川豊彦副総裁の陣容で発足したことでもわかるように、「安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませぬから」という広島原爆慰霊碑の誓いによる使命感で運動が展開されています。

(中略)

日本は国連中心の平和主義という目標を持ちながら一億一心、忠君愛国で惨めな敗戦を体験して国家目標に尻込みし、戦後は大人も生活目標を持ち得ずただガムシャラに経済大国にのし上がったが、お先真っ暗のため、若い世代は将来に希望が持てず、ゲバ棒の暴力デモか、ヒッピー族、ゴーゴー族に走る現状で、諸外国からは「経済動物」といわれはじめています。

世界連邦運動こそは、戦争放棄の平和憲法を奉ずる日本の国是であり、日本の海外発展の基本理念であると同時に、それは世界人類(アメリカの人々も含め)の生活目標として永久不変であります。

これは戦前の一億一心的スローガンとちがい、いくら推進しても、推進しすぎず、バカを見ることはない「宇宙時代の指標」として第二回宗教者平和大会がその基調テーマにしたわけもそこにあります。(後略)

このように加藤は、冷戦時代でもある当時、東西間の緊張関係を憂慮し、両陣営の軍拡競争を非難している。アメリカ社会に対しては当時の人種間の軋轢への解決を同時に視野に入れている。その一方で、戦後の日本社会は掲げるべき理想を忘れ、ひたすら経済活動のみに邁進していることを問題視している。

こうした考えの根本にあるのは、なにより自分の広島での被爆体験である。このあと加藤は、さらに活動の幅を広げ国連の事務総長にも訴えるなどの行動にでる。

(敬称一部略)

続く >>

 

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一世の記録を拾い集めた男 ~加藤新一の足跡をたどって~

第24回 「広島北米クラブ」に尽力

最期は日本で迎えたい 

二度目のアメリカ滞在で、新日米新聞社の主幹として1961年に「米國日系人百年史」をまとめた加藤新一は、まもなく新日米新聞社を離れ、1970年日本に帰国する。ふりかえれば、1900年に広島で生まれ、18歳で父親に呼ぼ寄せられカリフォルニアに渡った加藤は、日米開戦直後に帰国、1953年に再渡米、そして1970年再び日本にもどってきた。日米二往復の人生である。

ひとり息子はロサンゼルスの東京銀行で働き、孫もアメリカ生まれのアメリカ人である。一方日本には甥がいるほか、そのほか近しい親族はいない。それがなぜ日本へ帰ったのか。甥の吉田順治さんによれば、「最期は日本で迎えたい」というのが、本音のようだ。

若いころはカリフォルニアで農業に従事し、やがて日本語新聞の記者や編集者となり、戦後は一世を訪ね全米を車で走り回ったほど、アメリカ社会になじんだ加藤だが、どうやら“死に場所”は、郷里の広島と決めたようだ。

加藤のそれまでの足跡をたどると、彼が入れ込んだ二つの大きな人生のテーマが見えてくる。ひとつは、日系の移民としてアメリカで生きた体験からのめりこんだ「アメリカ移民」である。そしてもうひとつは、弟妹をなくした原爆の体験から生まれた「平和の希求」である。

アメリカで一世を訪ね、その記録をまとめた加藤は、70歳で日本に帰国すると平和運動と移民にかかわる問題で精力的に活動をはじめる。重点は平和運動の方だが、これについては、晩年の活動としてのちにまとめるとして、先に、広島からアメリカへの移民に関わる問題での加藤の動きについて紹介したい。

新聞記者として紙面づくりに長年携わった加藤だが、1972(昭和47)年1月22日付の地元中国新聞広島版の「『広島北米クラブ』近く誕生」という記事に、取材される側としてその名前が登場する。広島から北米へ移民した同胞が郷里広島と交流を持つ際にスムーズに事が運ぶように「広島北米クラブ」という団体が広島に誕生、この発起人として加藤の名前が代表してあげられていた。

広島県が全国有数の移民県であることは以前にも触れたが、2017年のJICA横浜海外移住資料館による企画展示「広島から世界へ」のまとめによれば、広島県からは戦前戦後あわせて約11万人が、ハワイをはじめ、北米、南米に移住している。その数は、109,893人で全国一位で、つづいて沖縄(89,424人)、熊本(76,082人)、山口(57,837人)、福岡(57,684人)となっている。


海外から故郷広島に援助の手が

日本を離れたとはいえ、海外に渡った日本人の故郷を思う気持は強く、広島県人はことのほか意識がたかったようだ。それは戦争そして原爆と深い関係にある。故郷が原爆に遭い、困窮していることを知った、北米、南米の広島県人会からは多額の救援金が広島へ送られた。

加藤のいたロサンゼルスの南加広島県人会からは、400万円が送金され、それをもとに広島市に児童図書館が建設されたという。

「2017年春海外移住資料館だより」によれば、「ハワイ、北米および中南米で、9ヵ国に28地域の在外広島県人会が組織され」、「広島県は、海外における重要なネットワークである在外広島県人会が主催する記念行事への訪問団の派遣や、県人会指定の広島への招へいなど、さまざまな交流事業を実施している」。

この28地域の広島県人会の数は、アメリカ本土に12、ハワイに4、カナダに2、中米はメキシコとドミニカにそれぞれ1、また、南米ではブラジル、アルゼンチン、パラグアイに2、ほかペルー、ボリビアにそれぞれ1、となっている。

このなかで最も設立が古いのは、アメリカ本土の「桑港広島日系人会」(サンフランシスコ)で1898年1月、つづいて「シアトル広島クラブ」が1901年1月、サクラメント広島日系人会が1906年となっている。その歴史は1世紀を超えている。


移民と故郷のパイプ役

このように海外の広島県人は結束が固かったが、先述した1972年1月の新聞記事は、こう書き出している。

移民県“広島”。ところが外国にいる県人、団体で故郷に帰るに当たっても連絡する窓口一つないありさま。帰っても、うろうろするばかりでアメリカ在住の県人からパイプ機関の不備が訴えられていた。そこで、この要望にこたえよう—と、まったくの民間ベースで二十六日「広島北米クラブ」が誕生する。もちろんこの人たちと故郷とのパイプ役を果たすのがおもなねらいだが、発起人側は「移民時代は終った。国際化時代に備えて貿易など相互の窓口にもしたい」と、幅広い活動を目ざしている。

以下、記事によれば、このクラブ発足の準備を進めているのは広島県貿易協会で、事務局は同協会内に置く。クラブに参加するメンバーは、個人としては、かつてアメリカにいたが、この当時は帰国して広島県内に移り住んでいて、住友銀行広島支店や東京銀行広島支店を通じて毎月3−6万円のアメリカの年金など送金を受けている人たちだ。また、個人のほか、広島県内の40の貿易業者もメンバーとして加入する。

この内容からすると、加藤もアメリカからなんらかの送金を受けていると思われる。記事では、クラブ立ち上げの発起人としては加藤の名前だけがあがっていることなどからしても、このクラブは加藤が中心とみていいだろう。

ところで、記事中の加藤の肩書は世界連邦広島県協議会理事長となっている。思い出していただきたいのだが、1952年11月、広島で「世界連邦アジア会議」が開かれた時、加藤は事務局長をつとめた。その直後、再渡米してからはロサンゼルスの新日米新聞社で働いたが、70年に日本に帰ってきてからはすぐさま、世界連邦など平和に関する運動に打ち込んだ。

1970年8月、被曝25周年を迎えた広島では、「第二回世界連邦平和促進宗教者会議」が開かれた。このとき、加藤は大会の事務局次長をつとめた。ことによると、この大会のためもあって加藤は日本への帰国を決めたのかもしれない。帰国を機に、加藤は最期まで精力的に平和運動に関わっていく。      

(敬称一部略)

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一世の記録を拾い集めた男 ~加藤新一の足跡をたどって~

第23回 再びアメリカへ

1952年11月に広島で開かれた世界連邦アジア会議の事務局長を務め、日本国連協会広島県本部事務局長の職にあった加藤新一は、日本での平和運動の職を捨て、1953年4月再びアメリカに渡った。

1961年の時点での本人による1953年からの経歴は、次のようになっている。

1953年産経新聞特派員として再渡米、のち新日米新聞社に入社、次々に家族を呼寄せ、1958年米国永住権を獲得、現在(※注1961年)同社主幹。同社の1955年度版及び1959年度版全米日系人住所録を編集、1960年に南加州日本人70年史を編集、同年の日米百年祭に日本政府から表彰を受け、また大日本農会から緑白綬有効章を贈られ、同年から、翌61年にかけ新日米新聞社出版の「米國日系人百年史」並びに「在米日系人発展紳士録」をも編集した。


産経特派員から新日米新聞社主幹へ

上記の経歴によれば、1953年4月に再渡米し、55年度版の新日米新聞社全米日系人住所録の編集に携わったとあるから、産経新聞の特派員であったのはわずか1、2年のことと思われる。広島にいた加藤がなぜ産経新聞の特派員としてアメリカにわたったのか、またすぐにロサンゼルスの新日米新聞社に移ったのか。

はっきりした理由はわからないが、ことによると新日米新聞社に移るのが前提だったのかもしれない。というのは、同社が産経新聞と深い関係にあったからだ。このことは、加藤自身が編集した「米國日系人百年史」に掲載されている「新日米新聞社」の紹介記事に記されているが、その関係に触れる前に同社について説明しておきたい。

新日米新聞社は、ハワイから来た籾井剣一氏が戦後の1947年4月に週刊の新聞をロサンゼルスで創刊、その後日刊とし、戦後に復刊した羅府新報、加州毎日とともに3紙で競合した。籾井氏は、新聞発行と同時に「全米日系人住所録」を発行して評価されたが、新事業のため帰国することになり、経営を弁護士の城戸三郎氏に委ねた。

城戸氏は、戦時中に全米日系市民協会の会長として、米国居住の日系人は米国に忠誠を誓うべきであるとして、日系人の安全と権利のために先頭に立って活躍したが、このため過激な日本主義者に攻撃されることもあった。

広島にルーツを持つ城戸氏が新社長になってからも「全米日系人住所録」は、1955年度版が発行され、これが後に加藤が同社主幹となり執筆、編集した「米國日系人百年史・発展人士録」の元になっていると思われる。


新日米時代の加藤を知る人物は?

新日米新聞社と産経新聞との関係は、「米國日系人百年史」のなかの「新日米新聞社」の紹介記事をみると経緯がわかる。

初代の籾井社長時代の1952年に同社は、産経新聞社と共催で「パイオニア母国観光団」を実施したのを契機に提携をすすめ、産経から写真製版や活字鋳造の技術者が機械とともに出向してきた。また、若手記者も同社から特派員を兼ねて出向き、紙面刷新に協力した。

さらに産経新聞は、カリフォルニア州のロングビーチで行われていたミス・ユニバース世界大会の日本代表の世話を年々続けていたこともあり、カリフォルニアでの拠点として新日米の協力を得、一方新日米新聞社は産経から記事を提供してもらい新聞づくりにも協力してもらうという、協力関係ができあがっていた。

加藤は産経の特派員から新日米の記者に身分をかえ、そののち全米を駆けめぐり「米國日系人百年史」を編集することになる。繰り返しになるが、そのときの活動がどんなものだったのかを探るというのが、加藤新一をめぐる本連載のきっかけだった。

取材をすすめ、加藤本人の人生についてはだいぶわかってきたが、全米の一世を訪ね歩いた記録については、新日米新聞社が短命に終わり、当時を知る人を探しあてることが難しく、残念ながら不明のままだった。

しかし、改めて新日米新聞社の紹介記事を読むと、当時産経の東京本社から、加藤のように特派員として新日米新聞社で活動していた記者が何人かいたことから、当時を知る元産経新聞の記者を探しあて、そこから加藤についての情報をえられないかと思い至った。

そして、いくつかのキーワードをもとにネットで検索したところ、たったひとつ日本記者クラブ会報(2009年4月10日号)で、産経新聞出身の阿部穆氏が寄稿したエッセイに行きあたった。

エッセイによれば、阿部氏は、1960年代に語学研修をかねて本社からロサンゼルスに派遣され「新日米」の新聞づくりを手伝っていた。阿部氏は「(新日米の)社長、城戸三郎氏は、JACL(全米日系市民協会)の会長だったが、日系人が米軍に加わり忠誠心を示す、という方向を打ち出したため、“日本派”の人々に襲われ、重傷を負った体験をポツリポツリと語ってくれた」と書いている。

「米國日系人百年史」に掲載された自社(新日米新聞社)を紹介する記事には、当時産経から来ていた記者として、山田進一、藤崎健の2氏の名前があがっていたが、阿部氏の名はなかった。しかし、加藤と阿部氏はほぼ時を同じくして新日米のオフィスにいたかもしれないと思い、阿部氏の所在、連絡先を探した。

幸い、日本記者クラブに所属する友人の伝手で阿部氏の連絡先がわかり電話をして事情を説明すると、快諾してくれ直接会って話を聞くことになった。

田園都市線沿線に住む阿部氏は、最寄りの駅近くまで出てきて、近くの喫茶店で半世紀前の話を聞かせてくれた。政治部長やニューヨーク、ワシントン特派員などを歴任したという阿部氏は、懐かしそうにロサンゼルスでの若いころを思い出し、城戸社長が日系人をまとめるなど当時活躍した立派な人だということを語った。

阿部氏は広島・宇品で中学、高校時代を過ごしたこともあり、広島にルーツのある城戸氏にはよくしてもらったという。

当時の新日米のオフィスのようすや新聞づくりなどについても話は及んだ。しかし、残念ながら、阿部氏が藤崎健氏のあとにロサンゼルスに赴任し新日米の仕事に関わったときには、加藤新一はすでに「米國日系人百年史」の編集を終え、新日米を離れていたようだった。

(敬称一部略)

続く >>

 

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一世の記録を拾い集めた男 ~加藤新一の足跡をたどって~

第22回 広島で平和運動に取り組むが…

知事に請われて県広報委員長にも

日米開戦後アメリカから日米交換船で郷里の広島に引き揚げてきた加藤新一は、中国新聞の記者となり、一時は編集局次長の職についた。その後同社に誕生した従業員組合の委員長(組合長)となるなど多方面で活躍したが、1949年、7年間つとめた同社を退社する。新聞社時代の先輩、村上哲夫氏によれば、当時の楠瀬常猪・広島県知事に請われて、初代の広島県広報委員会委員長に就任、1951年に知事が楠瀬から大原博夫に代わってからも一年余り広報委員長を務めたという。

加藤本人が「米國日系人百年史」のなかで書いた自分の経歴には、1949年に「広島県広報部長に就任」とある。被爆地広島県の知事が、加藤のような記者経験、アメリカでの経験、そして英語能力を持つ民間人を登用しての広報活動の内容は、平和問題が中心だろうことは想像に難くない。

では、どのような活動をしたのか、広島県庁に広報課をたずねてきいてみた。しかし、残念ながら加藤の名前や当時の県広報委員長の存在はまったく知られていなかった。過去の記録を調べてもらったところ、ようやく「昭和25年に広島県広報委員会嘱託として加藤新一さんを委員長に」という記録があった。また、同委員会は「知事直属の組織」だと確認できた。

これ以上のことはなにも記録に残ってないのでわからずじまいだった。このあとの加藤の平和運動への貢献を考えると、さびしいものだった。

昭和25年は1950年にあたり、加藤、村上のいう1949年とは異なるが、どちらが正しいのかはわからない。


日本国連協会広島県本部事務局長に

加藤を登用した楠瀬は、1950年参議院広島県選挙区の補欠選挙に自由党から立候補しして当選した。村上氏によれば、参議院議員となった楠瀬のあっせんで加藤は、「国連に籍を移したが、一身上の都合で昭和二八年三月にこれを辞任し、四月末に渡米した」とある。

広島県の広報委員長を辞めたことについては、加藤が亡くなったときの読売新聞には、経歴を紹介するなかで「一時県庁に入ったが肌に合わず再び渡米」と言い表わしている。これまでどおり、納得がいかなかったり、思うような仕事ができないときは、組織にこだわらずに、潔く去って行くという加藤の生き方がここにも表れている。

村上氏の言う「国連に籍を移した」というのは、本人がプロフィールにあげているように、日本国連協会広島県本部事務局長を指すようだ。

国連協会とは、公益財団法人日本国際連合協会(国連協会)のことで、どのような組織かというと、「民間の立場から国民の間に国連に対する理解と協力を増進し、世界の平和と人類の福祉向上に寄与することを目的として、1947年に設立。全国で各地に任意の支部組織があり、国際的には国連のA級諮問民間団体である国連協会世界連盟(WFUNA)の有力メンバーとして、国内的・国際的に積極的に国連普及活動を展開している」(同協会ホームページより)という。


世界がひとつの政府をもつ

ここから平和運動に実質的に関わりはじめた加藤は、「世界連邦運動」推進のために尽力しはじめた。戦争・原爆を体験、アメリカ社会と日本社会を知る加藤が、行きついた思想がこの世界連邦運動だった。加藤を知る上で重要な世界連邦運動について、「世界連邦運動協会(World Federalist Movement of Japan)」のホームページをもとにまとめると——。

まず、「世界連邦とは、世界の国々が互いに独立を保ちながら、地球規模の問題を扱う一つの民主的な政府(世界連邦政府)」である。

「各国の熱心な世界連邦主義者達は、1946年、ルクセンブルグに集まって、『世界連邦運動』(WFM)の前身である『世界政府のための世界運動』(WMWFG)を組織し、その第一回大会を、翌47年、スイスのモントルーで開いた。23カ国から51の団体代表が集まり、1全世界の諸国、諸民族を全部加盟させる。2世界的に共通な問題については、各国家の主権の一部を世界連邦政府に委譲する——などの6原則からなる『モントルー宣言』を発表した」

「世界連邦運動は、世界各国の科学者、政治家の支持を得て急速に発展。1947年、各国の世界連邦運動団体の国際組織として『世界連邦運動(WFM)』<本部ニューヨーク>が結成。現在、WFMは24の国と地域の加盟団体によって構成されている」

「WFMは国連経済社会理事会諮問 NGO カテゴリーII として国連に対して意見や助言を行っている」

日本でも、戦後、超党派の世界連邦日本国会委員会ができる。「国会の中にも『戦争のない世界を実現するため党派を超えて立ち上がろう』という動きが始まり、1949年12月20日、衆議院議長松岡駒吉氏を会長・参議院議員田中耕太郎氏らを副会長に104名の超党派の両院議員によって世界連邦日本国会委員会が結成された」  


世界連邦アジア会議、事務局長に

1952年11月、「世界連邦アジア会議」が広島で開かれることになった。イギリス国会議員世界連邦グループが、1950年に、原爆の落ちた広島で世界連邦会議を開いて全世界に平和の叫びをあげてはどうだろうか、という案を出したところ、日本の世界連邦運動推進者にも共感を呼び、「世界連邦建設同盟、世界連邦日本国会委員会、世界連邦広島協議会の共催で、広島でアジア会議が開かれることになった。

そのとき、加藤は同会議の事務局長を務めることになった。そして、これをきっかけに加藤は広島を拠点に、平和運動に邁進していくのかと思われた。しかし、村上氏が記すように「一身上の都合で1953(昭和28)年3月、日本国連協会広島県本部事務局長を辞任し、4月末に渡米してしまう。

「一身上の都合」とはなんなのか、定かではない。加藤は再び活動の場をアメリカに移した。

(敬称一部略)

続く >>

 

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一世の記録を拾い集めた男 ~加藤新一の足跡をたどって~

第21回 力量を発揮するも退社へ

広島に原爆が投下されてからほぼ8ヵ月後の1946年4月、米軍が撮影した広島市内の映像のなかに加藤新一が登場することに前回触れたが、撮影について当時の中国新聞が報じていた。

同年4月16日付の紙面で「復興の象徴」、「本社が天然色映画で全米にお目見得」という見出しで、加藤と思われる人物がデスクを前に座っている姿が見られる写真がついている。説明には「写真は本社編輯局内の一場面」とある。

記事をそのまま引用すると——

「戦災地の日本を映画化すためマツカーサー司令部では陸軍映画班を組織臨時列車を動員、長崎市をはじめ九州各地を天然色フイルムに収めたが、廣島市では過去一ケ月焼跡の撮影に消防梯子まで動員し、さる日曜日には宮島の櫻を、昨今は呉市、四國方面にまで足をのばし、数日中には岡山市へ移動する、廣島市では市役所、病院など一万五千尺をものし、災害地の中でもいの一番に復興した本社を全國新聞社中の代表的のものとして選び、取材から新聞が印刷されるまでの過程を具に撮影、近く全米の映画ファンにまみえる」。

また、これより先の3月29日付紙面では、「アメリカに行く廣島遺骨安置所」という見出しの写真付きの記事は、「廣島市聴遺骨安置所で原爆による戦災死者の遺骨引取りの場面を映画におさめている」と書いている。


労働組合の委員長を兼務

この当時、加藤は編集局次長だった。編集局のナンバー2である。その一方で、アメリカ軍の撮影が行われる2ヵ月ほど前に開かれた中国新聞社従業員組合の結成大会で、加藤は初代の組合委員長に選出された。その後、すぐに、個人加盟の産業別単一労組として先陣を切った日本新聞通信労働組合に加盟した。

戦後、急速に広まる日本の民主化の波のなかで、日本の新聞社では従業員が組合を結成する動きが加速していった。中国新聞もその例にもれず組合が結成されるのだが、委員長に編集局次長という社の幹部、あるいはそれに順ずる地位の者がつくというのは、どういうことか。

今日では考えにくいことだが、当時、中国新聞社ほか各社でもこうした兼務はありえたようで、また、同社の労組が結成される当時の労組と会社との関係、さらに義に感じて行動するという加藤本人の性格も関係しているようだ。

中国新聞の特別編集委員で、広島からの移民問題や原爆に詳しい西本雅実氏によれば、当時の組合は、会社に敵対的ではなく、かといって御用組合的でもなかった。一方で、オーナー企業であることに対する批判的な姿勢もあった。

「そういう組合だから、アメリカ帰りで民主主義を知っていて、占領軍とのやりとりも経験してきた加藤が推されたのではないか」と、西本氏はいう。


年をとっても革命児

また、加藤が編集局次長時代に論説委員として健筆をふるった村上哲夫氏は、「ながれ」(1954年刊)という自著のなかで、「血の気が多い」という見出しで、加藤新一の人物像を半生をなぞりながらつづっている。戦後、組合委員長になるあたりについては次のように言い表わしている。

「終戦後には一時、編集局次長となり、従業員組合が結成されて、初代の組合長に祭りあげられた。この前後にはアメリカ通だから、当時は編集局長にもと嘱望されたが、自分本位の地位を得るより、社員の期待に応えて、組合長になることを肯じたものである」。

ここから察するところ、社内の出世・地位よりも一般社員のために推されて組合委員長を引き受けたとみられる。村上氏も当時はオーナー経営に批判的であったというから、加藤の行動をより評価しているのかもしれない。

しかし、加藤のこうした経営陣に対して行動は以前にもみられた。加藤が戦前、ロサンゼルスの「羅府日米」の記者をしていたとき、サンフランシスコにある兄弟紙の「日米」で社長と従業員が対立したとき、加藤は両者の間に入り調停を買って出たが、会社側の対応を誠意なしとして、結局自ら同社を退いた。

こうした加藤の性格について、さらに組合委員長としての活躍について、村上氏はこう評価している。

「昔から血の気の多い性質で、年をとっても革命児の気分が燃えつづけ、お座成りの御用組合化どころか、とんでもないハツプン斗争のヤリ口が練れており、経営者側で目を白黒する場面が一再ならずあった。新聞通信関係で中国新聞社の労働協約が全国二番目に締結された。これから推しても、凄みのある腕利きだ」。

やはり、ここでも加藤の言動の力が発揮されている。この点もアメリカ仕込みといっていいのかもしれない。

こうして組合委員長として手腕を発揮した加藤だが、中国新聞の組合は、全国的な流れでもあった共産党の力によって変化していき、加藤の立場も微妙になった。一方、高まる労働運動は政治闘争から経済闘争へと転換していくなかで、1948年8月、中国新聞支部は、全日本新聞労働組合に加入し、12月に越年資金を要求する無期限ストをおこなった。これと前後して、加藤は文化局の局次長に異動となった。

このころから、加藤の組合内あるいは社内の立場、位置は揺れ動いていたようだ。これ以後加藤が中国新聞社を去るまでを、村上氏は次のように説明している。

「かくするうち中井正一氏(※注:社会運動家で美学者)が國會図書館の副館長となっていったので、その後任の廣島県労働文化協会会長に担がれたこともあった。しかし、労働運動の急先鋒が、共産党戦術化して行ったのと、各社とも部長級以上は労組員の資格がなくなって、そこに明確な一線を布くようになった。加藤も尻こそばゆい境遇に置かれた。それで昭和二四年四月、楠瀬知事から請われ、初代の廣島県弘報委員會委員長になり、……」

これだけだとあいまいだが、「尻こそばゆい」という言葉からして、なんとなく組合にも、あるいは会社にも、いずらくなったと思われる。こうして加藤は中国新聞を去る。しかし、加藤の力量は評価されていた。初代の公選廣島県知事である楠瀬常猪氏に請われて、加藤は、初代の廣島県弘報委員會委員長に就任する。

(敬称一部略)

続く >>

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