Ryusuke Kawai

ジャーナリスト。慶應大学法学部卒。毎日新聞記者などを経て独立、ノンフィクションを中心に執筆。『大和コロニー「フロリダに日本を残した男たち」』(旬報社)、『「十九の春」を探して』、『122対0の青春』(共に講談社)など著書多数。日系2世の作家、ジョン・オカダ著『No-No Boy』の翻訳を旬報社より出版。『大和コロニー』は、「Yamato Colony: The Pioneers Who Brought Japan to Florida」として、University Press of Floridaより英語版が出版。

(2018年3月 更新)

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一世の記録を拾い集めた男 ~加藤新一の足跡をたどって~

第20回 アメリカ撮影の映像の中に

原爆投下からひと月ほどして加藤新一は、広島を訪れた赤十字駐日首席代表のマルセル・ジュノー博士の通訳兼案内を担った。そして11月1日付で政治部長に就任、翌46年2月には、社長交代にともなう中国新聞社の社内体制の刷新によって、編集局次長になった。

このころの加藤はどのような活動をしていたのか、加藤の甥にあたる吉田順治さんに尋ねてみると、当時の姿はインターネット上の映像でみることができるという。

それは、Youtube にあげられた17分余のカラー映像で、音声はなかった。映像のタイトルには、「Hiroshima aftermath 1946 USAF Film」とある。撮影されたのは、1946年4月のようだ。

破壊された建物の前に神父のような法衣の白人と日本人の子ども数人が並んで登場する。続いて瓦礫のなかで農作業をする人の姿、そして木造の新しい仮設住宅とそこで暮らす日本人や壊れた墓石の数々。

タイトル通り、原爆投下後の広島市内の光景だとわかった。映像の続きは、両手を合わせ拝む和服の女性。その前にあるのは山のように積み上げられた小さな木の箱のようで、それぞれに名前などが書かれている。男性がその一つをとって女性に手渡す。遺骨が入った箱のようだ。

瓦礫のなかに何かを探す少年たち、背後には破壊された街を走る市電の屋根が見える。墓地の仏像に花を添える女性、川で何かを浚っている二人の少女、電柱にのぼって作業をする人……。


編集作業をする背広姿の加藤 

こうした光景のあとで、場面は変わりタバコをくわえ、帽子をかぶった男性が、鉛筆を握りしめ原稿のようなものを書いている。デスクの上には「キネマ旬報」の表紙が見える。

このあと黒板を背にして、眼鏡をかけたネクタイに背広姿の男性が、デスクで紙片を手にしている。目の前の花瓶から花がすっと伸びている。男性は、写真と記事を照合しているようで、インクをつけたペンで紙片に書き込み、終ると女性に何か言って手渡している。この男性が加藤新一だった。

どうやら、新聞社でのデスク作業のようだ。背広には社章だろうかバッジがつき、短く髪は刈り込んで、みなりはさっぱりとしスマートに見える。

加藤が登場するのはここまでだが、そのあとも新聞社の編集部の様子だろう、デスクで何人かが作業をしている。筆に墨をつけ紙に四角く線を入れているのは、大まかな紙面の割り付けのようだ。次は、鉛の活字を拾っているシーンだ。いまはもう見られなくなった光景だが、かつては新聞の文字は、一つひとつ鉛の文字を組み合わせて作ったものを原型にしていた。

映像は、「文選」と呼ばれる作業で、記事に必要な活字を一つひとつ探して“拾っていく”ところだった。ここから先も新聞ができるまでの光景をとらえている。記事ごとに集めた活字を文章どおりに組んで一つの記事の塊にする。さらに、これらの記事を割り付けに合わせて実際の新聞紙面と同じ大きさの鉛の原版をつくる。

この先の行程である、紙型をとり、この紙型をもとに鉛板をつくり、これをもとに印刷機にかけるところは省略され、映像は印刷機が回り次々と新聞が刷り上がっていき、できあがりをチェックする人をとらえている。この間に、なぜか 「Newsweek」 の置かれたデスクについて、仕事をしてる人の姿が見られる。海外のメディアも日ごろチェックしていることをおさめようとしているのか。

こうしてみると、映像の目的は、中国新聞社での新聞ができるまでの工程をとらえようとしていたことがわかる。しかし、この映像には、どこか不自然なところがある。例えば、加藤の作業である。加藤は当時、編集局次長の要職にある。中国新聞社は原爆で多くの社員を失ってはいるが、映像には、ほかの多くの社員が作業をしているシーンがある。従って実際は、編集局次長が写真と記事の付け合わせのようなことはしないだろう。

そう思ってみると、デスクの上の花もこれ見よがしな感じがしないでもない。フィルムの最初に出てくる法衣の白人と子どもたちの姿も整然としすぎて、芝居がかっているようだ。なにがしかの演出が働いていたのではないかと思わざるを得ないが、その疑問には、後に加藤本人が答えていた。


晩年、本人がテレビで語る

この映像の撮影から35年後の1981年7月7日、NHK広島放送局による午後6時40分からの番組「ひろしま6・40」で、この新聞製作の工程を映したフィルムのことが紹介され、生前の加藤がNHKに招かれて当時のことを語っていた。

当日の中国新聞でも「本社新聞づくりシーン 『10フィート運動』入手のフィルム NHK 関係者交えきょう放送」という見出しで、この番組についてとりあげていた。それによると、米軍が撮影した原爆の記録フィルムを入手し、記録映画づくりをめざす「10フィート運動」という市民運動が購入したフィルムのなかに、中国新聞社の当時の新聞づくりの過程が撮影されていたという。

番組では、フィルム映像を流しながら加藤に当時のことを語ってもらっていたので、吉田さんが教えてくれたYoutubeの映像と同じ長さのものかどうかはわからなかったが、撮影の場所は、当時広島市中区胡町にあった中国新聞の旧本社で、新聞製作の工程の映像は、同じものだった。

番組のなかに登場する帽子を被った男性について加藤は、「これは佐伯敏夫君だね、経済部長をした」と言い、編集作業をする自分の映像について尋ねられると「これは私でしょうね、あまり元気そうだから」と、笑いながら穏やかに答えていた。

作業そのものについて、加藤は「私は当時報道部で新聞記者の頭(かしら)のような仕事をしていたから、こういうふうに原稿を集めて整理するようなことはやってなかった」と言い、「では、頼まれてやったのでしょうか」と問われると、「占領軍が来て、新聞社のプロセスを撮るということで、(頼まれて)やったんでしょうね」と、認めていた。

また、当時の新聞づくりの苦労については、紙がなかったからペラペラだったと話した。

最後に、「原爆を新聞記者としてどのように体験なさったのか」と問われると、加藤は原爆で亡くなった弟、妹のことにふれ、妹からは死ぬ前に仇を討ってくれと言われたことを明かし、「僕は、仇は戦争だと思った。だから再び戦争はあってはいけない。戦争の生き証人として命の限りこのことを伝えなきゃいけない、そう思ってやって来た」と、力強く語っていた。亡くなるおよそ7ヵ月前のことである。

(敬称略)

続く >>

 

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一世の記録を拾い集めた男 ~加藤新一の足跡をたどって~

第19回 被爆直後の中国新聞と加藤

原爆による広島の街と人の惨状を目にしたこと、そして弟と妹を原爆で失ったことは、のちに加藤新一が平和運動に邁進する原点であった。

前回紹介した、被爆当日に広島市内を駆け回った加藤の手記のなかで、弟、妹の死についてはこう記されている。

弟省三(当時廿四才)は原爆三日後、妹文江(当時二二才)は一ケ月後に「兄さん仇を討って――」と死んでいったが、無数の犠牲者が屍体も不明のまま、広島市中央を南北に二分し、南を海軍、北を陸軍が、被爆四日目ごろから低地に屍体を集めて積みあげ、油をかけて焼(酷暑で悪臭とハエがわくので)いて片づけたのに比べると、簡素ながら近親者で葬い得たことはせめてもの救いであった。


死没者追悼平和祈念館に 

二人の被爆については、これ以上は触れられていないが、どのような状況で亡くなったのか、加藤の甥にあたる吉田順治さんが教えてくれた。わかる範囲の情報は、広島平和記念公園のなかにある国立広島原爆死没者追悼平和祈念館に登録されているという。

ここでは、原爆死没者を追悼し、原爆で多くの人が亡くなった事実を伝えるため、死没者の名前と遺影(写真)を登録している。

記念館の地下2階に、亡くなった人々の遺影と名前が記されている。また、ひとり一人について検索して呼び出すことができる。「加藤省三」「加藤文江」を探すと、若い二人の顔写真がでてきた。

丸刈りに丸眼鏡をかけた理知的な顔立ちの省三さんは、ネクタイ背広姿だ。被爆時は23歳で、広島県農業会に勤めていた。被爆場所は、広島市十日市町(現在の広島市中区十日市町一丁目)。爆心地から数百メートルの所。被爆後の夕方大田川東原の川岸から船で、東区戸坂の吉田さん宅までたどり着いたが、顔、首、両手をやけどし、翌9日に亡くなった。

文江さんは、セーラー服姿でわずかにほほ笑み、はつらつとした表情だ。被爆時20歳で、広島市八丁堀(現在の広島市中区)の広島県食糧営団に勤めていて被爆した。被爆後の夕方にトラックで郊外の可部を経て16日に吉田さん宅に来た。18日に加藤の住む平良に行き、20日からは勤めにも出た。しかし8月末から髪が抜け出し9月5日に亡くなった。

かつてはアメリカで暮らしていた加藤が、この妹から言われた「兄さん仇を討って」というアメリカへの憎しみの言葉をどう受け止めたか定かではないが、少なくとも最終的には、「戦争を仇」と思って活動したことは想像に難くない。 


復刊に向かう中国新聞 

身内をなくし、加藤自身も被爆当日、爆心地付近をふくめ市内を駆け回ったことで放射線被ばくした。22年後の昭和42年に加藤は被爆者健康手帳の交付を申請している。被爆時にはものかげにいたが、被爆後半年の間に発熱や下痢の症状があったという。しかし、被爆後はすぐに職場に復帰し、加藤同様に難をのがれた同僚とともに動き回ったようだ。

中国新聞の本社は原爆で全焼し、輪転機も焼け、電話電信も途絶えるなどし新聞が発行できなくなっていた。仕方なく唯一の通信手段だった軍の無電を通して、朝日新聞、毎日新聞の大阪、西部本社に頼んで“代替紙”を届けてもらい、「中国新聞」という題字の下に、小さく「朝日新聞」「毎日新聞」という題字も併記して、被爆3日後の8月9日付から発行した。

広島への原爆投下について新聞各紙は、8日付で報じたが、「原子爆弾」と書くことはできなかった。戦争終結の詔書が掲載された16日付の中国新聞(代替紙)でようやく、広島でも初めて「原子爆弾」と報じられた。

被爆直後から記者、カメラマンは惨事を記録しようとし、また、紙も墨汁もないなか口伝えで情報を市民に伝えるなどした。なんとか自力で印刷をするため、被爆前に広島市郊外の温品村(東区)に疎開させてあった印刷機を使って新聞を発行するまでにこぎつけ、9月3日付で戦後初めて自力印刷の紙面をつくった。

この時の1面のトップでは、前日(2日)に、東京湾上のアメリカの戦艦ミズーリで連合国と日本との間で降伏文書が確認されたことが報じられた。連合国側はダグラス・マッカーサーが、日本側は重光葵外相らが署名した。


ジュノー博士の通訳、案内として 

自力発行のこの日、ニューヨークタイムズ、AP通信などアメリカの従軍記者が米軍広報官や通訳の日系二世らとともに被爆地に入り、爆心地一帯を歩いて惨状を目にした。この後、県警察本部の特高課長や記者たちと会談した。

さらに5日後の9月8日、原爆投下の指揮をしたアメリカのトーマス・ファーレル准将が率いる調査団が広島に到着。調査団には、赤十字駐日首席代表のマルセル・ジュノー博士が同行していた。本連載「第6回」で記したように、このとき、ジュノー博士の通訳兼案内を担ったのが加藤新一で、県に頼まれてジープに同乗した。

10日付の紙面では、原爆についての同博士の談話として「われわれはかかるものを二度、再びしようしないですむやうつとめなければならない」という言葉が紹介されているが、これは加藤が通訳したものだろう。

のちに、甥の吉田さんが語るところでは、加藤の英語は、日本人的な英語発音で決して滑らかなものではなかったという。

ようやく自力発行し広島からの被爆の情報などを発信できるようになった中国新聞にまた試練が襲う。9月17日、まだ原爆から40日しかたっていない広島を枕崎台風が襲い、暴風で温品村の輪転機も使い物にならなくなる。広島市民、県民にとっても原爆に追い打ちをかけるような被害をもたらし、県沿岸部を中心に2012人の死者が出た。

温品をあきらめた中国新聞では、焼けた本社を修復し業務を再開することを決める。残留放射能の心配があったが、専門家に尋ねたところ「大丈夫」だとの回答をえて、本社への復帰作業をすすめた。そして被爆からおよそ3ヵ月後の11月5日付から、周囲は焼野原の本社で自力発行をはじめた。

この復刊に先立ち、同紙では職制を改め人事移動を行った。そこで加藤新一は政治部長となった。

(敬称一部略)

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※参考「1945 原爆と中国新聞」「中国新聞八十年史」(ともに中国新聞社刊)

 

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一世の記録を拾い集めた男 ~加藤新一の足跡をたどって~

第18回 原爆の日を駆け回る

1945年8月6日、中国新聞の報道部長だった加藤新一は通勤途中、西広島駅近くにいて原爆の閃光を見て、すぐさま市内の中国新聞本社へ向かった。その時見たもの感じたことなどを記録、26年後の1971年に自ら発行人となった「平和競存の創造」のなかで「原爆地獄を往く 一老記者のピカドン体験記」として発表した。以下、その体験記を紹介しよう。

ピカドンの一瞬ピカっと青白い大せん光。つづいてドーンと大きくにぶい大轟音の一瞬。私は地べたに叩きつけられた——。

一九四五年八月六日午前八時十五分。私はあの世界人類が最初に体験した原子爆弾炸裂の瞬間、広島市の西玄関己斐(今の西広島)の宮島電車駅改札口から数歩の国道上に、朝の通勤ラッシュ、市内電車へ乗替えの長い行列の末尾で朝刊新聞に目を落としていた。

これは至近弾、あとの投弾を受けぬ間に——と勝手知った貨物駅入口から、すでに倒壊した倉庫の屋根を飛び越え、韋駄天のごとく山の手に向け走った。

敵機が油を撒いている——と叫ぶ声がする。まことポツポツ落ちている雨は黒くニチヤ、ニチヤしている。その朝は土用の最中で雲一つなかったのに大轟音とともに辺りが薄暗くなり、油に似た黒い雨。一人の兵隊が「油ではない。よごれた雨だ」という。麓の横穴に難をのがれ、東方の市内を見渡すと、全市から火の手があがり、眼前の藁にまで火がついている。

これは尋常なことではない。何か特殊爆弾だ!と叫ぶ声をあとにしながら、再び国道へ降り、草津から来た消防車へ「中国新聞だ」と腕章を示し飛び乗った。

己斐から草津へ向け避難する人々で国道は一パイ。口々に、「手当てをする場所は?」「お医者は何処に—」と救いを求め、火傷で赤くただれた姿、幽霊の如く両手を前に垂れ、あるいは頭髪が焼けちぢれ、子供を抱いた母親、老人を背負ってヨロメキながら歩ゆむ群れをかきわけ、逆に市内へ向かった。

福島町までで消防車は進まず、飛び降りて天満町に来たころ、倒壊家屋に火事が起り、それに西から強風が吹き、もう一歩も進めない。午前九時ごろである。

天満町北側、東洋製罐工場周辺の家屋疎開した広場に差しかかると、バリバリ燃える倒壊家屋の下敷きになった老母を「足がちぎれてもいいから」と若夫婦が必死に引っ張るのを手伝ったが、老母の姿が見えるのに、そのまま火焔の下になり、また若い母親が「この火の下に四才の子供が——」と泣き狂うのをどうすることもできず、生家の横川へ廻るべく、福島橋に戻り倒壊した古田喜三太代議士邸前で「古田さん、古田さん」と大声をかけながら、安芸女学校へ向け北上した。

天満町の川べり石がけには、全身火傷で歩行もできぬ全裸の男女が、北洋アザラシ、オットセイが岩礁に重なり合っているようにして砂上に転がり落ちている様は、全く生き地獄、川床には馬や牛、犬などの屍体とともに無数の焼屍体がゴロゴロしている。

福島町から北上の土手や両側、畑の中まで半死半生、あるいはすでに事切れた屍体やそれを看護する人々で、足の踏むところもない。

自分の生家が見える打越の土手にたどりついたころ、黒煙はもうもうとして近寄られそうにない。かかるうち、バケツをひっくり返したような大雨が北部一帯に降りはじめ、やむなく再び打越山の手、半壊家屋で雨宿り。小一時間後に小降を幸い、火事ですでに焼け落ちた横川一丁目の生家に辿りつき母親の安否を気遣い三〇分あまり焼跡を木切れで掘り廻した。(母は若い二人の弟妹を勤めに出し、野菜をとりに山手へ出かけ無事だった)

午前十一時。川向うの広島別院も焼け落ちたらしく、横川から寺町、十日市——と目星しい建物は何一つなく、全く、焼野原。三篠橋は中央が燃えているので、鉄橋を渡り、白島から常盤橋まで来ると、ここらは余り雨が降らなかったものか、焼け跡の焔がまだ残り逓信病院から八丁堀の電車通はとても熱くて近寄れない。

やむなく、タオルやシャツを川水でぬらして被り、めざす福屋から中国新聞社前へ走りつづけた。

しかし、この沿道は黒焦げ屍体や半死半生の被爆者やタイヤの燃えた自転車を飛び越えて進むのに一苦労。とくに首をもたげて「兵隊さん、水を——」断末魔の声をかけられるのを耳にしながら(ゆるして下さい。どうにもならぬのです)と心に詫びつつ走るのは断腸の思い。

正午十二時。福屋と中国新聞社屋は、外郭こそ、そのままだが、屋内は轟轟と音とたてて燃えている。万事休す。勧銀支店の石段に腰をかけ、汗をふいて一休みするうち、三々五々、そこは新聞社の社員、編集関係ばかりでなく、事務も印刷畑も集る。水主町県庁近くへ勤労奉仕に出勤していた佐々木伊勢治部長以下四〇数名の安否は?(二日後は自分が隊長の当番)

あれこれするうち、郊外府中町山本社長邸から社長命を受けた数名が、「宇品の陸軍運輸部に向け大阪の朝日と毎日に応援を頼む打電に行く」と走り去った。(爾後数ヶ月間は両者の新聞に中国の題字を刷り全購売者に代替発行し協力してもらった。)

社屋前で二、三十名の社員と「無事」を祝福し合ったが、おそらくその半数は原爆症の犠牲になったであろう。日ごろ親しかった松浦寛次(当時副主筆)、佐伯敏夫(後ち夕刊中国編集長)両君とは抱き合うようにして喜んだ。

午後三時。松浦さんは、女学校から勤労奉仕に出たお嬢さんが気がかりで小網町辺りをさがしたいと帰りかける。私も廿日市の平良村を朝出たばかりで安否を家族が気遣っていると思うのと、朝、ピカドンで国道アスファルトに叩きつけられ、数間を手と足でヨヂリ這ったので、ヒザ小僧(半ズボンに巻き脚絆姿だった)を赤くスリむいた上に、貨物倉庫の倒れた屋根をゴム地下足袋で飛び越えた時に数ヵ所釘でふみ抜きしていたのが痛みだし、共に八丁堀—紙屋町—十日町—小網町と西へ帰路についた。福屋から相生橋までは、日銀と住銀ビルが遥か左方に形を店、商議ビルが川ばたに残るくらいで、産業奨励館は見すぼらしい姿になっている。

それよりもひどいのは重傷で逃げられず、ついに黒焦げになった無数の屍体がゴロゴロと並び(はなはだ申訳ないが、朝からの惨死体馴れで、もうそのころはさほど感傷もなく、全くおそろしいことだ)顔をそむけるようにして足を引きずりながら西へ急ぐ。

相生橋の手前、今の原爆ドーム前の電柱に赤くただれた大男が針金でくくられ、往来する人々が何か言いながら煉瓦や小石を投げている。どうしたことかと近寄って聞くと「撃墜米機の米兵の一人だそうだ。こんなことでは腹の虫がおさまらぬ」とさらに何か投げつけている。気負い立った反米的群衆心理はどうする術もない。

小網町辺りの道端には大型セメント水槽が至る所にあり、逃げおくれた男女中学生たちが、熱さにたまらず、水をもとめて水槽に折り重なって赤くユデダコのように死に、なかには握りコブシを高くあげ、苦しみつつ絶息した凄惨な阿ビ叫喚は想像に絶するものがあった。

松浦君は「もう少し詳しく広く探して帰る」という。無理もない。そう言えば、私の一人息子も毎朝広島の日赤病院に通っていたが、どうしたか?と気にかかりはじめた。(松浦のお嬢さんも、私の息子も警戒警報で引き返し無事だった。)

私は一人で、今はビッコをひきながら、電車道(普通の道路は倒壊家屋が焼け落ちて通れない)を己斐に出て高須、古江を経て草津から運転中の電車(重傷でなくては乗せぬのを、新聞社の腕章が物をいい)に乗せて貰い午後六時すぎ、被爆難民救護にゴッタ返している平良村の我家に帰りつき、妻子はもちろん近隣の人々が心から「無事」を喜んでくれた。

広島市中心から十キロもある平良村の自宅も、ピカドンのために障子は破れ、ガラスはこわれ、二階の天井が吹きあげられて引きおろすのに骨が折れ、壁の土など畳の上に散乱し「原爆」の爆風力のすざまじさを今更の如く知らされた。

中国新聞報道部長(編集局所属各部を統合した戦時体制)だった私は、新聞こそ発行不能で取材活動はないにしても、西部軍司令部や県庁記者室の任務もあって翌八月七日からも自転車に白米を積んで「当分帰宅できぬかも知れぬ」と市内へ出かけ、銀山町角の芸銀支店に仮設の県庁並びに県警察本部を中心に行動をつづける傍ら、近親者の安否を探るなど、八月十五日の終戦の詔勅を経て、同二十日前後にアメリカ原爆視察団に同行したスイスの万国赤十字代表二名の案内、通訳に駆り出されるなど、連日、原爆生き地獄を右往左往したのであった。

弟省三(当時廿四才)は原爆三日後、妹文江(当時二二才)は一ケ月後に「兄さん仇を討って——」と死んでいったが、無数の犠牲者が屍体も不明のまま、広島市中央を南北に二分し、南を海軍、北を陸軍が、被爆四日目ごろから低地に屍体を集めて積みあげ、油をかけて焼(酷暑で悪臭とハエがわくので)いて片づけたのに比べると、簡素ながら近親者で葬い得たことはせめてもの救いであった。

いつもはアメリカ帰りで正確に午前八時に出社していた私が、前夜の取材活動(佐伯郡原村農協での広幅蒲蒔き麦の増産座談会に吉岡写真部長—今の広告局長——同道で)が晩くなり、宮島電車三、四台ほどおくれて己斐まで来てピカドンに遭ったため命拾いをした。また、もし生家の横川一丁目に住んでいたら、もちろん同八時には出社していたからお陀仏だったに違いない。

あのピカドン後に、近親者探しその他で入市した人々のうちにものち原爆症で死んだ人も多いなかに、上記の如く文字通り「原爆生き地獄を往く」血のにぢむ体験をしながら今日(七一才)まで生き伸び得たのはそれこそ「儲けもの」である。

平和活動に余生をささげ、憲法改悪など全人類の敵に命がけで斗い「戦争」は断じて阻止する所存である。

続く >>

※一部不適切な表現があるが、オリジナルのまま掲載した。

 

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一世の記録を拾い集めた男 ~加藤新一の足跡をたどって~

第17回 広島はアメリカ2世の郷里だから?

日米開戦から8ヵ月余の1942年8月20日、日米交換船で日本へ戻った加藤新一は、郷里の広島市で中国新聞の記者となった。いつからどのような経緯で就職したかはわからないが、アメリカでの邦字新聞の記者としての経験がものを言ったのだろう。

中国新聞は、広島市に本社を置き広島県内のほか、山口県、岡山県、島根県など中国地方で販売されているブロック紙で発行部数は、約53万8000部(2021年3月)。その歴史は古く、明治25(1892)年に「中国」として創刊、明治41(1908)年に「中国新聞」と題号がかわった。


開戦前後の中国新聞

日米開戦の翌年(1942年)に中国新聞は創業50周年を迎えた。開戦後勢いを増していた日本だが、加藤が帰国する2ヵ月前の6月にはミッドウェー海戦で敗北し、守勢に転じていた。1944年にはサイパン島で日本軍は玉砕、東条内閣は総辞職した。日本本土への空襲もはじまり、11月には東京も初めて空襲に見舞われた。

1945年5月15日、中国新聞の東京支社が焼夷弾攻撃によって消失、つづいて大坂支局、岡山支局、宇部支局、下関支局、徳山支局、福山支局が戦火で失われた。このため広島市の中国新聞本社では迫りくる空襲への防衛対策が進められた。

しかし、社員の多くは応召していたため、地方の支局員を交代で動員、防火幕や防火水槽を設けるなどして防空体制を整えた。一方、新聞用の資材は空襲に備えて疎開させた。

戦局が悪化するなかで、中国新聞社の本社では、当時軍の命令によって中国新聞本社員と広島にある各報道機関の従業員とで構成する「中国新聞社国民義勇隊」やビル社屋や印刷機械を空襲から守るための自衛隊が組織されていた。

義勇隊の本部(隊長)は、社長の山本実一で、軍隊組織のように構成されていたが、このなかで加藤新一は、本体の第一中隊長につぐ第一小隊長の任を受けた。帰国後、中国新聞にすぐ入社したとしてもまだ数年の加藤が、こうした地位にあったということは、経験や実力を買われて、記者として社内でもそれなりの地位にあったと推測される。が、彼の戦前の中国新聞社での活動についてはわからない。


原爆前の穏やかさ

1945年4月1日、米軍は沖縄に上陸、日本軍と地上戦を繰り広げた末6月23日戦いを終結させた。本土への空襲も激しさを増していくが、広島市では米軍機が来襲したのは、3月18日,19日と4月30日だけで比較的平穏な日々が続いた。

「広島県が移民県であり、アメリカ二世の郷土だから、空襲目標から除かれているのではないか」という説が飛び出るほどだったという。

だが、そうした説を戦争の冷酷さが吹き飛ばしたのが8月6日だった。午前8時15分、広島市細工町十九番地(現在の大手町一丁目)島病院の当方約25メートル地点の上空580メートルで、アメリカのB29エノラ・ゲイ号が落とした原爆が爆発した。

当時、中国新聞社は爆心地から約1.5キロの広島市上流町二の一にあった。この日出勤の義勇隊員約40人は、午前8時すぎ広島県庁舎北側の天神町の強制建物疎開地に集合して指揮者の命令を待っていた。また、前夜からこの日にかけて宿直していた十数人の社員は、午前7時31分の警戒警報解除とともに一部を除いて仮眠をとりに帰宅したり社の前の支社局員の寮へ帰ったりしていた。本社の社屋内にいたのは10人だった。

爆発と同時に窓ガラスは全部吹き飛び、社員のひとりは爆風にあおられて二階から落下した。

広島の街は一瞬にして破壊され、凄惨な光景がいたるところで見受けられた。


いつものように出勤していたら

この日は平日であり、人々は通勤、通学など一日の仕事をはじめる準備にとりかかろうとしていた。午前8時には警戒警報が解除されたこともあり、ひと息ついていた人もいた。爆発が起きた時、加藤新一は中国新聞本社へ向かう通勤の途中だった。加藤の実家は市内の横川駅に近いところだったが、当時は市内中心部から約10キロほど南西にいった平良村(現在の廿日市市)に妻子とともに住み、毎日そこから社へ通っていた。

出勤時間はいつも守っていたようで、通常は8時には出社していたのだが、この日は前夜の取材で帰りが遅くなったため、いつも乗っている電車(広島電鉄宮島線)より3、4本おそい電車に乗った。

もし、いつもの電車に乗っていたら加藤は、命を落としたか、かなりの重症を負ったと思われる。通勤途中で爆発を知った加藤は、その瞬間から自分がとった行動と目にしたものを記録している。


残された体験記

平和活動に邁進していた1971年、加藤は、自らが発行した「平和競存の創造」と題する出版物のなかで「原爆生き地獄を往く一老記者のピカドン体験記」と題して4ページほどにまとめている。

「この一文は近来『戦争放棄』の平和憲法改悪の機運が強く、生命を賭して第三次大戦阻止のため、また余生を平和運動にささげる原点として一九七一年八月の原爆記念日に際して再記述した。(筆者)」とあるように、いつかはわからないが被爆後に記したものを、26年後に採録したと思われる。

爆発を知った瞬間から、市内の中国新聞本社へと向けて、破壊され死者とけが人がうごめく街を歩き回り、夕刻自宅にようやく戻るまでの間の生々しい記録だ。

油に似た黒い雨が降る。医者はどこだと叫ぶ声。子どもを案じて泣き叫ぶ若い母親。撃墜された米軍機に乗っていた米兵への仕打ち。被爆直後の街の光景がとらえられている。

次回、体験記をそのまま紹介したい。

(敬称一部略)

続く >>

注1:中国新聞に関しては「中国新聞八十年史」(中国新聞社史編纂委員会、1972年)を参考にさせていただきました。

 

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一世の記録を拾い集めた男 ~加藤新一の足跡をたどって~

第16回 抑留され、交換船で帰国

日米開戦となってから、日系新聞の編集長という日系コミュニティーの指導的な立場のひとりとして、自身の身に起ったことについて、加藤新一は詳しく記録に残していない。ただ、「日米開戦でモンタナミゾラ抑留所に監禁され、同年六月紐育から第一次交換船で帰国」(「米國日系人百年史」)とあるだけだ。

1941年12月8日未明(ハワイ時間12月7日)、日本軍はハワイの真珠湾を攻撃。その数時間後には、アメリカ連邦捜査局と移民局の人間が、日本人、ドイツ人、イタリア人の家々をまわり、あらかじめ用意されたリストにある一世の男たちを逮捕、連行していった。彼らの大部分は日本語教師、新聞編集者、仏教の僧侶など、地域のコミュニティーのリーダーだちだった。


モンタナ州、ミズーラ抑留所へ

逮捕された男たちは、その後事情聴取を受け、釈放されるものもあったが多くが敵性外国人として、在外外国人抑留所に送られた。主な抑留所は、クリスタルシティー(テキサス州)、ケネディー(同)、シーゴビル(同)、フォートリンカーン(ノースダコタ州)、フォートスタントン(ニューメキシコ州)、オールドレイトンレンチ(同)、ローズバーグ(同)、サンタフェ(同)、クースキア(アイダホ州)、フォートミズーラ(モンタナ州)、サンドアイランド(ハワイ)である。

これらは、のちにアメリカ西海岸などに住む日系の1世と2世、約12万人が送られた全米各地の強制収容所とはちがって、アメリカ司法省と陸軍によって運営されていた。 

本人の言葉を借りれば、加藤が「監禁」されたのは、ロサンゼルスから北東に約2000キロ離れたモンタナ州にあるフォートミズーラ(Fort Missoula)という抑留所(camp)だった。

アメリカ大陸では、17世紀から開拓を続ける白人入植者とネイティブ・インディアンとの間で戦いが続けられていたが、フォートミズーラは、いわゆるインディアン戦争(Indian War)のため1877年に白人が築いた基地だった。ここに日米戦争がはじまると日系人やイタリア系の者約2200人が収容された。


捕虜交換のような日米交換船

抑留所に収容された日本人は、官吏をはじめ商社・銀行員、ジャーナリスト、学者などアメリカの日本人コミュニティーに大きな役割をもつ人物たちだった。同じように、日本や日本の支配下の地域にも開戦後、アメリカの日本人と同じような立場のアメリカ人がいた。両者は、互いに人質のような関係であり、そこで対米、対英に捕虜の交換のように両者を交換しようということになり、中立国を介してこの交渉を行った結果、1942(昭和17)年5月、交換に関する協定が結ばれた。

これを実行に移すために使われたのが「日米交換船」である。日本側、アメリカ側双方から、相手国側の人間を乗せた船を出し、決められた第三国の港に集合する。そこで、乗船者を“交換”するという仕組みである。日米交換船の場合、アメリカ側では交換船はニューヨークから出航することになった。したがって、交換船に乗るものは全米各地の抑留所などから最終的にニューヨークへ集められた。

加藤本人の記録はないが、同じようにアメリカにいて交換船で帰国した哲学者、鶴見俊輔が、文芸評論家の加藤典洋と作家の黒川創を前に語り、加えて黒川が交換船の記録をまとめた「日米交換船」(新潮社)のなかに、抑留から交換船での帰国までの模様が書かれている。

鶴見は当時東海岸、ボストンのハーバード大学に留学していて拘留され、メリーランド州のフォートミードに抑留されたのち交換船に乗るが、サンフランシスコ周辺の日本人商社員らの場合は、開戦から数日のあいだに百人あまりが逮捕され、移民局の留置場に収容され、その後モンタナ州のフォートミズーラ収容所に送られた。

その途中で、ロサンゼルス港ターミナル島の合衆国監禁所などから送られてくる日本人の被収容者と合流して護送列車は北上して、三日目の午後荒野のなかに2,30棟のバラックを鉄線で囲ったフォートミズーラ収容所に着いたという。西海岸からの話は、当時同盟通信のサンフランシスコ支局長の秋山慶幸の「同胞抑留生活の実情」がもとになっている。

では、抑留所から交換船に乗るまではどのような経路をたどったのか、これも加藤の場合はわからないが、鶴見がいたフォートミード抑留所では、交換船に乗って帰国することを希望するかどうかがアメリカ側から質問され、これに答えたのち帰国者が発表された。この段階で帰国はせず残留することを選んだものもいた。


交換場所は東アフリカのロレンソ・マルケス 

アメリカ側は交換船の詳細についても発表した。使用する船は、中立国スウェーデンのグリップスホルム号(1万8000トン)で、北米をはじめカナダ、メキシコ、中米、南米に在留の日本人が乗船することになった。この船は、ニューヨークから出てブラジルのリオデジャネイロでも人を乗せたのち、東へ向けて大西洋を横断し、アフリカ大陸の南端、喜望峰を回り、同大陸東側に位置するポルトガル領のロレンソ・マルケス(現在のモザンビークの首都マプト)で、日米両国の人間を交換することが明らかにされた。

一方、日本側では、日本郵船の浅間丸(1万7000トン)とイタリア船籍のコンテ・ヴェルデ号(1万9000トン)がその任務につくことになった。浅間丸は横浜を出て香港、サイゴンで現地からの帰還者を乗せ、コンテ・ヴェルデ号は、上海から中国の日本占領地からのアメリカ人を乗せて出航、両船ともシンガポールを経由し、インド洋を西に向かって横切りロレンソ・マルケスを目指す。

おそらく加藤も帰国を希望したから交換船に乗ることになったはずである。妻子については、このとき一緒に帰国したのか、1940年に帰国した時にそのまま広島にとどまっていたかは不明である。

いずれにせよ開戦からおよそ半年後、ようやく日米間の「交換」の手続きがととのい、1942年6月18日午前零時前、アメリカ側の第一次日米交換船グリップスホルム号はニューヨーク港を出航した。乗船者の数については、外務省の資料から日本人1066人、タイ国人17人の合計1083人と記録されている(「日米交換船」より)。このなかに加藤も含まれていた。

グリップスホルム号は、一路南下し赤道を越え、7月2日ブラジルのリオデジャネイロに寄港、4日には同港を離れ東へと進路をとり、7月20日ロレンソ・マルケスに到着した。

一方、グリップスホルム号から一週間遅れた6月25日、浅間丸は横浜港を出港、そして29日にはコンテ・ヴェルデ号が上海港を出航、ともに7月22日にロレンソ・マルケスに到着した。翌23日には乗船者の交換がはじまった。日本側の2隻に乗っていた者は、船を下りニューヨークから来たグリップスホルム号に乗り換え、反対にグリップスホルム号に乗っていた者は、そのうち北米組が浅間丸に、中南米組はコンテ・ヴェルデ号に分かれて乗船した。

こうして「交換」を終えると、日本側の浅間丸とコンテ・ヴェルデ号は7月26日に、そしてアメリカ側のグリップスホルム号は、同28日にそれぞれ自国へと踵を返し、日本側2隻は8月20日に横浜へ帰還、アメリカ側1隻は同25日にニューヨークへ帰還し、交換は無事終了した。

横浜の港に下り立った加藤のその後詳しい足取りはわからないが、まもなく郷里の広島で、戦渦の日々を経験することになる。

(敬称一部略)

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