ボランティアの声:全米日系人博物館を支える人々

このシリーズでは、ニットータイヤからの資金提供を受け『羅府新報』が出版した冊子「ボランティアの声:全米日系人博物館を支える人々 (Voices of the Volunteers: The Building Blocks of the Japanese American National Museum)」から、全米日系人博物館ボランティアの体験談をご紹介します。

数年前、ニット―タイヤはロサンゼルスの邦字新聞『日刊サン』と共同で全米日系人博物館(JANM)のボランティアをインタビューしました。2014年末、これらのインタビューを小冊子にまとめるべく、ニットータイヤから私たち『羅府新報』に声がかかり、私たちは喜んで引き受けることにしました。JANMインターン経験者の私は、ボランティアの重要性や彼らがいかに献身的に活動しているか、そしてその存在がどれほど日系人の歴史に人間性を与えているか、実感していました。

冊子の編集にあたり、私は体験談ひとつひとつを何度も読み返しました。それは夢に出てくるほどでした。彼らの体験談に夢中になるのは私だけではありません。読んだ人は皆彼らの体験にひきこまれ、その魅力に取りつかれました。これが体験者本人の生の声を聞く醍醐味です。JANMのガイドツアーに参加する来館者が、ボランティアガイドに一気に親近感を抱く感覚と似ています。ボランティアへの親近感がJANMの常設展『コモン・グラウンド』を生き生きとさせるのです。30年間、ボランティアが存在することで日系史は顔の見える歴史であり続けました。その間ボランティアはずっとコミュニティの物語を支えてきました。次は私たちが彼らの物語を支える番です。

以下の皆様の協力を得て、ミア・ナカジ・モニエが編集しました。ご協力いただいた皆様には、ここに厚く御礼申し上げます。(編集者 - クリス・コマイ;日本語編者 - マキ・ヒラノ、タカシ・イシハラ、大西良子;ボランティアリエゾン - リチャード・ムラカミ;インタビュー - 金丸智美 [日刊サン]、アリス・ハマ [日刊サン]、ミア・ナカジ・モニエ)

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ジェームス・道也・吉永

ジェームス・吉永さんは、1929年、ロサンゼルスのダウンタウンの一角で福岡県出身の母親と鹿児島県出身の父親との間に長男として生まれた。父親は農村の小地主の息子で、ジェームスさんが3才の時、一家で一時的に日本へ帰国した。まもなく再渡米した両親はロサンゼルス郊外のグレンデール市で中華料理店を営んでいたが、1937年、一家は再び一時帰国のつもりで鹿児島へ戻った。この時、ジェームスさんはグレンデール市のジョン・ミュアー小学校の2年生だった。

祖母の住む農村で新たな生活をはじめたジェームスさんは、たちまちいじめの対象となった。坊主頭、下駄履きの農村の子供たちにとって、長髪、革靴のアメリカ風の格好が奇異に映るのは当然だった。薩摩弁は慣れるまで何を言っているのか理解できなかったが、ロサンゼルスで毎週土曜日に日本語学校へ通っていたお陰で、同じ2年生のクラスに入れてもらえた。数年後には、皆と仲良くなることができたという。

ジェームスさんが小学6年生の時 ...

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ウィリアム・“ビル”・ヒロシ・シシマさん

ビル・シシマさんは、ご飯のおかずに牛舌、セソ(脳みそ)、そしてメヌード(ウシの胃のスープ)を食べて育った。父親のカツスケさんは、ロサンゼルスのメキシコ系コミュニティーのあるオルベラストリートの近くで食料品店を営んでおり、店ではもっぱら、タマレスに使うチリやマサ(とうもろこし粉)などの食材を扱っていた。店の厨房では、残り物でチョリソーを作っていた。

週末には、チャベス・ラヴィーンに住んでいるメキシコ系アメリカ人が注文をしに店を訪れた。父親は従業員にチャベス・ラヴィーンまで品物を届けさせ、料金を受け取っていた。

ビルさんの兄はメリノール教会のボーイスカウトで活動しており、ビルさんもボーイスカウトに入隊できる12歳になるのを楽しみにしていた。しかし ...

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ゲイリー・オノさん

ゲイリー・オノさん の日当たりの良いリトル東京のアパートは、ゲイリーさんの大好きな物の宝庫だ。

ダイニングテーブルの後ろの壁には古く色あせた日本画の掛け軸がかけられている。神話のイザナギとイザナミまでさかのぼっり、日本の歴代天皇が美しく配列され、描かれている。その横には5フィートほどもありそうな墨と筆で書かれた書道の掛け軸が下げられている。これは、ゲイリーさんの前にこのアパートに住んでいたタケダさんという90歳代の女性の作品だ。

その奥の壁には、日本のモノクロの芸術とは全く対照的な星条旗が掲げられている。

この星条旗(これもタケダさんから受け継いだ)は、ゲイリーさんが隣人から遺影写真の撮影依頼を受けた時に使用したもので、ベトナム戦争の退役軍人だった依頼主は軍服姿での撮影を希望した。ゲイリーさんは、全米日系人博物館に来る何年も前まではプロの写真家として活動していたのだ。その日、背景に星条旗を広げ、依頼主のバルコニーで撮影を行った。その後、一時的な置き場所のつもりで星条旗をキッチンの出入り口にかけていたが ...

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リチャード・ミチオ・ムラカミさん

リチャード・ムラカミさんの戦時体験は波乱に満ちていた。ムラカミさんは家族と共に収容所を転々とし、終戦までの間にツールレイク、ジェローム、ハートマウンテンの3か所に収容された。

第二次世界大戦が始まった時、リチャードさんは日系人の少ないカリフォルニア州レークウッドに住んでいた。真珠湾攻撃の翌日、白人の学友が、数日間学校を休んだ方がいいと助言してくれたという。家族と共に強制収容所に送られたリチャードさんは、その時初めて日系人しかいない環境に身を置くという経験をした。

ムラカミさんの父親は帰米だったが米国を信用し、半年もすれば家族と共に収容所から解放され、農業を始められるだろうと信じていた。

(政府から)ノースダコタ州の土地を提示されたが、耕作には向かない積雪の多い凍土で、農作物が育ったことのない土地だった。父親は、2年間一家の生活が保障されることを条件に土地を開拓するつもりだったが、米国政府はその申し出を拒否した。

失望した父は、広島に残してきた2人の息子の元に引き上げることを考えたが ...

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メイ・フジノさん

メイ・フジノさん(1933-2016)は、全米日系人博物館でボランティアとして過ごす時間を楽しんでいた。博物館では歴史や日本語の勉強に没頭し、少女時代を思い出すこともあった。メイさんの家族は、困難を極めた時代にも、いかなる状況に置かれようと最善をつくす術を持っていたという。

1933年カリフォルニア州サリナス生まれのメイさんは12人兄弟の長女で、「だから私は大将だった」と笑った。両親は共に広島にルーツを持ち、一世の父は10歳でアメリカに渡り、母親は帰米二世だった。両親は共にバイリンガルで、メイさんの母語は日本語だったため、日本語学校には通わなかった。「一世の子だから」とメイさん。

言語的な障壁はなかったが、一家は他の問題に直面していた。1913年の排日土地法により、外国生まれの一世は土地を購入することができなかった ...

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