ボランティアの声:全米日系人博物館を支える人々

このシリーズでは、ニットータイヤからの資金提供を受け『羅府新報』が出版した冊子「ボランティアの声:全米日系人博物館を支える人々 (Voices of the Volunteers: The Building Blocks of the Japanese American National Museum)」から、全米日系人博物館ボランティアの体験談をご紹介します。

数年前、ニット―タイヤはロサンゼルスの邦字新聞『日刊サン』と共同で全米日系人博物館(JANM)のボランティアをインタビューしました。2014年末、これらのインタビューを小冊子にまとめるべく、ニットータイヤから私たち『羅府新報』に声がかかり、私たちは喜んで引き受けることにしました。JANMインターン経験者の私は、ボランティアの重要性や彼らがいかに献身的に活動しているか、そしてその存在がどれほど日系人の歴史に人間性を与えているか、実感していました。

冊子の編集にあたり、私は体験談ひとつひとつを何度も読み返しました。それは夢に出てくるほどでした。彼らの体験談に夢中になるのは私だけではありません。読んだ人は皆彼らの体験にひきこまれ、その魅力に取りつかれました。これが体験者本人の生の声を聞く醍醐味です。JANMのガイドツアーに参加する来館者が、ボランティアガイドに一気に親近感を抱く感覚と似ています。ボランティアへの親近感がJANMの常設展『コモン・グラウンド』を生き生きとさせるのです。30年間、ボランティアが存在することで日系史は顔の見える歴史であり続けました。その間ボランティアはずっとコミュニティの物語を支えてきました。次は私たちが彼らの物語を支える番です。

以下の皆様の協力を得て、ミア・ナカジ・モニエが編集しました。ご協力いただいた皆様には、ここに厚く御礼申し上げます。(編集者 - クリス・コマイ;日本語編者 - マキ・ヒラノ、タカシ・イシハラ、大西良子;ボランティアリエゾン - リチャード・ムラカミ;インタビュー - 金丸智美 [日刊サン]、アリス・ハマ [日刊サン]、ミア・ナカジ・モニエ)

提供:

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鈴木康之さん

「全米日系人博物館のボランティアガイドはおもしろい。日系アメリカ人の歴史のクラスを受講したが『マニュアル』はないので、いつも勉強しないといけない」

鈴木康之さんは、日本語で展示を案内する全米日系人博物館のボランティアガイドの一人だ。ガイドをするにあたり、日系二世による英語のボランティアガイドについてまわり、展示について話す内容を全部覚えたという。しかしそのままだと日本からの来館者には伝わりにくいため、日本人を案内するときは「その時の日本はこんな時代」などと日本史を並列して説明する。

1972年に渡米した康之さんは、近畿日本鉄道の米国子会社であるアメリカ近鉄興業の駐在員としてサンフランシスコ市の日本町再開発事業に携わったことがある。2009年に退職するまで日米を行き来しながらリトル東京の発展にも携わってきた。

康之さんは1943年、日本の敗戦色が濃くなった時代に大阪市内で生まれた。1945年の大阪大空襲で一家は焼け出され、奈良県の親戚宅に疎開した。配給通帳を持って近所の米屋に配給をもらいに行き、豆類や雑穀が混じる米を食べた。昼ご飯は、まずいふかし芋1本だけだったこともある ...

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ケネス・“ケン”・ハマムラさん

ハマムラさんは、長年に渡り全米日系人博物館(以下博物館)で幅広い役割を担い、活躍してきた。博物館への寄付者、スタッフ、そしてボランティアとして活動する中で、ハマムラさんは、日系人の物語や遺品を保存・共有し、次の世代へつないでいくことの大切さを認識するようになった。

ハマムラさんは博物館の使命に共感し、自身の家族史を見つめ直し、娘や孫たちに継承していきたいと考えている。帰米二世の両親を持つ日系三世のハマムラさんは既に退職し、家族史に関わるアーカイブ資料を掘り下げ、写真を収集し、家族の過去にゆかりのある場所を訪れるなどして長年に渡り調査や記録を続けている。

ハマムラさんのおじいさんは、1886年、ハワイ島ヒロの北部、オノメアのサトウキビ畑で3年の契約で働くため、21歳で広島を離れた。おじいさんが乗った大型船は ...

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メリー・カラツさん

「1993年に大規模な非営利団体の会長補佐を引退した後、私はボランティアとして第二の人生を歩み始めました」とメリー・カラツさんは言う。決断力と人間的な魅力を兼ね備える彼女は何年もの間、全米日系人博物館のような地域密着型の組織の間で大立者であった。

彼女は初め、お世話になり、他人に奉仕するとはどういうことかを教えてくれたある白人女性からインスピレーションを得た。「彼女の存在は私の人生に大きな影響を与えました」とメリーさんは言う。「私は子供のころ、彼女のようになりたいと思っていました」

28年間、彼女はアメリカ最大の非営利組織の一つYMCAで会長補佐として働いた。彼女の職務経験は、彼女が博物館の初期の支持者となり、ボランティアたちのリーダー役を担ううえで役に立ったという。彼女はベストセラーとなった料理本「Cooking with Love」の制作委員長を務め、イベント表彰委員会を通して企画したオール・ミュージアム ...

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ロバート・“ボブ”・ウラガミさん

「博物館は自分には縁のない場所だった」というボブ・ウラガミさん。彼が、全米日系人博物館と初めて出会ったのは、開館記念展「Issei Pioneers: Hawai`i and the Mainland, 1885-1924(一世の開拓者たちーハワイとアメリカ本土における日本人移民の歴史1885-1924ー)』」の準備のため、1991年に展示品の依頼を受けたときだった。

長年、母が保管していた1916年付の日本語の手紙を提出し、翻訳してもらった。それは結婚前、父が母にあてた手紙で「ちまたで言われていることとは違い、アメリカには金のなる木はない」とあり ...

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田島喜八郎さん

田島喜八郎さんの父キミオさんは、アメリカ生まれの二世だが、28歳で日本兵としてニューギニアで戦死した。父が召集されたとき生後10カ月だった喜八郎さんは父の顔も覚えていないが、喜八郎さんは戦争遺児といわれて育った。

小学生の頃に「なぜ僕は戦争遺児なの?」と母に聞いた。母は「お父さんは日本兵として戦死したけど、アメリカで生まれ育ったのよ」と話した。会ったことのない父を慕う気持ちが芽生え、そのころからアメリカへ行きたいと思い始めたという。

喜八郎さんは1942年、福岡県生まれだが、アメリカへのルーツは、20代にアイダホ州でポテトの栽培を学ぶために福岡県八女郡から単身で渡米した祖父にたどることができる。祖父は同郷から祖母を呼び寄せて結婚し、父が生まれた。

祖父はアメリカで一財産を築き、一家で故郷の福岡へ帰った。父が5歳くらいの時だった。高校生になった父は勉強のためアメリカへ戻り、ロサンゼルスの高校に入学した ...

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