ディスカバー・ニッケイ

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第14回(前編) 二世の進学した大学

前回は二世の二重国籍問題と結婚問題についてお伝えしたが、今回は二世の進学した大学に関する記事1を紹介したい。多くの二世達はアメリカの高等教育機関である大学に進学し、最先端の知識や技術を学び、日系人社会への貢献を目指した。

ワシントン大学への入学

ワシントン大学の歴史についてワシントン大学在学の岡丸正二が1939年1月1日号へ寄稿した「華大(ワシントン大学)と日本人学生」では、次のように掲載されている。

『北米時事』1939年1月1日

「華大は1861年、東京帝大設置に先立つこと四分の一世紀の創設に係り、以来拡充に拡充を重ね、現在(1939年)の学生数12,000人、その敷地面積550英加(約223万m2)、ゴシック式学館建築費だけでも1500万ドル以上を費した宏莊美麗(こうそうびれい)なもので全米に著名である。

華大はハスキーの異名を以て呼ばれベルリンオリンピック(1936年)に於けるボート競技で優勝した事は周知の通りである」

第9回「日本人ホテル業の発展」でお伝えした、1909年に開催されたアラスカ・ユーコン太平洋博覧会の会場がワシントン大学だった。

1919年頃のワシントン大学へ入学、卒業した日本人の様子を記載した記事があった。

「華大新学期開始」(1919年4月2日号)

「華大は今日より新学期開始。昨日までに登録を終えたる学生は1200名以上。今学期より入学した日本人学生2名」 

「本年度同胞卒業生」(1919年6月4日号)

「華州大学の本年度の日本人卒業生は3名、ハイスクール卒業生7名の内、2名は既に工科に入学。3名が本年10月入学の予定」

前掲の岡丸正二の投稿記事「華大と日本人学生」では、ワシントン大学に進学した日本人学生ついても詳しく紹介されている。

「現在(1939年)、華大に在学して居る日本人学生は男子150余名、女子約100名、合計250人からの日本人学生が通学して居る。(中略)以前は所謂日本から来た溌剌な学生が多く、一般に日本式であり元気があった。最近は二世が殆ど全部で日本語なんか聞くことすら稀である。之も又時世の変化で何も異とするには足らないが、現在の学生は以前の邦人学生が持ってゐた覇気を置き忘れて来た観がある。(中略)

然し二世を貶すには当らない。事実二世の知的標準は一般米人学生に比し、遥かに上位に在る。吾々の時代の学生に比ぶれば現代の日本の大学生は賢い。そして遥かに洗練されて居る。然し何処となく暗い影を潜む一世に比すれば二世は一般に明朗で而も健康的である。二世の学業成績は之を大学当局発表の団体成績統計に視れば判然する。日本人男学生のクラブたる『日本人学生倶楽部』は57団体の第3位に存り、女子の『芙蓉会』の如きも37団体中の15位所に居る。(中略)

邦人学生の最も多く在する商科は全米ベストテンの一つであり毎年の優等学生に必ず邦人学生を含むを常とする。薬学部亦著名であるが邦人卒業生は十中八九就職不能である。法、政、経、新聞の各学部亦充実して居り各々特徴を有して居る。(中略)

社会学部では宮本君が講義して居り、初歩の社会学を担当し邦人学生も最多受講して居る有様である。特異なものに全米唯一の水産学部がある。又東洋学部は恐らく全米一の充実したもの。理科方面は機械、土木、電気等幾多の卒業生を出して居り、殆ど全部が本邦に帰朝就職して居る。大戦当時卒業の人々の中には有名な人が多い。此華大校庭から道一つ隔てた所に建てられた邦人の財団を以って造られた『日本人学生倶楽部』があり、最近は頓に父兄有志の方々同窓会等の尽力で色々設備が改善され面目を新にしたので華大見学の方々は立ち寄って頂き邦人学生の現況を知って頂き度い。(中略)

幸にして二世は質において優良である。欠くのは覇気と鍛練である。彼等がスポーツに於て、発揮する丈けの社会的鍛錬と闘士と忍耐を養成しさへすれば、此ソフトなアメリカで一仕事する位の事は何でもない筈である」

文献によると、日本人学生倶楽部は1921年に古屋政次郎、有馬純清、奥田平次等シアトル在住の有力者により三万数千ドルを投じて建設された。この倶楽部は一世達が毎月定額の寄付をし維持、運営され、学生の社交、宿泊に使われた。芙蓉会は1925年にワシントン大学に通学する女学生のための社交倶楽部として発足した。

「日本協会で卒業祝賀」(1938年6月2日号)

「来る6日、今年度華大卒業の日本人学生29名の祝賀会を催す。日本協会会員及び婦人部会員多数が出席す筈」

「華大の日本人優秀学生」(1939年1月18日号)

「華大秋の学期で優秀な成績を挙げた学生の氏名がシーグ総長より発表されたが日本人学生は35名の多数に上ってゐる。(氏名掲載)

「華大卒業日系学士」(1939年1月23日号)

「華大秋の学期終了と共に175名の学生に学位、教師免状、看護婦免状が授与された。(中略)日本人学生で学位を授与されたものは5名(氏名掲載)」

 「今春華大卒業の第二世は5名」(1939年4月10日号)

「華大ウインター・コーター卒業生208名の氏名が発表されたが日本人卒業生は5名(氏名掲載)また優秀生は32名(氏名掲載)」

「華大卒業 日系学生」(1939年6月7日号)

「今年度華大卒業の日系学生は左の諸氏40名(氏名掲載)」

『北米時事』1939年6月7日


卒業後の進路問題

北米時事社社長の有馬純義が「北米春秋」で卒業生の進路について述べている。

「北米春秋、第二世華大卒業生諸君に寄す」(1939年7月19日号)

「今年の華大日本人卒業生は40名、中(うち)女学生9名 。目出度く規定の学業を終へ今後もそれぞれの研究を継続するとしても、兎に角(とにかく)これより実社会の生活に入らんとするのである。我等は諸君のこの意義ある出発を衷心より祝し併せてその前途の多幸を祈るものである。

諸君は卒業と云ふ関門を無事は否優秀の成績をもって通過したのである。その間の研磨努力は決して小なるものでなかった。然し乍らそれと同時にその学業の継続を可能ならしめ又絶えず鞭撻奨励せる父母の恩を忘れてはならない。又社会の恩も忘れることは出来ない。現に諸君が利用せる学生クラブ・ハウスの如きも同胞社会の献金によって出来たものである。父母の恩、社会の恩、これを忘れず今後益々努力して貰ひたい。(中略)

米国に於ては何と云っても未だ人種的偏見が根強く働いて居る。優秀卒業生も日本人なるが故に社会的には不遇と云ふ実例が幾らもある。又それかと云って日本に赴いても言語の不充分、習慣の相違その他で思ふやうな職業や地位も簡単には得られない。

勿論、諸君の前途は洋々たるものである。各方面にその才能を伸ばして行くべきであるが、同時に少からざる困難のあることも予め覚悟を要する。殊に学校で修めた学科によってはその方面への就職も困難を感ずるものもあらうと思ふ。が、将来を目指して即ち日本民族の発展を一人一人が胸に刻んで飽くまで努力せんことを求めて止まない」


卒業生の偉業

ワシントン大学を卒業して大学講師等になる偉業を達成した卒業生の記事が多くあった。

「華大の教壇に第二世の名誉」(1939年3月14日号)

『北米時事』1939年3月14日

「ワシントン大学では此の4月から現東洋史学科主任教授バード・ボラード博士の後任に目下我が外務省の招致学生として来朝中のジョン・マックギルバリー氏(33歳)を迎へる事に決定。氏は来る16日横浜出帆の郵船平安丸で帰国する事になった。此のマックギルバリー氏こそは日本名を眞木宏雄と云ふ生来の日本人であり、日本人がアメリカの大学の主任教授になったのは初めてで日米親善の為に誠に喜ばしい事と関係者一同大喜びである。

眞木氏は1908年当時タコマ市で働いて居た杉山順一夫妻の長男として生まれたが苦境にあった杉山氏は親切なスコットランド人、ノイ・エム・マックギルバリー氏に僅か二歳だった宏雄君を引き取ってもらって日本に帰った。宏雄君はだんだん成長してワシントン大学を優等で卒業すると共に、助教授に任命されて、1936年11月在シアトル岡本領事の斡旋で外務省招致学生として来朝、東大国文科聴講生となって居たもので、今年10月帰国の予定であったが突然の帰国命令に急遽帰国して教鞭に立つ事になった」

「華大の教壇へ、新進の神部信治君」(1939年7月7日号)

「二世の神部信治君は昨年、ワシントン大学卒業後、更に解剖学を専攻、助手を務めてき今度解剖学のアソシエイト・プロフェッサーに任命された」

「平林祐一君が京都帝大の助手」(1939年11月13日号)

「ワシントン大学商科卒業の優等生、平林祐一君が京都帝大の助手になった」

(*記事からの抜粋は、原文からの要約、旧字体から新字体への変更を含む)

第14回(後編) >>

注釈

1.特別な記載がない限り、すべて『北米時事』からの引用。

 

*本稿は、『北米報知』に2022年6月1日からの転載です。

 

© 2022 Ikuo Shinmasu

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このシリーズについて

北米報知財団とワシントン大学スザロ図書館による共同プロジェクトで行われた『北米時事』のオンライン・アーカイブから古記事を調査し、戦前のシアトル日系移民コミュニティーの歴史を探る連載。このシリーズの英語版は、『北米報知』とディスカバーニッケイとの共同発行記事になります。

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『北米時事』について 

鹿児島県出身の隈元清を発行人として、1902年9月1日創刊。最盛期にはポートランド、ロサンゼルス、サンフランシスコ、スポケーン、バンクーバー、東京に通信員を持ち、約9千部を日刊発行していた。日米開戦を受けて、当時の発行人だった有馬純雄がFBI検挙され、日系人強制収容が始まった1942年3月14日に廃刊。終戦後、本紙『北米報知』として再生した。

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執筆者について

山口県上関町出身。1974年に神戸所在の帝国酸素株式会社(現在の日本エア・リキード合同会社)に入社し、2015年定年退職。その後、日本大学通信教育部の史学専攻で祖父のシアトル移民について研究。卒業論文の一部を日英両言語で北米報知とディスカバーニッケイで「新舛與右衛門― 祖父が生きたシアトル」として連載した。神奈川県逗子市に妻、長男と暮らす。

(2021年8月 更新)

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