ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2023/6/11/north-american-times-13-pt1/

第13回(前編) 二世の二重国籍と結婚問題

前回は国語学校についてお伝えしたが今回は第二世が成人していく中で起こった二重国籍問題と結婚問題についての記事についてお伝えしたい。

二世が誕生した時に、米国へ出生届を提出すると同時に領事館を通して日本へ出生手続きを行い、多くの二世が二重国籍者となった。二世は成人となり、どちらの国の国籍を持つべきか、又どちらの国の人と結婚するかという切実な問題に迫られた。

二世の出生届け 

二世の数が増大していった1919年頃の出生届けについての記事があった。

「米国出生児童の入籍手続きに就て」(1919年1月16日号1

「米国に於て出生したる児童にして、日本入籍の手続即ち領事館へ出生手続きをなさざりし者が、 日本に帰朝する時は規定により、一旦日本の戸籍に入籍し、然る後に国籍離脱法に従ひ、離脱の手続きをなすか、或は二重国籍のまゝにて、後に至り手続きをするが、後れにして一旦 は入籍の手続き必要なれば、今後の出生者は必らず領事館に届をなすべし。帰国者は郷里に於て其手続きを為すべしとの事なり」

文献によると当初は、米国出生者は米国と日本の両方へ出生届けを出す必要があり、以後日本国籍を離脱することはできなかった。しかしこの記事にも見られるように1916年から交付された改正国籍法で17歳未満であれば、手続きをすれば、日本国籍を離脱することができた。更に1924年12月より年齢に関係なくいつでも日本国籍を離脱でき又出生後14日以内に領事館へ出生届けを出さなければ、自動的に日本国籍を離脱できた。

「二世の教育と結婚と就職と事業の継承と」(1934年8月8日号)

『北米時事』1934年8月8日

「内山領事は本日の日本人会臨時協議会に、日米関係の好転、同胞社会状態の変転、その将来について述べ、時代の変遷を物語るものとして、米国沿岸在留の日本人が日本政府に国籍法改正の急を提案した1915年頃の状態と今日のそれとを比較してみるとその変化は驚くべきものありと云って、当年沿岸協議会の名にてなした国籍法改正建白書中の文字を引用して国籍の改正に至るまでの経過を呼び起こした。(中略)

領事は過去及び現在の出生状態とその国籍保留について当地領事館管内に最も同胞の出生率が高かったのは1922年から24年頃、出生5000と云われた頃、日本国籍留保のものの数はその半数に足らず。しかも現在国籍を離脱するものの数頗る多く、更に近年に至っては出生者は当年の一割に減じ、内日本国籍を留保するもの三分の一。更に国籍の離脱をなすものを加へるとそれ等の大半は、やはり米国のみの国籍を保留して居る状態であるに鑑み、諸氏は二世の教育、結婚、就職、事業の継承等々について充分の研究をされんことを望む云々と述べた」

『北米年鑑』1928年によると1924年12月〜1925年11月までのシアトル帝国領事館内で出生者972人の内348人(約36%)がアメリカ国籍と日本国籍を同時に持つ二重国籍者で、残り624人は日本国籍を離脱した米国国籍者だった。

表1:日系米国市民出生者統計(1924年12月1日〜1925年11月30日)

二重国籍問題

「日系市民は日本の国籍を離脱せよ」 (1938年2月18日号)

「アメリカンリージョン全米副指揮官のゼームス・アール・マハフイ中佐はアメリカンリージョンハワイ支部の米化委員会が率先して日系市民の日本国籍離脱運動を起す必要があるとて次の如く論じた。

『この運動を効果的たらしめるには、先づ日本人の父兄を教育してかヽらねばならない。それにはアメリカは日系市民を心から歓迎するものであるが、然しそれには日本の国籍を離脱し、アメリカ一国のみに忠誠であると云ふことを示す必要のあることを説いて聴かせねばならぬ』」

『北米時事』1938年2月18日

マハフイ中佐の提言に対して、有馬純義は、「北米春秋」で次のように語った。 

「日系市民の日本国籍離脱 (一)・(二)」(1938年3月28、29日号)

「第二世の二重国籍問題は今日まで種々論議され、注意され、警告されて来て居るが、これは結局は、はっきり解決されねばならぬ問題である。この二重国籍は日本の国籍法と米国のそれとの根本的相違、即ち属人主義と属地主義の間に生ずる奇形的存在である。国家はその国民に絶対の忠誠を要求する。(中略)我等はマハフイ中佐の日本国籍離脱の意見に反対すべき理由を持たぬ。それは米人としての当然の意見であると思ふ。この意見は寧ろ善意の日本人に対する警告と注意であった。

(中略)果して然らば彼等が丁年に達すると同時に自己の意志に従ってその国籍を決定せしむるが最も簡単なこの問題の解決法ではないかと思ふ。だが問題は理論と実際の必らずしも一致せず、或はそこに他の困難なる問題が起り易いことである。その一つは彼等の国籍が法律上明確に決定されたと云ってもその社会的待遇と地位が比較的彼等に冷遇であったとしたなら彼等を待つものは失望にあらずんば自屈であらう。これは米国人のもっと同情と理解をもって日系市民の立場を考へて貰はねばならぬ点である」

「二重国籍問題加州議会で問題とならん —排日議員一味が策動—」 (1939年6月10日号)

『北米時事』1939年6月10日

「加州議会の排日諸法案通過阻止運動に全力を尽し好果を挙げつゝある全米日系市民協会長坂本弁護士より、『カリフォルニア州議会の排日一派、並に在郷軍人団中に第二世の二重国籍を問題としようとしてゐる形勢がある』と注意してきた。同氏は更に『同州の州議会で排日漁業法案、並びに排日土地法案の通過を図って悉ことごとく失敗に帰した彼等排日一味は、第二世の米国に対する忠誠問題を表面化せんとしてゐる情報あり。各地日系市民協会で父兄側とよく諒解を遂げ、二重国籍者は至急、単一国籍に改めるやうに慫慂しょうよう して貰ひたい』と言ってきた」

この記事に対して有馬純義は、「北米春秋」で次のように語った。

「解決を要する第二世の二重国籍」(1939年8月2日号)

「第二世の二重国籍は何時までもこの儘まま に放任さるべきものでない。未定年者のそれは親の意志、便宜のみによって決定さるべきものでないから、暫らく二重国籍の存在も事実上、止むを得ぬのであるが、既に丁年に達せる男女は自分の意志をもってその何れかの国籍を決定すべきである。米人側からのこの忠告が発せられる前に、我が方に於て当然考へて置かねばならぬ問題であり、又その時機は真に到来して居るのである」

有馬純義は、二世がアメリカ市民としての地位を確立し、日系人社会がアメリカの地で生き残っていく為に、二重国籍者は日本国籍を離脱すべきだと主張している。

(*記事からの抜粋は、原文からの要約、旧字体から新字体への変更を含む)

続く >>

注釈:

1.特別な記載がない限り、すべて『北米時事』からの引用。

 

*本稿は、『北米報知』に2022年5月5日に掲載されたものに加筆・修正を加えたものです。

 

© 2023 Ikuo Shinmasu

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このシリーズについて

北米報知財団とワシントン大学スザロ図書館による共同プロジェクトで行われた『北米時事』のオンライン・アーカイブから古記事を調査し、戦前のシアトル日系移民コミュニティーの歴史を探る連載。このシリーズの英語版は、『北米報知』とディスカバーニッケイとの共同発行記事になります。

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『北米時事』について 

鹿児島県出身の隈元清を発行人として、1902年9月1日創刊。最盛期にはポートランド、ロサンゼルス、サンフランシスコ、スポケーン、バンクーバー、東京に通信員を持ち、約9千部を日刊発行していた。日米開戦を受けて、当時の発行人だった有馬純雄がFBI検挙され、日系人強制収容が始まった1942年3月14日に廃刊。終戦後、本紙『北米報知』として再生した。

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執筆者について

山口県上関町出身。1974年に神戸所在の帝国酸素株式会社(現在の日本エア・リキード合同会社)に入社し、2015年定年退職。その後、日本大学通信教育部の史学専攻で祖父のシアトル移民について研究。卒業論文の一部を日英両言語で北米報知とディスカバーニッケイで「新舛與右衛門― 祖父が生きたシアトル」として連載した。神奈川県逗子市に妻、長男と暮らす。

(2021年8月 更新)

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