ジャーナルセクションを最大限にご活用いただくため、メインの言語をお選びください:
English 日本語 Español Português

ジャーナルセクションに新しい機能を追加しました。コメントなどeditor@DiscoverNikkei.orgまでお送りください。

孤独な望郷 ~ フロリダ日系移民森上助次の手紙から

第15回 百歳まで生きてみたい

かつて助次たち日本人が親しんだビーチ

南フロリダの大和コロニーの一員として渡米、コロニー解体後もひとり最後まで現地にとどまり生涯を終えた森上助次は、戦後、夫(助次の弟)をなくした義理の妹一家にあてて手紙を書きつづける。1960年、アメリカで暮らして、とうとう養老年金をもらうようになったという。相変わらず読書欲は旺盛で、宇宙の神秘を知りたいから百歳まで生きたいという。

* * * * *

1960年1月×日

南部フロリダはパラダイス

明ちゃん(姪)、お手紙ありがとう。明けましておめでとう。どうか今年もよろしく。今日、元日は羽織袴でお礼廻りしたのは昔の事。日本では電話でおめでとうと簡単に言って片付けられる事と思います。今日はこちらも休日ですが、働く人もあります。

一面、氷雪でおおわれて一望の銀世界、極めて新年にふさわしい天候ですが、これは北部地方の事で南部フロリダはコートを着る必要もない、全くのパラダイス。海岸は大賑わいの有様です。南部フロリダはオキナワとほぼ同じ緯度です。

一年の計は元旦にありです。勉強は、急がずあせらずジリジリと実力を養成して行くことが肝要です。この国も戦後一般に男女間の風俗が紊乱し、アメリカには処女なしと非難されても止むを得ぬ状況にあるのです。日本も是に劣らぬ有様のようです。十代の男女の学生間の状態等、全く話になりません。

デートし、揚句の果てに子を孕んだり、駆け落ちしたり、親たちはもちろん、当局も頭痛鉢巻きの体です。結婚を全く遊戯視し、好くとくっつき、飽くと離れる。20歳未満で3人の母親、そのうえこの年で三回も結婚したなどというのが少なくありません。

私の健康は、変わりはないが、精神上、かなり大きい変化が来たようだ。何をし始めても、直ぐ嫌になる。こんな事は生まれて初めてで、自分でも不思議に思われる。老衰かも知れぬ。


1960年4月22日

貸したら最後、お金も友情も台無しになる

先日、近くに住んで居た同胞の一老人が強盗にあって惨殺された。多額の金を盗られていたらしい。この頃は物騒で強姦強盗殺人など頻発のありさまで少しの油断もならぬ。

人とお金の話は絶対せぬ事。この際、小遣い銭以上持たぬ事、一人で夜歩きをせぬ事だ。注意して置きたいのは人にお金の貸し借り。殊に親しい間柄では人情として中々断れぬだろうが、貸したら最後、返らぬと思っていたほうがいい。お金も友情も台無しになる。


1960年4月28日

故郷に植えた杉や檜は

今年は、久し振りにマンゴーは豊作らしいです。6月ころから収穫が始まります。何とも形容の出来ぬ、おいしい熱帯果物です。近いところなら送って上げたいが、長持ちしないので駄目です。今は日本でも南洋産がある事と思います。随分、高値でしょう。

私はやはり、日本の柿が何より好きです。あのよく熟れた美濃柿の味、未だ忘れません。こちらでも少し北部で作っていますが、とんと味があきません。滝馬の家の橋を渡った所、美濃柿が一本あった。家の上の段々畑には甘柿があった。おじいさんが植えたので、生きていたら大きな木になっていると思う。私も梨、梅、ミカン等、家の廻りに植えて置いたが、どうなったか。

今も時々思い出すのは半道(1里の半分、約2キロ)も山奥に植えておいた杉や檜だ。大木になっていようか。今は人手に渡って切り倒されたかも知れぬ。私が丹精して種子を集め、苗を作り原野を開いて植付けたのだ。帰国したら何より先に駆けつけて見ようと思う。アア、また話が感傷的になった。ご免なさい。


1960年5月×日

月52ドルの年金をもらう

昨夜の新聞を見ると、人間の寿命、年々延びていくらしいです。遠からず、誰もが百歳以上まで生きられるようです。こんなに人間が長生きして果たして幸福かどうか、疑問です。この国も、老人は厄介者とみられています。私も百まで生きるのにまだ26年あります。

私はこれまで独身を通して来ました。今後も、独身を通す覚悟です。世には老いらくの恋というか、孫のような娘と結婚する馬鹿者が一時かなり多くあったようですが、この頃はずっとすたれたようです。結果はいわずと知れた失敗です。年齢の如何に拘わらず、お金目的の結婚が甘く行くはずはないです。

話がとんだ方へ・・・。他人のことは知りませんが、私は百までも、それ以上も生きたいと思います。そして宇宙の謎を解けるようになりたいです。宇宙は如何まで行っても果てというものはありません。

私もいよいよ政府から養って貰う事になりました。月々52ドルの養老年金が貰らえます。私のは少額の方ですが、マイアミの山内君夫婦のように月200ドル近く貰える人もあります。また少しも貰えぬ人もかなりあります。この養老金は、上は大統領からストリートクリーナー(道路清掃人)まで貰えます。物価の高いこの国では独身者でも五十ドルでは生活費の半分にも達しません。でも私が無一文になった場合、餓死だけはまぬかれますし、故国で余生を送るときも貰えます。

54年前の今日この地に来ました。毒蛇や蚊や蠅の巣窟で炎熱百度の未開地でした。今思うと全く夢のようです。では皆さんお大切に。さようなら。


1960年5月25日

チリ地震で日本は津波?

日本は大津波(注)とのこと、去年といい今年といい何処までも神は故国を苦しめるのだろう。今日は人の身の上、明日は我が身の上。丘ひとつない低地のフロリダ、万一にも津波が来たらと思うとゾッとする。

(注)5月24日未明、三陸沿岸を襲った津波のことと思われる。142人が死亡。チリ地震の影響。

(猫の)ピンキーはずっとよくなった。今、前の木の陰で寝そべっている。首がまだ少しねじれているがそのうち治るだろう。注文したノリの佃煮、カマボコ、ミソ、奈良漬などが来た。今夜はご飯を炊いてうんと食べることにしよう。今日も暑い、毎日90度(32℃)以上、馴れた者でもかなりこたえる。

アメリカは今好景気というが、表だけのこと、金回りはよくない。


1960年9月

二世も三世も一世を避ける

新聞は日本の台風を報じている。農作の予想も狂うだろう。かさねがさね気の毒な事だ。一昨日、はからずも一人の同胞と逢った。ハワイから移住の婦人で五十年アメリカにいるという。二世と聞いていたので訪れもしなかった。

前にも話したと思うが、ともかく、二世も三世も一世を避ける風があり、道で逢っても言葉もかけぬ。彼らから見れば、一世は風采の上がらぬ上、ろくに英語も話せぬとおもっているようだ。この婦人は、子供の時ハワイへ移住したが、日本の教育もあり中々快活な人です。

三時間近くも日本語で久し振りに話したが、日本語も英語も私より達者です。二人の娘と一人の息子があるが、娘は二人とも既に結婚し、一人は白人と結婚し髪の赤い男の子があるとのこと、三人とも優秀で大学を卒業し、息子は目下ハワイ訪問中。

二世は皆白人並みの体格で学校の成績は白人以上です。4万人近い軍人花嫁がこの国へ来ており、混血児も十年後には10万を超すだろうが、反対に一世はほとんど跡を絶つことになる。気の毒なのは黒人に嫁した人達で、南部地方にはあまりいないが、紐育(ニューヨーク)、市俄古(シカゴ)辺りではかなり多いとの事。同胞からはもちろん、黒人側からもうとまれ、厳しい生活を送っているとか。


ラジオの少女の声に涙

今、レディオで少女の歌うのが聞こえる。恋に破れた可憐な少女が泣くが如く、祈るが如く、恋の悩みを悲痛な声で歌う。私はペンを手にしたまま、眼を閉じたまま、聞き入り、いつか目頭が熱くなる。少女は歌い終わり聴衆に向かい、サンクユー・アイラブユーという。私はこの歌手の娘さんを一度TVで見た、おさげの高校生の娘さんだ。

今、ちょうど、夜の11時。レディオは時速135哩(マイル)の台風がフロリダの東南1500哩の地点(キャリビヤン海)をフロリダへ向って進行中と報ずる。ここまで来るには数日かかるだろう。途中で方向を転ずるかも知れぬ。長い間(10年間)平穏であったが、今年は台風にやられるような気がする。


郷里で冒険小説を読みふけったころ〉 

眼の具合は好い方だが読書が思うように出来んのが困る。私は子供の頃から読書が好きで、秋の夜等、かなり冷えるので、米治(末弟)を背負い、囲炉裏の松の丸太の火明かりで冒険小説を読みふけった。           

家には石油ランプが一つだけあり、父や母が夜業(よなべ)に使われるので、ほかに明かりを取る方はなかった。私の一番に好きだったのは浮城物語という日本海軍の練習船が南米の南端マゼラン海峡の近くの一孤島に漂着、練習生達が島の娘と恋に陥っていく話。京都にいた時、この本を古本屋で見つけたので買ってこちらに持ってきたが、1926年の台風でなくした。

(敬称略)

第16回 >>

 

© 2019 Ryusuke Kawai

family florida Sukeji Morikami yamato colony

このシリーズについて

20世紀初頭、フロリダ州南部に出現した日本人村大和コロニー。一農民として、また開拓者として、京都市の宮津から入植した森上助次(ジョージ・モリカミ)は、現在フロリダ州にある「モリカミ博物館・日本庭園」の基礎をつくった人物である。戦前にコロニーが解体、消滅したのちも現地に留まり、戦争を経てたったひとり農業をつづけた。最後は膨大な土地を寄付し地元にその名を残した彼は、生涯独身で日本に帰ることもなかったが、望郷の念のは人一倍で日本へ手紙を書きつづけた。なかでも亡き弟の妻や娘たち岡本一家とは頻繁に文通をした。会ったことはなかったが家族のように接し、現地の様子や思いを届けた。彼が残した手紙から、一世の記録として、その生涯と孤独な望郷の念をたどる。

第1回から読む >>