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孤独な望郷 ~ フロリダ日系移民森上助次の手紙から

第16回 自分の意志を継いでほしいが…… 

助次が当時日本に送った絵葉書の写真から‐フロリダの運河沿いの住宅

南フロリダの大和コロニーの一員として渡米、コロニー解体後もひとり最後まで現地にとどまり生涯を終えた森上助次は、戦後、夫(助次の弟)をなくした義理の妹一家にあてて手紙を書きつづける。友人に中米のホンジュラスでの開拓を誘われ心が動く助次。ひとり身の自分の意志をついで、土地をいかして事業などを興してくれる者はいないだろうか。正直な気持ちを伝えている。

* * * * *

1960年5月9日

将来のため、努力しろ

明ちゃん(姪)、お手紙ありがとう。昨日のメールで参考書数冊送った。専攻課目さえ不明なので雑誌類はどんなものを送っていいのか見当がつかぬ。欲しかったらくわしく知らせてくれ。この国では大学の程度の高い程、講師も教授も卓越した技量のある一流の人物ばかりだ。赤かぶれしたような生半可な青い教師とはケタが違う。学校とピクニックを混同してはならぬ。学校も大学となると、生徒は全国から集合する。各自異なるバックグラウンドを持つ優秀な人達だ。

私は今、右足を病んでいるので歩行も不自由だ。数日前から右腕が時々痛む。悪くすると、ペンも持てなくなるかも知れぬ。当節はタイプライターで書く。指一本動かせれば、事足りる。あんたも苦しくても努力してくれ。なんでも将来のためだ。これからは競争の世の中、食うか食われるかの闘争だ。一寸した失敗でへこたれるようでは敗残者たるをまねかれぬ。

学校時代の友達はなつかしい。仲が悪くて終始ケンカばかりしていたが親しみを感じる。私の同級生は78人だった。卒業後(高等小学校)は、同窓会で数人とあっただけだ。卒業後から渡米前の4年間は何とも言えぬ寂しさを感じた。あんたのお友達もあと数年のうちに散り散りになる。私は時々、同級生たちを思い出す。

数年前、宮津新聞が私の記事を書いた。十名近い私の親友の名ものっていたが、何の反応もなかった。彼らの多くは死んでしまったのだろう。

今日、雷雨あり、海からの風はかなり強い。多分、午後にはシャワーがやってくるだろう。54年前の今夜、当地に着きました。


1960年6月2日

スペイン語でも習おうか

私の病状、変わりなし。連日の降雨で陰鬱だ。一昨日、アパートに移った。トレーラーより広くて居心地がよい。11月頃まで居る予定だ。足腰が立たぬので、何もかも中止だ。

何もせずにじっとして居るのは随分苦しい。いま、ひま潰しにスペイン語を習おうと思っている。週三回の夜学がデルレービーチであるが無料だ。

日本の大学の気が知れぬ。近頃の学生達の状態は何だ。おだてられて後先の考えもなく、さわぎ廻る。TVで見ると女学生も少なくないようだ。

ここに移って一週間、今日初めてピンキー(猫)を外に出した。近所の大きなキジ猫とケンカして鼻柱をひっかかれて逃げ帰って来た。

北海道行も直ぐですね。寒国の北海道何かと珍しい事と思います。北海道にはあのアイヌが住んで居る。今はほとんど日本化して見分けがつかぬ。私が子供の頃、アイヌの見世物がやって来た。男も女も背丈は普通だが、色はずっと白く、眼も青かったように思う。皆、鼻筋がよく通っていて口の辺りに入れ墨していた。あの源義経が兄の頼朝に追われ、カラフト(サハリン)に渡るとき、別れをおしんだアイヌの歌をチャッポイチャッポイという。

拍手に合わせて歌った節は単調だったが、哀愁に満ちていた。アイヌは吾々とは系統を異にし、コーカサス系に属しているとの事。こんな事は学校の生徒でもよく知っている。

1960年6月8日

あんたたちが来てくれたら

玲子(姪)、お手紙ありがとう。歳を取ると物忘れがはげしくなり、店に買いへ行っても何を買いに来たのか思い出せない。何も買わずに帰る事がある。これなど罪のない方だろう。

日本の住友銀行へチェック(小切手)を手紙で送る。数日経ったら支払催促が来たから不審に思って調べて見ると、手紙はそのまま出さずに自分のデスクの上にある。

私の病状はたいした変わりはないが今度は左足が痛み出した。痛みも少しひどかったので、絶えず電気マッサージを受けている。こちら雨期に入り毎日の降雨で鬱陶しい。この病気には湿気が何より禁物。天気でもよくなれば、痛みも落ち着くでしょう。この病気は急によくなり、二、三年も再発しない事があるし、何年も続く事がある。

何れにしても心配無用。死ぬ気配はない。少し不自由だが、私は保養気分でいる。しかし退屈なときはやり切れん。読書もTVもレディオも直ぐ飽きる。あんた達が突然、訪ねて来てくれたらと思ったりする。(これはお母さんには内緒!!!)。

退屈まぎれによく昼寝する。夜になっても中々寝付かれぬ。朝方になって一寸眠ったと思うと、必ず夢を見る。昨夜もほとんど見た事もない父の夢を見た。私の渡米前を思い出すような嫌な夢だった。夢くらい不思議な物はない。空中を鳥のように駆け回ったり、氷上をスケートでもするようにスライドしたり、大きな蛇を近づけられ足が一歩も進まなかったり。やっと眼が醒めると、汗……。

私の友人夫婦が来週、日本へ行く。二人とも、五十年組で最初の訪日、こちらで日本雑貨商を経営している。北部の日本字新聞で秋の母国観光団員を募集している。観光15日間。空便でマイアミから30時間内で東京に着く。

二、三年後にはジェット機で、三時間で行くようになるとの事。全く夢のような話だ。私は長生きしたい。せめて百までも生きて宇宙の秘密を知りたい。

先日、日本の銀行から日本字のタイプライターで書いた手紙が来た。英語式に横書きで一寸読みにくいが、ビヂネスライキで中々立派だ。日本でも外国と取引している会社は皆、英文タイプライターを使用していると思う。高校、大学出で英語を話し、英語のタイプが出来る人達には絶好のチャンスだ。

ホンジュラス開拓に誘われる

私の知人が今度中米の英領ホンジュラスで広大な土地を購買し、開墾に着手した。一儲けしないかと誘われたが病気のため行けぬ。

ホンジュラスへはマイアミから航空2時間で行ける。フロリダよりずっと暑いがジャングルではない。近い将来、事業で勝る有望な地域だ。私がせめて二十歳も若いか、私の意志を継ぐ息子でもあったらと思うと血が湧く思いがする。

あんたが男の子だったらと私は時々思う。あんたは進歩的で肝っ玉もある。正直で責任感が強い。私の意志を立派に継いでくれよー。私にはまだ百九十英町の土地がある。これを売れば、向こうで約40倍、七千六百英町の土地が買える。

年々少しずつ切り開いてバナナ、パイナップル、ココナツ等の熱帯果樹を植付け、牧畜もやる。数年後には収穫がある。しかし中々の難事業だ。口先ばかり達者で度胸のない今時の若い人達では夢にも及ばぬ事だ。

世には女性の身で大事業を成し遂げる人も少なくない。私は随分、吹いたが駄法螺(だぼら)ではない。今、正午に近い。腹はへらぬが、少し眠い。昼寝でもしてあんた達の夢でも見るか。

* * * * *

南米・チリの地震はまだ止まらない。惨状筆舌に尽くし難し、死者既に5千を越えたとの事。新しい噴火山が数ヶ所あらわれ、ある地域は一千呎も落ち込んで長さ25哩もある大湖水と化した。また山崩れのため、河川が堰止められ多くの村落が没し去ったとの事。

伝説に富士山は一夜に盛り上がり、琵琶湖も同時に落ち込んだとある。日本も古代、少なからぬ大噴火や大地震があった事と思う。南部フロリダは古代、海底であった。何処を掘っても貝殻が出る。

幸い、いまは地震も津波も皆なくて安全だが、ただ一つの天災は時々来襲する台風だ。約10年間平穏だったが、何時やって来るかわからぬ。この夏は来るころと思う。

玲さん六甲行は如何でした。日帰りではあっけなかったでしょう。せめて二晩宿りでないとゆっくり見物できぬ。私も日本へ帰ったらあちこちゆっくり旅行したいと思う。しかし一人旅では味気ない。

今丁度、朝の4時過ぎだが、今夜は一睡もできなかった。昼寝したためだろう。日本の学校も遠からず夏季休暇になるだろう。私はまた肥えて140听がピンとはねる。パンツも32サイズ、はけなくなった。


1960年6月11日

玲さん、新聞、今うけ取りました。ありがとう。故郷の新聞は久し振りなので、隅から隅まで目を通して居ります。日本の新聞も知らぬ間に随分変わったようで半アメリカ式といったような感があります。ただ、変わらぬのは続き物の小説が載っている事です。一つ物足りぬのは地方の記事がほとんどない事です。これでは同じ管下の宮津地方の状態さえ知る事が出来ません。

今朝、また便所で怪我しました。以前も用を足して立ち上った拍子に、ウインドウを開けてクランクで頭をしたたかに打ち付けたのです。生憎一番髪の毛の薄い頂天だったので、一吋ほどの切り傷を受け出血しました。一にぎりのトイレットペイパー、真っ赤に染めました。

今、日本では若い娘さんが盛んに髪の毛を赤く染めるそうですが、あんたや明子を想像して見て、妙な感じがしました。如何に流行とはいえ、日本人くらい真似好きな人間もあるまいと思います。今に目の玉も青くする事でしょう。その上、外国語でもべラべラ喋ったり、何処の人間か想像もできなくなるでしょう。

今日は久し振りに雨がなく、風が強かったのでいたって涼しくなりました。足の具合もずっとよくなりました。もっとも一時的でしょうか。時には一、二年間も再発しない事もあります。好くなったらこの夏はうんと働かねばなりません。仕事は山ほど積もっています。

六甲行きいかがでした? 日帰りでは物足りなかった事と思います。こちらの学校は夏休みになり、上は大学から下は小学校の生徒まで仕事を見つけ一生懸命、学費や小遣稼ぎをやっています。労働は神聖なり。裕福な家庭の子女でもうかうか遊んでいません。


久しぶりに洗濯

今日は久し振りに洗濯をしました。シャツ約10、下着6、労働パンツ3、靴下15足。ソーイングミシンがないので、針で労働着のつくろいもやりました。昔は靴直しもやったのですが、今はやりません。

日本にいた頃は下駄の歯入れもやりました。私は手先が器用なので、何でも自分でやります。昔から器用貧乏といいますが、ほんとうのようです。昔から大きな仕事をした人はほとんど不器用なようです。口下手で字も下手です。

(大江山酒呑童子という本、古本で見つかったら送って下さい。新刊はありません)


1960年7月14日

近所の人達はベケーション

美さん、暫くご無沙汰いたしました。ご病気だとか。どうか無理せぬように注意して下さい。私は相変わらず休んでおります。二、三日いいかと思うとまた悪くなる始末です。今は病気より退屈なのに苦しんでおります。近所の人達はベケーションでほとんど留守。ポストオフィスか、ストーアでも行かねば、人と話す機会はありません。

ピンキーもここに引っ越してきてから寂しいのか、余り出たがりません。私が一寸でも見えぬと、二ャー二ャーと泣くのです。京都は梅雨でうっとうしいでしょう。こちらは毎日のように夕立があります。

〈桃で故郷を思い出す

この頃は、桃の値が安いですが、どうも甘味が足らぬようです。雨が多いためこの地で気候の加減で桃は育ちません。何時も桃の頃になると、私は昔の事を思い出します。桃の苗木を三本買って家の側の段々畑に植え付けた。やがて、花が咲き10個ほど実がなった。虫防ぎに一々紙袋をかぶせた。袋に雨がたまらないようにした。

気候がよし、実はグングン太った。米治(末弟)は不断にのぞきに行った。触ると腐ると言いつけてあった。熟した実は絵のように美しかった。私達は一つずつ食べた。米治はのぞき賃で一つ余分にもらった。残りを母が店へ売った。確か一個、三銭だったと思う。これは私が国を出る前の年でした。

この頃はかなり暑いので海浜は大変な人出です。私もここで久し振りに泳ぎたいがクランプ(引きつけ)でも起きると危険なので控えています。紺碧の海面は波一つたたず、全く絵のようです。ここで見る水平線は直線ではなく楕円形です。

(敬称略) 

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© 2019 Ryusuke Kawai

family florida Sukeji Morikami yamato colony

このシリーズについて

20世紀初頭、フロリダ州南部に出現した日本人村大和コロニー。一農民として、また開拓者として、京都市の宮津から入植した森上助次(ジョージ・モリカミ)は、現在フロリダ州にある「モリカミ博物館・日本庭園」の基礎をつくった人物である。戦前にコロニーが解体、消滅したのちも現地に留まり、戦争を経てたったひとり農業をつづけた。最後は膨大な土地を寄付し地元にその名を残した彼は、生涯独身で日本に帰ることもなかったが、望郷の念のは人一倍で日本へ手紙を書きつづけた。なかでも亡き弟の妻や娘たち岡本一家とは頻繁に文通をした。会ったことはなかったが家族のように接し、現地の様子や思いを届けた。彼が残した手紙から、一世の記録として、その生涯と孤独な望郷の念をたどる。

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