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孤独な望郷 ~ フロリダ日系移民森上助次の手紙から

第10回 自分を「父」と呼んだ甥が逝く

南フロリダの大和コロニーの一員として渡米、コロニー解体後もひとり最後まで現地にとどまり生涯を終えた森上助次は、戦後、夫(助次の弟)をなくした義理の妹一家にあてて手紙を書きつづける。互いに実の家族同様の気持ちになるなかで、ある日甥が病を患っているのを知る。遠く日本にいる甥をそしてその母である義妹を励まし、慰めるが……。

* * * * *

1953年2月×日

美さん、前回の手紙の翌日から当国南部を風靡中(流行っている)のフル—にかかりずっと病院に居ります。医師の話では全快にはなお4、5週間を要するそうです。一時は熱が102度(約39℃)にも上がりました。全く食欲もなく注射と水ばかりで生きて来ました。私は随分、大病をしましたが、今度程苦しんだのは初めてです。

今日はこれで。サンデー朝


1953年3月21日

美さん、今日はまたサンデー。1週間が夢のようです。忙しく働いており…とはいえ、明けても暮れても何か大きな罪悪でも犯したような気がしてなりません。時々気分のよい時、庭に出て草花の手入れすると、直ぐ疲れが出て何もろくにできません。

何分フル—の上、持病の胃潰瘍が併発したので衰弱しています。今は農園で静養しており、また何分、病院に居ると一日、少なくとも25ドル以上かかるのでやりきれません。

作物は病中、雇人にまかせており帰ってみると、除草も病虫害の駆除も何一つされてなく、手のつけようもない状態です。こう何もかも、次から次へと逆にいくので何か恐ろしくなります。今は何でも運命とあきらめて静養です。土地でも売れるのを待つことにしました。

先週、思いがけず、政平(注、弟)から長い手紙が来ました。あなたがお話のように事業は順調で、三人の息子もそれぞれ学校を卒業して就職しており、万一兄の私が余り恵まれぬ境遇のため帰国し兼ねているのなら何も心配する事はない、老後の世話はするから帰って来いといいます。筆子(注・妹)達が現に住んでいる滝馬の家も人手に渡らず元のままだという。全く意外です。

京都もこの頃は春らしくなったことと思います。48年前の数日、私は京都で眼の保養をしていました。19歳のときです。


〈故郷ほど恋しいものはない〉

1953年4月1日

美さん、永らくご無沙汰しました。申し訳ありません。失敗の跡始末が予想外に大きく、悪くすると元の裸一貫になりそうです。咳はようやく止まりました。この夏はともかく静養するつもりです。フロリダは暑からず寒からずです。何の心配もなく魚釣りやゴルフをやっている人達を見ると癪にさわります。

当時はなんとしても帰国して父母や米治の墓参りをと思っていました。学校の側の山畑から港内を見下ろし、空想に耽ったのも早や四十数年の夢となりました。滝馬(宮津市、助次の故郷)も随分変わったことでしょう。

外国に居る者には故郷ほど恋しいものはありません。年老いた者はなおさらです。私の帰国は当分不可能ですが、あきらめず、待っていて下さい。

助次の故郷、京都府宮津市にある、⽇本三景のひとつ、天橋⽴


1953年6月1日

美さん、その後変わった事はありませんか。あなたが心配するといけませんから例により、例の如く無味乾燥の手紙を書く事としました。私は相変わらず丈夫で毎日、畑で愉快に働いております。先週迄は永い間、雨がなかったので、かなり暑く、百度(約38℃)近くまで上がりましたが、2、3日毎日の降雨ですっと涼しくなりました。

我々日本人も帰化権を得て以来、あちこちで帰化した人がかなりあります。私は帰国か、永住か、このままでいるのか……。

長い間、働いてくれた黒ん坊の婆さんは昨日、化身(仏になる)しました。1年近く、ハイブラッドプレッシャー(高血圧)でしたが、急に悪くなり逝ってしまったのです。

6月1日夜

〈親不孝の報いか?〉

1953年6月×日

美さん、先だってお願いしたウズラと蛙の飼育の本、まだ見付けてなければ送って頂かなくてもけっこうです。こちらで一通りの事が分かりましたから、今はただ、実行するには莫大な費用がかかるので当分見合わせることにしました。

色々取り調べましたら気候風土が異なり、フロリダでは成育不可能とわかりました。あなたと滝井さんに迷惑かけて済みません。急に思い立った私の粗忽を詫びる次第です。

美さん、私はまた休んで居ります。一時、気分が整ったので、遊んでも居られずトラクタ—のドライバーをやりました。が、その一週間ばかり前から脚が脚気のように腫れ、右のワキ腹から下腹にかけて痛み、起きても歩けないような状態です。その上、残り少ない歯の一本が虫歯で痛み、今は好きな漬物も食べられない有様です。

これまで次から次へと苦しめられてきましたがナニクソと力んで見たものの、病には勝てません。うらめしいかぎりです。これが仏教でいうインガオーホー(因果応報)。よほど前世で悪いことをしたのでしょう。米治(注・亡くなった弟)は親不孝のムクイ(報い)だといいました。

医者からは労働は一切禁じられて居るので休む事にしています。いったん、断念した帰国、二度と思うまいと決心しながらも思いは知らず知らずの間に故郷へ走ります。これが人間自然の情というものでしょう。孤独の者にはひとしおです。

また泣き言かとあなたは思はれるでしょうが、それにつけても元気な若い人達はうらやましい。あなたはまだ若い、余りクヨクヨせず、頑張ってください。

3週間ほど随分雨が降りました。排水の悪い低地は一面の水です。今日は久し振りに雨がなかったので寒さを感じました。日本もかなり暖かくなったことと思います。

6月7日 夜  眠れぬままに


〈アメリカは金の国〉

1953年6月×日

美さん、土地は売れず、何の収入もなく、ただ僅かに野菜畑からの収入で生活しています。長年借金に苦しんだのでいかに苦しくても、今後は絶対、借金せぬことを決心しております。

今度の大病のため、病院費用も未払いのままなので、今後は病院の野菜畑で働いて支払うことにしました。窮状は充分お察しますが、今は何をすることもできません。

至急の策として、不用の農具を売り払う事にしますが、売れれば送金できます。かなり時を要する事と思います。アメリカは、物価は徐々に下り坂ですが、不景気風が吹きはじめたので、皆、用心して無駄遣いを警戒しております。一例として当市唯一のシアター(劇場、映画館)もこの夏は閉鎖したような次第です。こんな事は1924年来初めてです。

南米ブラジルの知人(シリヤ系米人)から手紙が来ました。曰く「君、来てはいかが?人種偏見は皆無。すべてがノン気で至って暮らしよい」。南米は私の夢の国、生ある内に一度行って見たいものです。しかし、行くのは容易でも外国人の為、帰りが困難なので決しかねております。

金、金、金。世界一の富国アメリカもあるようでないのはお金です。愛の結婚を誇る当国人も、実は大部分がお金次第です。考えれば考える程、世の中が……に感じられます。取り急ぎお返事まで。


〈助次は、亡き末弟の岡本米治の妻、みつゑ(美さんと呼んでいる)と文通しているが、ときどきみつゑの子どもたち(甥、姪)とも手紙のやりとりをしている。家族のような間柄にいつしかなるなかで、甥の脩は助次を「お父さん」と呼ぶこともあった。脩は健康に不安があった。〉

1953年6月30日

美さん、お手紙、落手。脩さんの病状に驚きました。あなたの心痛、お察しします。少額ですが百ドルを今日送りました。このまま回復が望めないとのこと、どうか気長に。一両日中に雑誌を送ります。病床では読み物が何よりの慰安です。余り悲観せずに……不幸な人達のあることを思い、最善を尽くした上はすべてを運命とあきらめて過ごして下さい。

私は幸い、丈夫ですが、何をしても中々思うように行きません。これが世の中です。

6月30日夜  愛する美さんへ


1953年7月15日

(甥の脩に宛てて) 

脩さん、お気分、如何。あなたの将来は永い。ゆっくりすべてを運命に託して養生して下さい。今日、雑誌を送りました。目方に制限があるので一度に沢山送れません。そのうちまた送ります。

同朋一世も次々に帰国する。人間は年取って故郷が恋しくなる。僕も早く帰りたいが、中々そうできない。あなたに元気になってもらって花や野菜作りを手伝ってもらいたい。人間は自然に生きるのがなにより幸福です。

南部フロリダ州は毎日の夕立で至って涼しい。今は逆に北から避暑にやって来ます。マイアミの山内君(同郷の友人)から今日手紙が来た。暇なら遊びに来い、君の好きな巻酢飯を御馳走するという。友は持つべきものだ、そのうち出かけるつもりです。

くれぐれもイライラせず静養することです。

7月15日夜 POP


〈帰国するときはお金を持って〉

1953年7月 

美さん、暫くご無沙汰しました。私はほとんど元通りの元気になりました。毎日畑へ出て茄子やイモの世話で多忙を極めております。気候は暑からず寒からずで、申し分ありませんが、永い間雨がないので、何かと骨が折れます。

私はいまタウンに住んでおります。1ヶ月ばかり前、親友(花屋さん)のアパートを借りて1932年来、久しぶりに人間らしい生活をしております。すべてアップツーデートの設備で、この手紙も電燈の下で認めております。

政平(弟)からは何の音信もありません。旧友の事、植え置いた杉や檜の事、土地の事……。広大な土地を所有していてもお金はない。ありのままを言ってやりました。何はともあれ、無一物で帰国して弟や妹の世話になる気はありません。

帰る時は土地を買い、家を建て、一家を支えて行くだけの充分のお金を持って帰ります。


1953年7月×日

美さん、脩さんの容態は如何ですか。病人が気落ちせぬように注意して下さい。病人が自分で、もし駄目だと思うようなことがあっては治る病気も治らぬことがあります。私も何回と大病の為、生と死の間をさまよいました。異郷で大病を病むくらい寂しいことはありませんが、一度も、アー、モー駄目だと思ったことはありません。

親として、あなたのお気持ち充分お察すしますが、無理せぬよう気をつけて下さい。今、あなたにまで病気でもされては大変です。

私は毎日、畑へ出かけます。この夏は、水瓜は皆無、先の大雨で全滅しました。藷は無害です。茄子も沢山あります。フロリダでは筍(たけのこ)も松茸もありません。筍の五目酢飯、松茸の吸い物は大好物です。缶入りの日本物は得られますが、とても高価です。くれぐれも病人に気落ちさせぬよう。またあなたも無理せぬよう気をつけて下さい。


〈百姓はもうやめる?〉   

1953年8月18日

美さん、不在中、到着のお手紙2通受け取りました。脩さんの病状大変よろしいとのこと、皆さんのお喜びお察しします。この病気は急激に全快は望めぬとのこと。どうか、十二分の注意して再発のないよう祈ります。私は至って壮健、10ポンド(約6キロ)ばかり太りました。

今度の旅行は13年ぶりで、大変愉快でした。道筋、知人を訪れました。既に故人となった人も2,3ありました。永い間の降雨で作物はほとんど全滅、今度こそは思い切って百姓は止める事にしました。今後の方針は未定、遊んでいる訳にはいきません。何かしなければなりません。

当国も食料品は少し上がりました。お金さえあれば、何でも買えます。どうか、くれぐれも病人に無理せぬよう注意して下さい。


1953年9月12日

美さん、百ドル一昨日(10日)送りました。以前のように送金の大部分を借金の支払いに使わずに、脩さんへできるだけの事をして上げて下さい。

山内君から手紙が来ました。帰国して宮津あたりに住むらしいです。僕は今暫く、帰国は出来ぬ。新聞や雑誌の記事では日本は大景気で敗戦国とも思えぬゼイタクぶり、どこへ行っても娯楽場は大繁盛、田舎町の宮津にさえ映画館が3つもあるのが想像できません。

余生を故国で送る積もりで帰国した一知人が怱然と帰米しました。日本に行くなら僅かな金では駄目、食うに困ると言つておりました。


1953年9月14日

美さん、

脩さんの死、何とお慰みしていいか、何もいえません。私は泣きました。一度も会うことができなかったし、心残りです。人生、余りに悲惨の極みです。米治といい、脩さんといい、愛しき者は皆去って行く……人生、暗くなります。

あなたのお気持ちはよく分かります。泣いて泣いて、心行くまで泣いて下さい。

9月14日夜

(敬称略)

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© 2019 Ryusuke Kawai

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このシリーズについて

20世紀初頭、フロリダ州南部に出現した日本人村大和コロニー。一農民として、また開拓者として、京都市の宮津から入植した森上助次(ジョージ・モリカミ)は、現在フロリダ州にある「モリカミ博物館・日本庭園」の基礎をつくった人物である。戦前にコロニーが解体、消滅したのちも現地に留まり、戦争を経てたったひとり農業をつづけた。最後は膨大な土地を寄付し地元にその名を残した彼は、生涯独身で日本に帰ることもなかったが、望郷の念のは人一倍で日本へ手紙を書きつづけた。なかでも亡き弟の妻や娘たち岡本一家とは頻繁に文通をした。会ったことはなかったが家族のように接し、現地の様子や思いを届けた。彼が残した手紙から、一世の記録として、その生涯と孤独な望郷の念をたどる。

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