ジャーナルセクションを最大限にご活用いただくため、メインの言語をお選びください:
English 日本語 Español Português

ジャーナルセクションに新しい機能を追加しました。コメントなどeditor@DiscoverNikkei.orgまでお送りください。

孤独な望郷 ~ フロリダ日系移民森上助次の手紙から

第11回 不調ながら新たな試みを模索

南フロリダの大和コロニーの一員として渡米、コロニー解体後もひとり最後まで現地にとどまり生涯を終えた森上助次は、戦後、夫(助次の弟)をなくした義理の妹一家にあてて手紙を書きつづける。60代になり体調不良を訴えることが多くなり、同胞の死を知り気弱になるが、桜を植えることなど新たな試みをつねに思索している。

* * * * *

〈知人の息子がコリアで戦死〉

1953年10月6日

美さん、今日は久し振りに雨が降りませんでした。永い降り続きで畑も市街も低地は一面の水です。6回目の台風フロ−レンスが過ぎ去ったと思うと、7回目が東南250マイルの地点に吹き起こりました。

今、丁度12時15分。空は曇って星一つ見えません。涼しい風が海から吹いております。温度は78度(約26℃)、フロリダも大分涼しくなり日も少し短くなりました。午後の7時頃は薄暗くなります。

キング10月号昨日到着。モンテンルパの記事(注1)で私は泣きました。私は多感な性分で映画などでよく泣かされます。あのガダルキャナルの海戦で日本の戦艦が沈没する実景に私は声を殺して泣きました。誰一人、拍手カッサイする者はありませんでした。

一昨日、午後、知人の息子の葬式がありました。ジョンという21歳で、コリヤの戦場で斃れたのです。父は南洋で戦死し、戦後母の手で育てられた一人っ子。学校を中途で止め、マリーンに志願して戦場に送られたのは昨年の夏でした。

休戦の前に敵の逆襲に遭い重傷を負い、お母さん、お母さんと母を呼びながら死んで行ったそうです。ジョンは物静かな優しい青年でした。サタデー等にはよく私の農園へやって来てトラクター等をドライブして私を手伝ってくれました。明日あると思う心の仇桜(親鸞の言葉とされている)——人間の命ほどはかないものはありません。腹が少し痛くなりましたから、これで失礼します。

(注1)キングは大日本雄辯會講談社(現・講談社)が発行した大衆娯楽雑誌。モンティンルパ (Muntinlupa City)は、フィリピン共和国ルソン島にある市。戦後、戦争犯罪で処刑された山下奉文大将以下17人が葬られた。また、渡辺はま子のヒット曲『ああモンテンルパの夜は更けて』で知られる戦犯収容所の所在地。


1953年12月×日

美さん、私は郊外へ移りました。三匹の猫も皆、丈夫です。年齢のせいか、少し寒いと、縮みあがってしまいます。5歳と3歳です。私はレディオ(ラジオ)と読書が唯一の慰安、手紙も新聞も近くの街道まで配達されるのでタウンへ行くのは週に1、2回で、時には3日も4日も人に会わぬこともあります。

腹の空いた時に食い、眠くなったら眠るので夜昼の区別はありません。神を信じ、信仰に生きる人達は幸福です。みじめな自分を見つけ羨ましくなりません。多分これが今年の最終の音信と思います。過去を忘れて希望に満ちた新年も近く……。


〈桜を植えよう〉

1954年3月4日

美さん、お手紙ありがとう。私はお察し通り風邪で苦しんでおります。時々あの割れるような頭痛、血を吐くような咳がでます。休んでいても食欲ほとんどなく、何を食べても味がない。こんな時には日本の食べ物が恋しくなる。お茶漬の味は忘れられません。

南米諸国は日本の移民を歓迎している。何故もっとドンドン息子や娘を送らないか。日本の米を食わないだけでも、国の為だろうに。今の日本の青年は意気地がないのか……。つい脱線しました。

早、今年も3月となりましたが、桜の木はありません。私も生ある中、ここで少し植え付て置きたいと思います。


1954年4月15日

美さん、お手紙有難う。私は相変わらずです。咳はやっと止まりましたが、頭痛と痰には相変わらず苦しんでいます。今朝、タウンへ移りました。昨年と同じ所です。次のサンデーはイースター。フロリダはかなり暑くなりました。日中は日陰でも85度(約29℃)位、しかし涼しい風が海から吹くので少しは楽です。

47年前の今月当地へ着きました。当時の一寒村も今や米国一流の避寒地です。私と同年配の日系の一世が毎日のように死んで行く。私は心機一転しました。苦しい時には上を見ぬことです。あなたも下を見るようにして下さい。お互いの将来について余り悲観せず、がんばりましょう。

二伸

あなたとは早4年近く、私はありのままで、恥をしのんで色々打ち明けました。もっともどの点まであなたが信じられたか知りませんが……。

私の将来の考えは近ごろ少し変わりました。私も早67歳。故郷は恋しい。しかし、今の状態では帰国は危険です。米国への移住もダンダンと容易になって来ました。


〈食用蛙や鶏の飼育法を研究したい〉

1954年4月20日

美さん、気候がずっと暖かくなったためか、私の健康がほとんど回復しました。毎日、遊んでいる訳にも行かぬので、これから大いに食用蛙や鶏の飼育法を研究しようと思うのです。ついては日本の飼育法の本が欲しいのです。

最新版で余り学術的でないのを、御地の農学校で伺ってみて下さい。代金は届き次第送ります。こちらにもいい英書やブルティンがあるが、日本の方が一歩進んでいることと思います。それから京都府の地図を一部お願いします。近頃、宮津へお行きになりましたか。周囲の町村を取り入れて市となり、名まで変更するとのこと。お蔭で政平(弟)は商売大繁盛。目下、住宅70戸建築中とのこと、これは昭君(義弟)よりの報告。政平からは相変わらず梨のつぶてです。

美さん、近頃の日本の青年をどう思いますか。屁理屈ばかり言って、とんと気概のないように思われますが。同じ敗戦国でもある独逸の青年の意気がうらやましいです。私は日本の知人の息子二人を見ました。安月給に甘んじてはやく結婚したいという。海外へ飛び出し徒手空拳、運命を開拓するようなパイオニーヤスピリットがとんとないので驚きました。

もともと森上家には冒険性の血が流れており、私にもせめて息子が2,3人あったらと思います。南米の大森林を思う時、私は感慨無量。これのみが心残りです。先日はからずも古本の向こうから、渡米当時撮った写真が出て来ました。あの意気にあふれた眼、私は当時を追想して血の湧く思いでした。

眠れぬのでこの手紙を書く事にしました。今、丁度朝の1時半です。明日はピーナツを1反歩ばかり蒔き付ける予定ですから、これで止めます。少し眠くなって来ました。室内温度71度(約22℃)、マンゴーの葉に小雨があたる音が聞こえます。日中温度80度(約27℃)内外、蚊も蠅もおりません。くれぐれも本の事をお願いします。


二伸

あなたに読んで頂きたい新聞や雑誌の切り抜きが沢山ありますから今度送ります。


〈山桜の種子、至急送って〉

1954年4月30日

美さん、前便でお願いするのを忘れました。山桜の種子、一千か二千粒、至急送って頂きたいのです。山のない国、気候風土を異にするフロリダでは育たぬかも知れませんが、念の為、試作したいのです。北部では立派に育っております。それから日本の紅葉を送って下さい。京都のあの種子屋さん(名は忘れた)にお願いして下さい。費用は書籍の分と一緒に送ります。

美さん、僕はもう大丈夫です。毎日少しずつ働いています。二夜もよく眠れ、食欲も進み体重も少し増えました。先ずは急用のみ。


1954年6月12日

美さん、余り忙しくないのに月日の経つのが早いこと、これはウカウカしていられません。この夏の暑さことさらで、昨今の平均温度は95度(35℃)、夜間75度(24℃)です。しかし風さえあれば少しも苦しくありません。

何故か蠅が多く、閉口です。私はトラクターで耕耘(こううん)しています。日に4、5時間、時には夜間もやる。空晴れて月清き夜には思いはいつも故国に馳せて、時の経つのを忘れています。

地が砂地のため2、3年も続けると痩せて何もできなくなります。今年は、水瓜は寒さの為、不作、走り物1听(ポンド)5セントです。今朝一切れ25セントで買い一人で食し、皮はきざんで塩漬けにしました。気候さへ順調なら年中できるが、お正月頃できたものは夏物ほどおいしくありません。

昨冬は寒さのため、地場のものは全くなく、キューバや南米から少し入って来ました。価は一ポンド10セント位、当国は朝鮮事変のため戦時状態にあります。食料品の価格も近いうち凍結されることとなります。もっとも影響をうけるのは肉類で、供給不足を来たしてまた闇取引が盛んに行われることと思います。

米と醤油さえあれば生きて行ける私と比べて肉がなくてはやっていけぬ米国人は全くみじめです。1ヶ月遊んでいたので5ポンド太り125ポンドとなりました。つまらぬ事を長く書きつらねました。今日はこれで止めます。


〈故郷から返事なし〉

1954年7月9日

助次の実家近くの名所、金引きの滝

止むを得ないとはいえ、帰国を断念した私ですが今は却って気分は……。一時は随分迷いました。故郷は恋しい、山河は昔のままだが、人同じならず(注2)。肉身の弟妹さえ他人同様。他の人達は尚更です。年に一度の年賀状もクリスマスカードも送った。雑誌も。でもなしのつぶて、過去1ヶ年、帰国に際しての準備にと、宮津地方のことを取調べるので、二、三の有力者に手紙を出しましたが返事は皆無。今は月に1回送ってくる橋立新聞さえ読む気がしません。

私は最近、一知人を得ました。当地から南へ25マイルの地点で農業を経営しており、加州生まれの二世で、細君も二世です。日本で教育を受け、戦後帰米し、この人のお父さんは博士で、目下、東京の医科大学に奉職中とのことです。

両人とも日本語は中々達者で英語で話しているうちに知らず知らずと日本語に。お蔭で私も日本語がずっと上手になりました。先だってもマイアミに行った途中、立ち寄ったら大喜び。是非二、三日遊んで行けといわれるまま二日は厄介になりました。

50年ぶりに日本のカマボコ、筍、ノリの佃煮、ラッキョー、梅干し、ショーガ、ミソ等、胃に悪いのも忘れてウンと御馳走になりました。兄弟たちがシカゴに住んで居られるので、格安で日本食が得られるようです。

4歳になる眼のクリクリした御嬢さんがありますが、中々のおちゃめさんで、私をアンクルジョージと呼びます。

こちらは至って平穏ですが、ストームシーズン(颱風季節)中なので11月までは少しの油断もできません。当市で花屋を経営している二世が花を作ってみては如何かと勧めるので、私も準備中です。本を読んだり、ブルティンを取り寄せたり図書館へ行ったりして研究しています。

二世のお母さん(白人)が花づくりが上手なので私を手伝って下さることになっています。今年は極小規模、研究的にやるので見込みが立てば暫時、拡張する予定です。食用蛙の方は資本が充分できるまで見合わせる事にしました。

遠い親類より近いお隣で、私は親切な友人も隣人もありますから何の心配もありません。

今丁度午後11時です。今夜は風がなく暑いです。飼い猫が1匹(2匹のうち)が3日ばかり帰って来ないので心配しています。一時は6匹もいましたが、1匹減り2匹減りとうとう2匹になりました。どちらも牡ですから後継ぎがありません。私と同じ様に。

(注2)有名な中国・唐時代の「唐詩選」の中の詩。「年年歳歳花相似 歳歳年年人不同」の一部「人同じならず」を使っていると思われる。


〈渡米時のあつい思いが蘇る〉

1954年9月×日

美さん、お手紙ありがとう。こちらは何の変わりもありません。日本の不景気は予想されていた事、朝鮮事変の一時景気に踊らされ、敗戦国の境遇も打ち忘れた結果で、いわゆる自業自得。

随分ながいことあなた方の渡米(呼び寄せ)も色々考えましたが、1ヶ年、わずか200人足らずの渡米割り当てではどうする事もできません。もっとGIと結婚した者は何の制限もなく、渡米できます。既に1万3千人を越していて、今後はどのくらい増えるか見当がつきません。

在米一世が毎日のように死んで行く。遅かれ早かれ私にもお鉢が回って来る。世には随分、死に際の悪い者がある。長い間、自ら苦しみ、他人様の助けを受けた上、葬式代もないという無責任な人もたまにはあり、できることならコロリと眠ったまま目醒めぬ往生がしたいことです。

遺産については万一の場合の準備を十分にしてあります。思えば50年、悪戦苦闘もただ一場の夢に過ぎません。虫ケラと何も変わりはありません。ただ物足らぬのは老体と意思の疎通が他人同様になったことです。せめて米治(末弟)が生きて居てくれたら心強いのですが。

私は故郷を思うたび、植え置いてきた杉、檜が立派に大きくなっただろうと目に浮かぶようです。……一度帰国したいと思います。昨年、この木について地図まで書いて、切り株でもいいから写真を撮って送ってくれと依頼したのだが、何の返事もありません。

家(宮津の実家)からわずか一時間程で行けるところにあるのですが。つい話がそれました。老人の愚痴です。

一時は140ポンドまで太りましたが、近頃は10ポンドほど減りました。花作りを少ししましたが、中々思うようにはいききません。草取りに追われております。

少し無理をすると身体中が痛んで、次の日は何もできません。一世の人達から日本の梅干し、醤油、紅ショウガ、佃煮など珍しい物を頂きました。みな日本語も中々達者で娘さんからはお爺さんと呼ばれ一寸変な気持ちです。

(敬称略)

第12回 >>

 

© 2019 Ryusuke Kawai

agriculture family farmers florida immigrants issei Sukeji Morikami yamato colony

このシリーズについて

20世紀初頭、フロリダ州南部に出現した日本人村大和コロニー。一農民として、また開拓者として、京都市の宮津から入植した森上助次(ジョージ・モリカミ)は、現在フロリダ州にある「モリカミ博物館・日本庭園」の基礎をつくった人物である。戦前にコロニーが解体、消滅したのちも現地に留まり、戦争を経てたったひとり農業をつづけた。最後は膨大な土地を寄付し地元にその名を残した彼は、生涯独身で日本に帰ることもなかったが、望郷の念のは人一倍で日本へ手紙を書きつづけた。なかでも亡き弟の妻や娘たち岡本一家とは頻繁に文通をした。会ったことはなかったが家族のように接し、現地の様子や思いを届けた。彼が残した手紙から、一世の記録として、その生涯と孤独な望郷の念をたどる。