ディスカバー・ニッケイ

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パラグアイの最初の日本人移住地 (スペイン語)

(スペイン語) それ(ラ・コルメナ)は父が建てた日本人最初の移住地*でした。ちょうど1936年のことです。私も含めて兄弟全員がそこで生まれました。日本人移住地でしたから環境は大変よかったのです。私たちと一緒に住んでいませんでしたが、のちにパラグアイ人もやって来て、たくさんの家族ができました。お互いに仲良く暮らしていましたね。父は協調性のあるまとめ役だったので、パラグアイ人とのイベントなどでボランティアをしたり、主催者として働いたりして、いつもひとつにまとまる事を考えていましたね。例えば、パラグアイ人のために日本人学校を開いて、その学校をパラグアイ人学校にしました。かなり早い時期から(日本人とパラグアイ人は)面白い形でまとまっていたんです。このような考えは、常に私たちの心の中にあるんだと思います。だからこそ、お互いが差別しあうということがなかったんだと思います。過去に色々なことがありましたが、あからさまな差別は無かったですね。

*「ラ・コルメナ」(ミツバチの巣箱の意)は最初の日本人移住地で、1936年にパラグアイ拓殖組合(通称パラ拓)が建てました。エミの父、笠松尚一氏はパラ拓スタッフの一人でした。移住地の管理者たちは、快適な環境作りに努め、当時の日本人移住地にあるインフラ(基幹施設)を利用して、移住入国許可において生産することを定められていた輸出農産物を作りました。しかし、農産物をパラグアイの首都へ送るルートがないことや、害虫の発生や霜による被害などが原因で何組かの家族は脱退して他の場所や他の国へと転居して行きました。


コミュニティ 移住 (immigration) 日本語学校 語学学校 移住 (migration)

日付: 2005年10月7日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: アン・カネコ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

「エミ」の名で知られるエミリア・ユミ・笠松女史は、パラグアイの最初の日本人移住地であるラ・コルメナで生まれ育ちました。彼女の父はその移住地の創設者で、管理者でもありました。彼女は幼少時を深い愛に満ちた心で思い出します。その頃受けた日本の教育はパラグアイの教育が混じったもので、厳しい規律の中で育ちました。未来の人生の希望や計画の基礎は幼少時にはぐくまれました。そして、今パラグアイの首都でそれらを実行しています。 笠松女史は国立アスンシオン大学哲文学部と同大学院を卒業しました。その後、パラグアイやアメリカ大陸の日本人移民について多くの本をスペイン語で出版し、それらは英語や日本語に訳されています。彼女の著書には、『パラグアイの日本人』(1987)、『パンアメリカ日系協会の歴史・アメリカ大陸の日本人の存在と移民』スペイン語と英語版 (2005)、アケミ・キクムラ編 『New World, New Lives』(2002) (日本語版: 『日系人とグローバリゼーション』(2006)) と『Encyclopedia of Japanese Descendants in the Ameircas』(2002) (日本語版:『アメリカ大陸日系人百科事典』)などがあります。 笠松女史はCentro Social de Beneficencia Japonesa en el Paraguay(パラグアイ日系社会福祉協議会)の会長(2006~2008)と、Asociación Paraguayo Japonesa(パラグアイ日本人会」の第一副会長(2005~2008)を務めています。又、パラグアイ日系二世の団体であるCentro Nikkei Paraguayo(パラグアイ日系センター)の館長、第6回パンアメリカ日系大会の議長、パンアメリカ日系協会のパラグアイ代表(1987~2007)などを歴任されました。現在は「人造りセンター」副館長で、学術文化コーディネーターの役割を担っています。(2007年5月23日)

Kazuo Funai
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カズオ・フナイ

渡米

一世実業家(1900-2005)

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Kazuo Funai
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カズオ・フナイ

米国での最初の仕事

一世実業家(1900-2005)

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Kazuo Funai
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カズオ・フナイ

東京の会社が焼失

一世実業家(1900-2005)

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James Hirabayashi
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ジェームス・ヒラバヤシ

父方と母方の家族関係 (英語)

(1926 - 2012) 文化人類学者。学問として民族研究学科を設立した第1人者

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Steve Kaji
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スティーブ・カジ

FOB - 新参者 (英語)

ハワイ生まれの在日日系人。YMCAの英語教師。

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Barbara Kawakami
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バーバラ・カワカミ

ハワイへ再移住 (英語)

日本人移民の衣服専門家・研究者

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Barbara Kawakami
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バーバラ・カワカミ

写真花嫁と「仮夫婦」 (英語)

日本人移民の衣服専門家・研究者

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Robert (Bob) Kiyoshi Okasaki
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ボブ・キヨシ・オカサキ

渡日に対する決断に祖母の影響(英語)

日本在住30年以上の日系アメリカ人陶芸家。(1942年生)

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Yukio Takeshita
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竹下幸男

日本の印象(英語)

「アメリカ生まれの日本人」・元ビジネスマン。(1935年生)

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Wayne Shigeto Yokoyama
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ウェイン・ヨコヤマ

雑誌社での就職(英語)

南カリフォルニア出身の在日日系人(1948年生)

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Roy H. Matsumoto
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ロイ・H・マツモト

広島県の学校にいた帰米のクラスメート達(英語)

カリフォルニア出身の二世。第2次大戦中は、MIS(陸軍情報部)としてメリル襲撃隊にて活躍。(1913年生)

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Etsuo Hongo
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本郷悦男

渡米の理由

太鼓奏者。南カリフォルニアで5つの太鼓グループを結成(1949-2019年)

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Roger Shimomura
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ロジャー・シモムラ

渡米後の祖母の差別体験(英語)

日系アメリカ人画家、版画家、教授。(1939年生)

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Marion Tsutakawa Kanemoto
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マリオン・ツタカワ・カネモト

条約商人としてアメリカへ入国した母(英語)

日系アメリカ人二世。第二次大戦中に自主的に日本へ移住。(1927年生)

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Rose Kutsukake
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ローズ・クツカケ

両親がカナダへ渡航した理由(英語)

第二次大戦中にスロカンに収容。日系カナダ人コミュニティのアクティブメンバー (1918-2004)

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