ディスカバー・ニッケイ

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集団訴訟によってまとまった日系コミュニティ(英語)

(英語) 委員会(戦時民間人転住勾留委員会 -the Commission on Wartime Relocation and Internment of Civilians-)の設立は不可欠だったと強く思います。1つは単なる情報伝達の観点から、さらには政治的な見地に立った上でも、委員会の設立は大変重要な意味を持っていました。そしてそれが日系人を活気づけ、集団訴訟に向かわせたのです。また、委員会は自己誤審令状による再審裁判の基盤ともなりました。

そして最も重要な変化は、委員会の設立以後に起こった日系人コミュニティ内でのことです。様々な出来事がありますが、日系人は自分の子供たちにさえ強制収容の話をしたことがなかったわけです。でもそんな彼らが、それを機に口を開き、また多くを知るようになったのです。「なんてことだ!自分以外にも罪悪感を感じ、傷つき、そして裏切りを感じていた人たちがいたのか。そうだ、強制収容は回避できない事故ではなかったんだ。ワシントンや軍にいる人々が我々に負わせたものだったんだ。彼らはただの人だった。人であるにも関わらず、彼らの行いは人道的ではなかった。そう、私たちはごまかされ、我々日系人はみんな騙されていたんだ」と、日系人は、気付いたのです。

強制収容は、説明のつかない不測の事態ではありませんでした。政治的便宜や日系人への偏見、そして経済的利害が強制収容を引き起こした、と解釈することができるのです。Native Sons of the Golden West(カリフォルニア州生まれの白人による友愛団体)やCalifornia State Grange(カリフォルニア州農民共済組合)、American Legion (米国在郷軍人会)といった(いずれも排日運動を主導していた)団体の悪人たちが加担して行ったのが、強制収容だったのです。集団訴訟を起こさなければ、ある意味で日系人社会が1つになることはなかったでしょう。訴訟に勝つことは重要なことです。でもそれ以上に、(日系人が証言した)聴聞会を開いたことが、日系人を1つにする原動力となりました。その成果は、今日もいたるところで見ることができるのです。


リドレス運動

日付: 1998年8月26日

場所: 米国、バージニア州

インタビュアー: ダーシー・イキ、ミッチェル・マキ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

ジャック・ハージックは1922年7月30日ニュージャージー州ニューアークでドイツ系アメリカ人の両親の元に生まれました。18歳の時、ニュージャージー州フォート・ディックスの国家警備隊員になり、真珠湾攻撃の起こった19歳の時、落下傘兵に志願しました。その後、メリーランド州の対敵諜報部から、対敵諜報部将校として京都へ派遣されました。そこで、アイコ・ヨシナガと出会い、1978年彼女と結婚しました。

アイコをはじめ他の日系アメリカ人に対する不法な扱いについて知り、アイコと共に国立公文書館で資料集めにかかわりました。ワシントンDCのペンタゴンを含め陸軍の様々な高官と働いたこともあり、ヨーロッパ、日本、ワシントンDCで対敵諜報部将校を務めた経験を持っており、彼らが見つけ出した書類の重要性を見極めるのに大きな役割を果たしました。実際、米国軍は日系アメリカ人スパイに関する膨大な情報を含んでいる日本の外交電報を傍受したといわれており、この「マジック・ケーブル」と呼ばれるケースにおいて、それが事実ではなかったという詳細な情報を提供するため上・下院小委員会の審理で証言をしました。(2007年3月1日)

Norman Yoshio Mineta
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ノーマン・ヨシオ・ミネタ

法案の支持者を求めて(英語)

アメリカ合衆国元運輸長官(1931年生)

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Frank Yamasaki
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フランク・ヤマサキ

賠償金について(英語)

ワシントン州出身の二世。戦時中徴兵拒否。(1923年生)

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Norman Yoshio Mineta
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ノーマン・ヨシオ・ミネタ

ジム・ライトの支持を得ること (英語)

アメリカ合衆国元運輸長官(1931年生)

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Aiko Yoshinaga Herzig
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アイコ・ヨシナガ・ハージック

Asian Americans for Actionへ参加してよかったこと(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)

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Aiko Yoshinaga Herzig
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アイコ・ヨシナガ・ハージック

収容所経験のない一世に対する補償運動(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)

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Aiko Yoshinaga Herzig
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アイコ・ヨシナガ・ハージック

時期を見計らって始めた補償運動(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)

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Dale Minami
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デール・ミナミ

コレマツ裁判が現代社会に与えた影響 (英語)

弁護士 (1946年生)

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Clifford Uyeda
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クリフォード・ウエダ

コミュニティを超えた思いがけない支援(英語)

政治活動家 (1917 - 2004)

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Bill Hosokawa
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ビル・ホソカワ

証拠の強み (英語)

ジャーナリスト (1915 - 2007年)

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Cherry Kinoshita
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チェリー・キノシタ

賠償金請求の必要性 (英語)

補償運動のリーダーの一人 (1923 - 2008年)

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Cherry Kinoshita
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チェリー・キノシタ

苦しみを乗り越えて (英語)

補償運動のリーダーの一人 (1923 - 2008年)

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Bert Nakano
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バート・ナカノ

ワシントン政界の説得 (英語)

政治活動家 (1928-2003年)

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George Yoshida
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ジョージ・ヨシダ

三世と補償運動(英語)

音楽家 (1922年)

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William Marutani
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ウィリアム・マルタニ

補償金額の算出(英語)

CWRICに関わった唯一の日系判事

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William Marutani
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ウィリアム・マルタニ

イノウエ上院議員による CWRIC委員の選考について(英語)

CWRICに関わった唯一の日系判事

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