ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/624/

集団訴訟によってまとまった日系コミュニティ(英語)

(英語) 委員会(戦時民間人転住勾留委員会 -the Commission on Wartime Relocation and Internment of Civilians-)の設立は不可欠だったと強く思います。1つは単なる情報伝達の観点から、さらには政治的な見地に立った上でも、委員会の設立は大変重要な意味を持っていました。そしてそれが日系人を活気づけ、集団訴訟に向かわせたのです。また、委員会は自己誤審令状による再審裁判の基盤ともなりました。

そして最も重要な変化は、委員会の設立以後に起こった日系人コミュニティ内でのことです。様々な出来事がありますが、日系人は自分の子供たちにさえ強制収容の話をしたことがなかったわけです。でもそんな彼らが、それを機に口を開き、また多くを知るようになったのです。「なんてことだ!自分以外にも罪悪感を感じ、傷つき、そして裏切りを感じていた人たちがいたのか。そうだ、強制収容は回避できない事故ではなかったんだ。ワシントンや軍にいる人々が我々に負わせたものだったんだ。彼らはただの人だった。人であるにも関わらず、彼らの行いは人道的ではなかった。そう、私たちはごまかされ、我々日系人はみんな騙されていたんだ」と、日系人は、気付いたのです。

強制収容は、説明のつかない不測の事態ではありませんでした。政治的便宜や日系人への偏見、そして経済的利害が強制収容を引き起こした、と解釈することができるのです。Native Sons of the Golden West(カリフォルニア州生まれの白人による友愛団体)やCalifornia State Grange(カリフォルニア州農民共済組合)、American Legion (米国在郷軍人会)といった(いずれも排日運動を主導していた)団体の悪人たちが加担して行ったのが、強制収容だったのです。集団訴訟を起こさなければ、ある意味で日系人社会が1つになることはなかったでしょう。訴訟に勝つことは重要なことです。でもそれ以上に、(日系人が証言した)聴聞会を開いたことが、日系人を1つにする原動力となりました。その成果は、今日もいたるところで見ることができるのです。


リドレス運動

日付: 1998年8月26日

場所: 米国、バージニア州

インタビュアー: ダーシー・イキ、ミッチェル・マキ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

ジャック・ハージックは1922年7月30日ニュージャージー州ニューアークでドイツ系アメリカ人の両親の元に生まれました。18歳の時、ニュージャージー州フォート・ディックスの国家警備隊員になり、真珠湾攻撃の起こった19歳の時、落下傘兵に志願しました。その後、メリーランド州の対敵諜報部から、対敵諜報部将校として京都へ派遣されました。そこで、アイコ・ヨシナガと出会い、1978年彼女と結婚しました。

アイコをはじめ他の日系アメリカ人に対する不法な扱いについて知り、アイコと共に国立公文書館で資料集めにかかわりました。ワシントンDCのペンタゴンを含め陸軍の様々な高官と働いたこともあり、ヨーロッパ、日本、ワシントンDCで対敵諜報部将校を務めた経験を持っており、彼らが見つけ出した書類の重要性を見極めるのに大きな役割を果たしました。実際、米国軍は日系アメリカ人スパイに関する膨大な情報を含んでいる日本の外交電報を傍受したといわれており、この「マジック・ケーブル」と呼ばれるケースにおいて、それが事実ではなかったという詳細な情報を提供するため上・下院小委員会の審理で証言をしました。(2007年3月1日)

William Marutani
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ウィリアム・マルタニ

補償金辞退の道理(英語)

CWRICに関わった唯一の日系判事

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Clifford Uyeda
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クリフォード・ウエダ

補償受給者決定のための判断基準(英語)

政治活動家 (1917 - 2004)

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Clifford Uyeda
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クリフォード・ウエダ

賠償から補償への変更(英語)

政治活動家 (1917 - 2004)

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Clifford Uyeda
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クリフォード・ウエダ

全米JACL補償運動委員会議長にジョン・タテイシ氏を任命(英語)

政治活動家 (1917 - 2004)

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Clifford Uyeda
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クリフォード・ウエダ

アメリカ社会を教育するためのイノウエ上院議員の戦略(英語)

政治活動家 (1917 - 2004)

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Clifford Uyeda
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クリフォード・ウエダ

カーター大統領による委員会設置法案への署名の時のこと(英語)

政治活動家 (1917 - 2004)

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Clifford Uyeda
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クリフォード・ウエダ

人々の考えを改めさせたジョン・タテイシ氏の役割り(英語)

政治活動家 (1917 - 2004)

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Clifford Uyeda
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クリフォード・ウエダ

補償が残した遺産(英語)

政治活動家 (1917 - 2004)

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Frank Emi
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フランク・エミ

「しかたがない」意識を超えて (英語)

徴兵忌避者。ハート・マウンテンのフェア・プレイコミティのひとり(1916-2010)

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William Hohri
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ウィリアム・ホウリ

訴訟を行うことで人権回復のための基準を設定(英語)

政治活動家(1927-2010)

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Norman Yoshio Mineta
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ノーマン・ヨシオ・ミネタ

初期の戦時民間人転住勾留委員会(CWRIC) (英語)

アメリカ合衆国元運輸長官(1931年生)

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Norman Yoshio Mineta
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ノーマン・ヨシオ・ミネタ

法案442 (英語)

アメリカ合衆国元運輸長官(1931年生)

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Norman Yoshio Mineta
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ノーマン・ヨシオ・ミネタ

最後のハードル、レーガン大統領 (英語)

アメリカ合衆国元運輸長官(1931年生)

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Jimmy Murakami
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ジミー・ムラカミ

補償金について(英語)

(1933-2014) 日系アメリカ人アニメーター

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Kazumu Naganuma
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カズム・ナガヌマ

彼の妹は家族のために賠償金を確保した

クリスタル・シティに収容された日系ペルー人(1942年生)

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