ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/429/

第2次戦中の就職の困難さ(英語)

(英語)もちろん職を得るのは不可能でした。でも父が店を失い私達家族にはもう収入がなかったので、なんとか仕事を見つけなくてはなりませんでした。私は仕事を探しに行きましたが、誰も仕事をくれませんでした。ある人には「もし君を雇ったら、誰かに窓にレンガを投げつけられるだろう」と言われました。この様に私は(ユタ州)ソルトレイクシティーでは偏見を持たれたのです。

しかし中にはいい人もいました。人材不足のお陰もあったと思いますが、ユタホテルでサラダ作りの仕事が見つかったのです。今でもユタホテルはあると思います。私は夏の間しばらくそこで働きました。その他にもいくつかの仕事をしました。男性はみな戦争に行ってしまいかなりの人材不足だったので、私も職を得ることができたのだと思います。

会員制のゴルフコースであるソルトレイクシティーカントリークラブでやっと仕事が見つかりました。木に水をやる仕事です。ところがカントリークラブの会員の何人かが私を雇った管理者に抗議したのです。でもその管理者は私達を守って「この人達を解雇したら、水をやる人をどこから連れて来たらいいのですか?」と言ってくれました。日本人がカントリークラブで働くことに抵抗があったのでしょう。グリーンを破壊するとでも思ったのでしょうかね。それはいいとして、後に私は芝刈りの仕事に昇進しました。グリーンは練習場のグリーンを含め19もあったので、私は毎朝早朝に起きました。ゴルファーが打ち始める前に全部のグリーンをカバーするには、グリーンからグリーンへ走らなければなりませんでした。こうして私はふた夏、グリーンの芝刈りをしました。

これは私が学校に通っている時でした。 他には経済の論文を採点する仕事をしました。「ブルーブック」と呼ばれているもの(論文式の試験答案用紙)です。論文を読むのですが、これはひどい仕事でしたよ。時給は75セント。この仕事をして学校で時給75セントもらいました。山積みになったブルーブックを家に持ち帰って採点をしました。自慢するのは気が引けますが、教授が私の採点を(上方)修正したのは1つだけで・・・納得がいかないと、あとで学生が文句を言いに来ますからね。教授は私が採点したものを見て(その他は全部)私の採点に同意していました。


差別 対人関係 人種差別 第二次世界大戦

日付: 2005年12月8日

場所: 米国、オレゴン州

インタビュアー: アケミ・キクムラ・ヤノ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

サム・ナイトウ氏(1921年生まれ)はオレゴン州ポートランドにあるNaito Corporationの社長・代表取締役です。1975年、ポートランド国際空港を拠点にオレゴン産の製品・生産物を取り扱った店「Made In Oregon」を設立しました。以来Made In Oregonは店舗を拡大し、ポートランド、サレム、ユージン、ニューポートに10店舗あります。サムの父は1917年頃神戸の近くの小さな町からイギリス経由でアメリカへ移住しました。一家は、1921年ポートランドで輸入業を始めましたが、第2次大戦勃発を機に人種差別などを経験しました。1942年、当時オレゴン大学の学生だったサムは、「非愛国者」として春学期の途中で退学を余儀なくされます。ナイトウ一家はユタ州のソルトレイク市へ移動することを決意し、親戚らと合流しました。一方、サムは仕事をしながらユタ大学に通い、そこで将来の結婚相手と出会いました。1945年、ニューヨークのコロンビア大学へ転入・卒業。戦後は、陶磁器の卸業社Norcrest China Co.を設立し、イギリスやアメリカ占領下の日本からボーンチャイナや食器類などを輸入しました。(2005年12月5日).

ロイ・H・マツモト

日本軍に包囲されたときのメリル・マラウダー部隊の状況(英語)

カリフォルニア出身の二世。第2次大戦中は、MIS(陸軍情報部)としてメリル襲撃隊にて活躍。(1913年生)

ペギー・ニシムラ・ベイン

市民権を取り戻す(英語)

ワシントン州出身の二世。ツーレレイク強制収容所へ収容後、シカゴへ再転住。(1909年生)

ジーン・ワカツキ・ヒューストン

収容所の話ではなく人間ドラマ(英語)

作家(1934年生)

ペギー・ニシムラ・ベイン

忠誠心の質問への返答(英語)

ワシントン州出身の二世。ツーレレイク強制収容所へ収容後、シカゴへ再転住。(1909年生)

ペギー・ニシムラ・ベイン

収容所を出た後、シカゴでアパートを見つけることの難しさ(英語)

ワシントン州出身の二世。ツーレレイク強制収容所へ収容後、シカゴへ再転住。(1909年生)

リチャード・コサキ

真珠湾攻撃の後の疑惑(英語)

ハワイ出身の政治学者・教育者(1924年生)

アート・シバヤマ

真珠湾攻撃後、ペルーからアメリカへ連行(英語)

ペルー生まれの二世。第二次大戦中アメリカへ連行。(1930-2018)

アート・シバヤマ

ペルーから連行中のアメリカの輸送船の状況(英語)

ペルー生まれの二世。第二次大戦中アメリカへ連行。(1930-2018)

マリオン・ツタカワ・カネモト

真珠湾攻撃後のFBIによる家宅捜索(英語)

日系アメリカ人二世。第二次大戦中に自主的に日本へ移住。(1927年生)

マリオン・ツタカワ・カネモト

子供の時にみた父の逮捕(英語)

日系アメリカ人二世。第二次大戦中に自主的に日本へ移住。(1927年生)

モニカ・小木曽

アイデンティティ・クライシス(スペイン語)

(1969年生) アルゼンチン日系センターの前会長

マリオン・ツタカワ・カネモト

戦時中に参加した日本での兵役訓練(英語)

日系アメリカ人二世。第二次大戦中に自主的に日本へ移住。(1927年生)

マリオン・ツタカワ・カネモト

先生から聞いた反アメリカプロパガンダ(英語)

日系アメリカ人二世。第二次大戦中に自主的に日本へ移住。(1927年生)

マリオン・ツタカワ・カネモト

第2次大戦中の日本での苦難(英語)

日系アメリカ人二世。第二次大戦中に自主的に日本へ移住。(1927年生)

藤間勘須磨

戦中は隣人にホテルビジネスを預け収容所へ (英語)

日本舞踊・歌舞伎役者 (1918-2023)