ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/386/

陸軍での人種差別経験(英語)

(英語)私に対しても言われていたことですが、朝鮮戦争に出兵したアジア系の人は、「(見かけが)敵みたいだ。」というようなことをよく言われていました。敵の通称がジョー・チンクで、北朝鮮の人のことをそう呼んでいたんです。私もしょっちゅう「よう、ジョー・チンク。」と呼ばれました。

それから、兵士の射撃練習に使われていたポップアップ式の標的と私の顔が似ていたので、「ポップアップ」と呼ばれることもありました。定期的な射撃練習が兵士には課されていたのですが、毎回使っていた射撃練習用のポップアップ式の標的には出っ歯で目がつり上がった顔が描かれていました。それは、第二次大戦中の日本人をステレオタイプ的に描いた顔でした。私が初めて45口径の銃で射撃練習をした時のことです。初めのうちは標的が見えないようになっていて、突然、先ほど述べたようなジャップの姿をした標的が現れたのです。そして次々現れるジャップの標的を5つ、バンバンバンと撃ち抜いていきました。標的は全てジャップだったんです。それで私には「ポップ・アップ」というあだ名がつけられました。


差別 対人関係 人種差別 アメリカ陸軍

日付: 2003年3月18・20日

場所: 米国、ワシントン州

インタビュアー: アリス・イトウ、マユミ・ツタカワ

提供: Denshō: The Japanese American Legacy Project.

語り手のプロフィール

ロジャー・シモムラ氏の絵画・版画・舞台作品はアジア系アメリカ人の社会政治的な問題を題材にしています。これらの作品の多くは移民として渡米した故祖母が56年間にわたって綴った日記からアイデアを得ています。自作の絵画・版画の個展を100展以上も開催しており、ニューヨークのフランクリン・ファーネス、ミネアポリスのウォーカー・アートセンター、ワシントンDCのスミソニアン協会国立アメリカ歴史博物館などを拠点とし実験的な舞台作品を紹介してきました。また、教育者としても広く認められており、カンザス大学で特待教授(Distinguished Professor)になりました。さらに、アメリカ美術史学会は、4年間に渡る全米12の博物館で開催された巡回展『アメリカン・ダイアリー』の功績を称え、2001年に最優秀芸術作品賞を授けました。

シモムラ氏個人の書類などはスミソニアン協会アメリカン美術古文書館に保管されています。また、ニューヨーク.、シカゴ、カンザス市、マイアミ、シアトルのギャラリーで彼の作品を見ることができます。

*全インタビューはDenshō: The Japanese American Legacy Projectにて見ることができます。

ススム・“スス” ・イトウ

イタリア人の気前のよさ(英語)

日系二世、第442連隊戦闘団に所属し第二次世界大戦に従軍(1919 - 2015)

キャロウェイ・久松 照美

サンフランシスコで受けた差別

横浜出身の戦争花嫁(1937年生)

パウロ・イサム・ヒラノ

日本語の理解を深めるにつれ、日本社会に受け入れられる

(1979年生)群馬県大泉町在住の日系ブラジル人三世。デザイン事務所経営。

ロバート・T・フジオカ

アメリカ軍に捕らえられた祖父(英語)

ハワイ生まれの元銀行幹部職員(1952年生)

トム・ユキ

日系人の帰還を歓迎しなかったサリナス(英語)

三世のビジネスマン(1935年生)

タカヨ・フィッシャー

戦後の米国で人種的に自分が何者なのか混乱(英語)

日系アメリカ人二世、舞台、映画、テレビ女優 (1932年生)

ジョージ・カズハル・ナガヌマ

軍隊で壁画や標識を描く

(1938年生まれ)クリスタルシティに収容されていた日系ペルー人

ジョージ・カズハル・ナガヌマ

軍隊でタイピストとして働く

(1938年生まれ)クリスタルシティに収容されていた日系ペルー人

ジョージ・カズハル・ナガヌマ

軍隊でバスケットボールをする

(1938年生まれ)クリスタルシティに収容されていた日系ペルー人

ミア・ヤマモト

高校における黒人差別の理解

(1943年生まれ) 日系アメリカ人トランスジェンダー弁護士

ミア・ヤマモト

人種差別が彼女を初のトランスジェンダーの弁護士に育てた

(1943年生まれ) 日系アメリカ人トランスジェンダー弁護士