ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/372/

ペルーでの子供時代(英語)

(英語) 1940年に行われた国勢調査によると、当時ペールには26,000人の日本人、または日系ペルー人が住んでいたそうです。内90パーセントはリマかカヤオに住んでいたということになっていましたが、実際に居住している地域は様々で、私たちは各地に散らばって生活していました。日本町と呼ばれる地域はありませんでした。でも福岡県、熊本県、沖縄県などの(各県人会の主催する)ピクニックはありましたね。誰もが県人会に属していて、そこのピクニックに参加するんです。一年に一度は運動会があって、これは一大イベントでしたよ。子供達は赤と白の2組に分かれ、一日中走ったり飛んだりいろんなことをして赤組対白組で競い合うのです。


ハワイ 日系アメリカ人 日系 ペルー スポーツ 運動会 アメリカ合衆国

日付: 2003年10月26日

場所: 米国、ワシントン州

インタビュアー: アリス・イトウ

提供: Denshō: The Japanese American Legacy Project.

語り手のプロフィール

アート・シバヤマ氏は1930年6月6日ペルーのカヤオで生まれた日系二世の男性です。ペルーで両親・祖父母によって育てられた彼は、第2次大戦中にアメリカ軍の輸送船でアメリカへ両親ともに連行され、テキサス州クリスタルシティの収容所へ収容されました。その後ニュージャージー州シーブロックの生産会社で働くために家族で移住しました。不法移民とみなされていたにもかかわらず、1950年代にはアメリカ陸軍に徴兵され、ドイツに駐屯しました。除隊後は、イリノイ州シカゴとカリフォルニア州サンノゼにて家庭を築きました。近年は、カリフォルニア州ツールレイク収容所の巡礼や日系ペルー人の同窓会に参加したり、日系ラテンアメリカ人の戦後補償を求めるキャンペーンにも携わっています。シバヤマ氏は、2018年7月31日、88歳で亡くなりました。(2018年7月)

*全インタビューはDenshō: The Japanese American Legacy Projectにて見ることができます。

トシオ・イナハラ

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松原由美

日系人にとっての日本の伝統行事

岐阜県出身新一世。 最近アメリカ市民権を取得。

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アキラ・ワタナベ

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ペルーの琉球祭太鼓のディレクター(1974年生)