ディスカバー・ニッケイ

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集合センターの状況(英語)

(英語)私たちが集合センターへ送られたのは、後に強制収容所と呼ばれるようになった、転住センターがまだ建設されていなかったからです。集合センターには、競馬場や競馬用の土地が使われました。よくはわかりませんが、そういう場所は16カ所程作られたようです。そして私たち一家は中でも一番大きいサンタアニタのセンターに送られましたが、そこには約20,000人が収容されていました。そこは競馬場だったので、私たちのほとんどは馬屋が住まいとして割り当てられました。競馬用の土地でもそれは同じことで、馬がいたようです。そこでもみんな馬屋を住まいにしていたんです。たくさんの一世の人たちは馬の排泄物の匂いやそれを見て具合を悪くしていました。 


カリフォルニア州 投獄 監禁 サンタ・アニタ強制収容所 一時拘置所 アメリカ合衆国 第二次世界大戦 第二次世界大戦下の収容所

日付: 2003年6月16日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: カレン・イシズカ、アキラ・ボック

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

ユリ・マリー・コチヤマ氏(旧姓ナカハラ)は1922年南カリフォルニアのサンペドロで生まれました。子供のころは、素朴で、信仰心が厚く、政治とは無縁の女の子でした。しかし、1941年12月7日にハワイの真珠湾にあるアメリカ海軍基地が攻撃され、多くの日系人がアメリカ政府によって収容所や拘置所に入れられたのをきっかけに彼女の人生が変わったのです。ユリは、人種差別が行われていたアメリカ南部にあった2つの強制収容所での生活を通し、日系人とアフリカ系アメリカ人の類似点を見出しました。

戦後は、日系二世部隊に所属していたビル・コチヤマ氏と結婚し、ニューヨークに移り住みました。1960年、コチヤマ一家はアフリカ系アメリカ人地域のハーレムにある低所得者住宅に引っ越しました。このことが、ユリ・コチヤマ氏を政治の世界に引き込むことになったのです。特に1963年の米国黒人開放運動の指導者マルコムXとの出会いが彼女に与えた影響は大きく、マルコムXはその2年後に暗殺されてしまいますが、その後も黒人開放、日系アメリカ人補償運動、ベトナム反戦運動、反帝国主義運動、不当収容への反対などの政治活動家としての長い人生を送っています。

コチヤマ氏は、2014年6月1日、93歳で亡くなりました。(2014年6月)

ベン・サコグチ

キャンプから帰ってきて

(1938年生まれ) 日系アメリカ人の画家、版画家