ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/289/

社会運動への参加(英語)

(英語) 私が6人目の子供を生んだ頃には、私たち一家はより大きいアパートに引っ越さなければなりませんでした。私たちは低所得者用住宅に住んでいたんですが、ハーレムに新しい低所得者のための団地を建設していたのでそこに入居したんです。そこはハーレムでしたから、何と言うか、政治活動をするなら、やっぱりハーレムという土地はふさわしい場所だったんですね。

私は通りに置いてあるちらしを手にしたんですよ。すごく興味深く感じて、もっと知りたい、と思うようになったんですね。それでちらしを見つけるたびに手に取るようになったんです。ちらしには、次のイベントがいつあるかなどが書いてありました。それで1番下の子供が1歳になると、夫のビルは「家庭と子供たちの世話をしてくれれば、会合のいくつかに参加してもいいよ」と言ってくれたので、子供たち全員を、たしか2人を手押し車に乗せて、1人をベビーカーか何かで一緒に連れて行きました。だから私の子供たちはみんな本当に小さい頃から運動に参加していたんですよ。運動では子供たちはいろんなことに使われるんです。子供たちが車に轢かれた通りで、母親たちに自分のよちよち歩きの幼児や赤ちゃんを連れて来るよう呼びかけて、その道の真ん中に子供たちを置いて車を通らせないようにしたんですね。そして政府がハーレム全域に信号機を取り付けるまで私たちはその場を動かなかったんです。 

 


日付: 2003年6月16日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: カレン・イシズカ、アキラ・ボック

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

ユリ・マリー・コチヤマ氏(旧姓ナカハラ)は1922年南カリフォルニアのサンペドロで生まれました。子供のころは、素朴で、信仰心が厚く、政治とは無縁の女の子でした。しかし、1941年12月7日にハワイの真珠湾にあるアメリカ海軍基地が攻撃され、多くの日系人がアメリカ政府によって収容所や拘置所に入れられたのをきっかけに彼女の人生が変わったのです。ユリは、人種差別が行われていたアメリカ南部にあった2つの強制収容所での生活を通し、日系人とアフリカ系アメリカ人の類似点を見出しました。

戦後は、日系二世部隊に所属していたビル・コチヤマ氏と結婚し、ニューヨークに移り住みました。1960年、コチヤマ一家はアフリカ系アメリカ人地域のハーレムにある低所得者住宅に引っ越しました。このことが、ユリ・コチヤマ氏を政治の世界に引き込むことになったのです。特に1963年の米国黒人開放運動の指導者マルコムXとの出会いが彼女に与えた影響は大きく、マルコムXはその2年後に暗殺されてしまいますが、その後も黒人開放、日系アメリカ人補償運動、ベトナム反戦運動、反帝国主義運動、不当収容への反対などの政治活動家としての長い人生を送っています。

コチヤマ氏は、2014年6月1日、93歳で亡くなりました。(2014年6月)

ジョージ・タケイ

公民権運動(英語)

俳優、活動家(1937年生)

ジョージ・タケイ

世間にカミングアウト(英語)

俳優、活動家(1937年生)

タミオ・ワカヤマ

公民権運動への参加 (英語)

日系カナダ人フォトジャーナリスト、活動家 (1941 - 2018年)

タミオ・ワカヤマ

アジア人として運動に参加するということ(英語)

日系カナダ人フォトジャーナリスト、活動家 (1941 - 2018年)

ミア・ヤマモト

社会正義のために立ち上がる

(1943年生まれ) 日系アメリカ人トランスジェンダー弁護士

ミア・ヤマモト

日系アメリカ人の連帯

(1943年生まれ) 日系アメリカ人トランスジェンダー弁護士