ディスカバー・ニッケイ

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ニューヨークで学んだ後、日本に帰国(英語)

(英語)バークレーで学んだ直後、1967年に日本に帰国しました。それからニューヨークに5か月間勉強に行きました。ニューヨークに行くことは若い頃の夢でした。当時は(聞き取り不可)などがありました。私はもうしばらくニューヨークに居たかったのですが、万国博覧会や京都大学での仕事などが控えていました。

そして帰国しましたが、1969年、京都大学では暴動が起きていました。激しい学生運動でした。大学に行っても授業ができるような状況ではありませんでした。私はバークレーの自由主義などの影響を受けていたので、教員の立場ではありましたが、学生の肩を持っていました。学生たちが自分たちの信念を発展させる支えになろうとしていました。


1960年代 公民権 公民権運動 日本 学生運動 学生ストライキ

日付: 2016年8月10日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: ソージン・キム、ジョン・エサキ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

1940年3月25日、13代続く大阪の庭師の家に生まれる。1962年大阪府立大学旧農学部を卒業後、京都大学大学院に進学。その後、カリフォルニア大学バークレー校に留学し修士号を取得。1969年に帰国し、京都大学で造園学を教える。1970年大阪で開催された日本万国博覧会の庭園設計に貢献。同年カリフォルニアに戻り、州立ポリテクニック大学ポモナ校の環境デザイン学部ランドスケープ学科で教えるかたわら、公共スペースや企業、個人宅の造園を手がけ、伝統的な日本様式に第二次世界大戦後のカリフォルニアの気候やライフスタイルを融合させた。

主な作品に、カリフォルニア州サンマリノのハンティントン図書館にある日本庭園の修復、トーランス・カルチュラル・アーツ・センターのパイン・ウィンド・ガーデンのデザイン、ロサンゼルスのリトル東京の日系アメリカ人文化コミュニティーセンター内ジェームズ・アーバイン・ガーデンのデザインがある。

上杉教授は、2000年に30年間教員として勤めた州立ポリテクニック大学ポモナ校から退職したが、名誉教授として活発に活動を継続した。2010年、長年の貢献が認められ日本政府から瑞宝中綬章を受章。2016年1月、75歳で永眠。(2016年4月)

 

* このインタビューは、2007年に全米日系人博物館で開催された「Landscaping America: Beyond the Japanese Garden」展のために、学芸員ソージン・キムが行ったものです。

ジーン・玻満子・シュナイダー

アメリカへの移住して良かったこと

戦争花嫁(1925年生)

パウロ・イサム・ヒラノ

大泉とブラジルの日系コミュニティとの違い

(1979年生)群馬県大泉町在住の日系ブラジル人三世。デザイン事務所経営。

アントニオ・シンキチ・シコタ

日本に住むメリット(ポルトガル語)

日本でブラジルの商品店を営む日系ブラジル人(1962年生)

アントニオ・シンキチ・シコタ

大泉町の日系ブラジル人への政府の支援(ポルトガル語)

日本でブラジルの商品店を営む日系ブラジル人(1962年生)

アントニオ・シンキチ・シコタ

日本の日系コミュニティの将来(ポルトガル語)

日本でブラジルの商品店を営む日系ブラジル人(1962年生)

サワコ・アシザワ・ウチムラ

いくつかの生い立ちを持ったユニークなアイデンティティ(英語)

フィリピン生まれの引揚者、後にアメリカに移民(1938年生)

トム・ユキ

憲法に守られることを信じていた父(英語)

三世のビジネスマン(1935年生)

与那嶺要(ウォーリー・ヨナミネ)

1952年、戦後まもない日本での不自由な生活 (英語)

沖縄出身の両親の持つ2世。38年間に渡り、日本の野球界で選手・コーチ・スカウト・マネージャーとして活躍。(1925年生)

レイコ・T・サカタ

親の結婚

(1939年生まれ) 戦時中に家族とともに自発的にユタ州ソルトレイクシティに移住した実業家。