ディスカバー・ニッケイ

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故郷のピッツバーグで、日本での生活を夢見ていた(英語)

(英語)僕の出身地はピッツバーグですし、故郷といえば、ピッツバーグを想います。でも、僕の生活は日本にあると強く感じています。大学生の頃、卒業後に自分が何をしたいか考えても、アメリカには自分の居場所がないような気がしていました。大学に居る時も、勉強している時も、将来について考える時も、僕の中には常に日本がありました。日本行きを決めた後は、よし、自分は日本で演歌歌手を目指そう、と決めていました。でも、もし演歌歌手になれなくても、大学で勉強したことを日本のどこかで生かそうとも考えました。僕は、日本に住みたいと思っていたし、日本で生活しながら日本語が上手くなりたいといつも思っていました。


ハパ アイデンティティ 多人種からなる人々

日付: 2010年3月10日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: 西村 陽子

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センターによるインタビュー。日米文化会館による協力

語り手のプロフィール

ジェロ(本名ジェローム・チャールズ・ホワイト・ジュニア)は、1981年9月4日ペンシルバニア州ピッツバーグで生まれました。アフリカ系アメリカ人のジェロの祖父は、第二次大戦中に兵士として来日し、日本人の祖母と出会いました。2人は結婚し、娘のハルミが生まれ、その後一家は祖父の故郷のピッツバーグへ渡りました。ジェロの両親は、彼が子供の頃離婚し、彼は日本文化の影響の強い中で育ちました。ジェロが演歌と出会ったのは、祖母の影響でした。そして彼が演歌を歌い始めたのも、祖母の勧めがあったからでした。2003年、ピッツバーグ大学を卒業したジェロは、日本へ渡りました。英語講師やコンピュータ技師として働きながら、プロの歌手を目指し、祖母が大好きだった紅白歌合戦にいつか出場できるよう努力を重ねました。紅白歌合戦への出場は、ジェロが祖母と交わした約束だったのです。

伝統的な演歌と最近のヒップホップを組み合わせたジェロのスタイルは、下火だった演歌界に新たな生気を与え、さまざまな年齢層のファンを魅了しました。彼が交わした祖母との約束は大勢の人々の胸を打ち、ジェロの紅白歌合戦の出場は、2008年大晦日のハイライトとなりました。同年、彼は日本レコード大賞の最優秀新人賞を受賞し、日系の間でも人気歌手となりました。2010年にアメリカで開催したコンサートのチケットは、すぐに売り切れとなりました。(2010年3月)

ファン・アルベルト・松本

エスコバールについて(スペイン語)

日本在住の日系アルゼンチン人、二世(1962年生)

モニカ・タイシャ―

ニッケイの定義(英語)

米国在住の日系コロンビア人(1974年生)

サブリナ・シズエ・マケナ

カミングアウトが家族に与えた影響

(1957年生まれ) ハワイ州最高裁判所判事。