ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1092/

終戦の詔書を聞いて感じたこと

8月15日12時に天皇陛下からの、天皇陛下の放送があると。皆集まれということで、学校の、確か外のスピーカーで入ってきましてね。ま、言葉は所々切れて、ちょっと。私どもは、お、これは多分天皇陛下が「いよいよ本土決戦になるから 全員これからもう覚悟して 最後まで戦え」という励ましの言葉であろうと私どもは信じたんです。ところが、言葉が、ポツポツ切れるもんですから、皆でどういうことなんだろうかなぁ、って皆と話していましたよね。その時に、いや、まだ戦争やるのと違うかと皆そう思っていたんですよね。ところがやっぱり夕方前になって、もうほんとにこれで戦争はもう終わったと。本当に負けたと言って、あの時にちょっと驚きましたね。やっぱり自分でも。あ、戦争は終わりか・・・。 それで、8月15日から9月の初旬までぐらいまで、やっぱり隊におりましてね。まあ、ごろごろして何かしておりましたけれども 。次第次第に、ま、生きてこれで帰ると。よし、それはそれで善しと、自分で納得して、故郷(くに)へ長岡の故郷へ帰ったものです。


天皇 第二次世界大戦

日付: 2008年6月17日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: 西村 陽子

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

ヘンリー・榮一・須藤氏は、1928年2月5日一世の両親のもと、ノースダコタ州ミノットに生まれました。父親と妹が亡くなった後、母はヘンリーと弟を連れて日本へ帰国しました。当時7歳のヘンリーは、ほとんど日本語がわからなかったため、クラスメイトに溶け込もうと必死に日本語の勉強をしました。17歳の時、教員より日本軍への志願を勧められ、また、経済的理由からも大学進学は難しいという判断から、軍に志願することにしました。基礎的なトレーニングを終えて、須藤氏は、スペシャルユニットとして、34人の学生の1人に選ばれましたが、人間魚雷による自爆攻撃ユニットであることは知らされていませんでした。広島に原爆が投下された時、須藤氏はこのユニットにいたため、原爆投下の36時間後には救護兵として広島に到着していました。彼は、広島へ救護に向かった最初の兵士の1人でした。

戦後、須藤氏は合衆国へ戻りました。母親が亡くなってからは叔父と暮らし、ベルモント高校へ入学しましたが、その3カ月後、朝鮮戦争に招集されました。通訳になるためにパーマー基地で韓国語を学び、朝鮮半島の第一線で尋問員となる予定でしたが、日本を通過した際に、日本で通訳となるよう要請を受けました。

陸軍から退役した須藤氏は、ロサンゼルス・シティ・カレッジで貿易を専攻し、オタギリ社に入社し、1993年の退職まで働きました。

須藤氏は、2008年10月17日、80歳で他界しました。(2009年1月30日)

ジミー・ムラカミ

トゥーリーレイクへ(英語)

(1933-2014) 日系アメリカ人アニメーター

ジミー・ムラカミ

初めての映画(英語)

(1933-2014) 日系アメリカ人アニメーター

ジミー・ムラカミ

カモメ取り(英語)

(1933-2014) 日系アメリカ人アニメーター

ウィリー・イトウ

楽天的だった父(英語)

第二次世界大戦中トパーズに強制収容された日系三世。受賞歴のあるディズニーアニメーター(1934年生)

ウィリー・イトウ

タンフォラン集合センター(英語)

第二次世界大戦中トパーズに強制収容された日系三世。受賞歴のあるディズニーアニメーター(1934年生)

ウィリー・イトウ

トパーズでブローチを作る父(英語)

第二次世界大戦中トパーズに強制収容された日系三世。受賞歴のあるディズニーアニメーター(1934年生)

二宮 正人

戦時中に厳しく規制された外国語教育

サンパウロ大学法学部博士教授、弁護士、翻訳家(1948年生)