Sataye Shinoda

東京家政大学人文学部教授。日本女子大学大学院修了。専門は、日系人の歴史・文学。おもな業績:共編著『日系アメリカ文学雑誌集成』、共著『南北アメリカの日系文化』(人文書院、2007)、共訳『日系人とグローバリゼーション』(人文書院、2006)、共訳『ユリ・コチヤマ回顧録』(彩流社、2010)ほか。

(2011年 2月更新)

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日系アメリカ文学雑誌研究: 日本語雑誌を中心に

青年活動から生まれた文芸誌『怒濤』-その4/5

>>その3

4.『怒濤』の内容

これは機関誌という性格から、青年団の活動報告などが多数掲載されていると考えられるが、そのような記事は少ない。野球が創刊号と第2号に、相撲大会の結果が第2号に、各部の行事は創刊号、第2号、第5号で扱われているが毎号載っているわけではない。スポーツ大会の結果は週一回発行の新聞紙上に掲載されたため、ニュース性の少ない機関誌には載らなかったのであろう。

特徴としては青年たちを啓蒙する記事が多く掲載されている。安芸良「結婚と出産とキャンプ生活」(創刊号)、丸山郁雄「戦時体制下の日本」(創刊号)、「組合への再認識」(第2号)、「戦争への回顧」(第5号 ...

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日系アメリカ文学雑誌研究: 日本語雑誌を中心に

青年活動から生まれた文芸誌『怒濤』-その3/5

>>その2

収容所の出版物には当局の検閲があった。『怒濤』も例外ではなかった。

藤田によれば創刊号の記事は検閲にパスするよう慎重にことばを選び、すべて翻訳して提出した。これが承認されたのち、第2号からは翻訳を提出する義務を免除されたという。その後は日本へのそれぞれの思いをかなり自由に表現することができた。それは創刊号の「巻頭言」のなかで日本は「彼方のうましくに」「黎明の彼岸」と表現されているが、第3号では「純白の地に旭日を以って描かれた明るき世界」となって、日章旗のイメージをより鮮明に表していることからも分る。第3号が発行された1944年10月、日本軍はレイテ海戦で連合艦隊の主力を失い、11月には東京が空襲されるなど連合国が圧倒的に優勢であった。アメリカ本土への日本軍の攻撃もないという安堵から、戦時転住局は出版物に関してはあまり厳重な監視を行なわなかった。かつて比良青年会が危険分子の集まりとみなされて ...

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日系アメリカ文学雑誌研究: 日本語雑誌を中心に

青年活動から生まれた文芸誌『怒濤』-その2/5

>>その1

2.鶴嶺湖男女青年団の結成

隔離収容所となった1943年の秋ころから、青年団を作ろうという動きが起こったが、それが本格化したのは、さきに述べた「現状維持派」と「現状打破派」の対立が深刻になった時期であった。これら二派の対立は、市民権の蹂躙への抗議や、合衆国に忠誠か不忠誠かといった日系人の思想の根本的な問題から生まれたものではなかった。良識のある人びとの目にはその対立は単なる醜い勢力争いとしか写らなかった。自分たちがそのようは無益な対立に巻き込まれ、次第に生きる指針を見失って行くのは耐えられないと考えた若者たちは、止むに止まれぬ気持ちから青年団の結成を決意した。青年たちは二派の対立の中で暴力がまかり通って、正常な判断が失われていく事態に危機を感じていた。考え深い人びとが沈黙してしまうような状況を変え、収容所生活を意義あるものにしたいというのが、多くの若者に共通した気持ちであった。

1944年3月12日、中央劇場で鶴嶺湖男女青年団の発団式が行われた ...

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日系アメリカ文学雑誌研究: 日本語雑誌を中心に

青年活動から生まれた文芸誌『怒濤』-その1/5

トゥーリレイク収容所は、日本語出版物のもっとも多い収容所である。文学誌の性格をもつものは『怒濤』および『鉄柵』のほか、短歌誌『高原』がある。『高原』は泊良彦の主宰する「東津久仁短歌会」の短歌誌である。単行本では加川文一の随筆集『我が見し頬』、矢尾嘉夫の歌集『歸雁集』、泊良彦の歌集『渦巻』が発行された。

複数の日本語雑誌があるのはこの収容所のみで、これらの雑誌は収容所が「隔離」収容所となった1943年7月15日以降に発行された ...

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日系アメリカ文学雑誌研究: 日本語雑誌を中心に

『若人』 ―帰米二世文学の芽生え- その5/5

>>その4

『若人』第三号は8月30日に発行された。編集部によれば、戦時転住局はすべての作品を翻訳し、英文と和文の両方を掲載すべきであると主張したという。しかし、双方の折衝の結果、従来通りの形式で許可された。青年会の会員は大部分がトゥーリレイクへ隔離されることになっていたため、戦時転住局はその動向に必要以上に神経をとがらせていたと思われる。

この年の夏はとくに猛暑で、温度計が破裂して水銀が飛び散るほどであったが、編集者は最後を飾る立派な雑誌を発行しようと暑さの中で奮闘したという。これまでは毎号とも40ページ弱であったが、第三号は70ページになった。このなかで野口蒼平は「砂漠に咲く花」を書いている。彼は、1943年5月失踪した一世老人の捜索隊に加わる。5月の砂漠はさまざまな花が咲いており、それをひとつずつ丹念に観察して行く。ごくありふれたセイジブラッシュの花は黄色く可憐、モスキートトゥリーの花はアカシアに似ているとか ...

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