Sataye Shinoda

東京家政大学人文学部教授。日本女子大学大学院修了。専門は、日系人の歴史・文学。おもな業績:共編著『日系アメリカ文学雑誌集成』、共著『南北アメリカの日系文化』(人文書院、2007)、共訳『日系人とグローバリゼーション』(人文書院、2006)、共訳『ユリ・コチヤマ回顧録』(彩流社、2010)ほか。

(2011年 2月更新)

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日系アメリカ文学雑誌研究: 日本語雑誌を中心に

望郷の総合雑誌 - 『ポストン文藝』 その8/8

その7>>

4.『ポストン文藝』の特色と果たした役割

『ポストン文藝』の第一の特色は、特定の集団ではなく一般の収容者を対象とした総合雑誌であったこと。内容は文学のみならず、様々な娯楽的要素をもった読物や写真、芝居や日本舞踊公演に関する記事もあり、いわゆる「講談本」や演劇などのファン雑誌の要素も含まれていた。

第二の特色は呼び寄せを含む一世が発行の中心的役割を担ったこと。編集者及び寄稿者に帰米二世はいるが、その数は少ない。一世が創り出したものに帰米二世が参加するいう形をとっていた。

第三に当局による検閲を重視して、作品の内容について自己規制を行なったこと。当局は忠誠者のみの収容所ということで、収容所の秩序を乱す行為を取り締まり、厳しく監理しようとしたため、とくに日本語のみを使う活動には神経を尖らせたようである。編集側は作品募集のときから「米国戦時体制に反しないもの ...

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日系アメリカ文学雑誌研究: 日本語雑誌を中心に

望郷の総合雑誌 - 『ポストン文藝』 その7/8

その6>>

『ポストン文藝』を多彩な総合雑誌にしているのは、芸能の記事や写真が華いだ雰囲気を添えているからであろう。この時期にもっとも人気のあったスターは、日本舞踊家の藤間勘須磨(濱口須磨子)で、彼女に関する記事が『ポストン文藝』を賑わしている。彼女は1934年に日本へ行き、5代目藤間勘十郎のもとで名取りになった若い二世である。

日系社会には各流派の名取りがいて、それぞれ弟子を養成していた。生活が安定すると子女に日本舞踊を習わせて、日本的な立ち居振舞を身につけさせ、日本の古典芸能を理解できるようにするのが、親の願望であり、ステイタス・シンボルにもなっていた。とくに収容所内では様々な稽古事が盛んで、古典芸能などに縁がなかった人でも日本舞踊を習うことができた。

勘須磨はアーカンソー州ローワー収容所に送られたが、特別の許可を得て慰問のため各収容所を巡り ...

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望郷の総合雑誌 - 『ポストン文藝』 その6/8

その5>>

かつて日系人の文学は短詩形文学中心であったことから、この『ポストン文藝』の中の短詩形文学作品の数はたいへん多い。

詩の分野では第一に外川明の名をあげることができる。彼は1903年、山梨県南都留郡に生まれた。父は妻と3歳の明をおいてアメリカへ渡り、16年間帰国しなかった。村の尋常小学校を卒業後、彼は養蚕、農業、道路修理の労働者、富士登山の強力(ごうりき)、行商人などあらゆる仕事をして母を助け、父の帰りを待った。1922年に父が帰国したとき、彼はすでに19歳の若者になっていた。翌年父とともに渡米、夜学に通いながら働いて1929年に帰米二世の女性と結婚した。彼は戦前から詩を書き、日系社会で詩人として知られるようになった。彼は1932年に東京で私家版の詩集を出版 ...

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望郷の総合雑誌 - 『ポストン文藝』 その5/8

その4>>

木内春波(貞勝)の「おもかげ」(45年7、8月号)は、初恋に破れて転落の人生を送った男が老人となって収容所の病院で死の床に横たわるとき、優しい看護婦に出あう。それはかつての恋人の娘だと分かるが、真実を明かさずに死んで行くという物語である。文章もしっかりしていて、物語の運びも手なれたものである。木内は当時40代、若い頃文学青年だったが仕事に追われてものを書く暇がなく、収容所でやっとその時間を与えられたという。「技師長」(44年10月号)は、変り者といわれた隣人の一世が行方不明になり、部落の人びとが捜索隊を組織して砂漠の中を探し回るが、ついに見つからなかった事件について書いたものである。たぶんこれは事実にもとづいたものであろう。老一世の中には絶望のあまり自殺したり ...

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日系アメリカ文学雑誌研究: 日本語雑誌を中心に

望郷の総合雑誌 - 『ポストン文藝』 その4/8

その3>>

発行部数を完全に把握することはできないが、44年7月号が600部、1年後の45年7月号が1,000部という記録がある。多くの熱心な読者をもつ『鉄柵』でも発行部数は800部であったから、『ポストン文藝』の発行部数はかなり多い。制作費はWRAからの援助金のほか、所内のキャンティーン(売店)で20セント、外部へは送料を含めて25セントで販売された。「編集後記」には寄付金への謝辞が掲載されているので、熱心な支持者からの寄付もあったと思われる。

ポストンはトゥーリレイクとは異なり、志願兵となる者、再定住のため収容所を去る者など人びとがつねに移動した。ポストン文芸協会の人びともひとりまたひとりと去って行くが、『ポストン文藝』はこれら外部へ出た人からの寄稿によって支えられ、継続することができた ...

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