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日系アメリカ文学雑誌研究: 日本語雑誌を中心に

『南加文藝』-ロサンゼルスに根づいた文芸誌 -その2/5

その1>>

2.「十人会」から「南加文芸社」へ

          胸ぬちにうづく思ひは言ふを得ず歌になし得ず涙流るる  
                                                    内田 静 (『羅府新報』1946年6月21日付)

この短歌は日本の降伏によりすっかり混乱して、自分の思いを表現できずに沈黙した一世の気持ちを代弁している。日系社会は完全に世代交代して二世の時代になっていた。戦争中にアメリカ政府に協力し、日系人の立退きをすすめた全米日系アメリカ市民協会(JACL)は日系人を代表する組織になった。戦中の忠誠登録は戦後もずっと尾を引き、これによって日系社会は長い間忠誠者と不忠誠者に二分されたままになった。忠誠者は脚光を浴びた。とくに従軍した兵士たちは日系社会の英雄となった。ヨーロッパ戦線で片手を失ったが、不屈の努力でハワイ州選出上院議員になったダニエル・イノウエなどはもっとも有名な英雄のひとりであった。彼の『ワシントンへの道』をはじめとして、英文による忠誠の記録が相次いで出版された。

かつてトゥーリレイクに収容されていた一世、帰米二世にとって忠誠者は輝いてまぶしい存在であった。不忠誠者は何事も控え目に、収容所の話にはなるべくふれないように暮していた。しかし、生活が落ち着きを取り戻すと、かつて収容所で熱中した文学活動が忘れられず、何か書きたいという思いが湧き上がった。理不尽な収容所生活ではあったが、そこで多くの文芸が育てられたことは事実であった。

トゥーリレイクで『怒濤』を編集した藤田晃は、戦争直後から『羅府新報』に詩、短編小説、随筆、映画評論などを投稿していた。冒頭に引用した詩は戦後最初に掲載された作品である。トゥーリレイクで『鉄柵』の編集を担当していた野沢穣二は1947年、父が株主であった『羅府新報』に入社し、「羅府文化」という文学のページを設けて文学青年たちの投稿を促した。ここに多くの作品を投稿したのは、藤田晃、山城正雄であった。戦前と同様に新年には懸賞小説の募集があり、三等までの入選作が新年の紙上で発表された。もっとも多く一等を受賞したのは藤田であった。野沢は作品発表の場を提供して、日本語文学を育てようとしたのである。

生活再建のための苦闘の結果、かつての文芸人たちがやっと文学について考える余裕ができたのは、収容所を出て10年後のことであった。10年という歳月は生活再建のためばかりではなく、時代の変化を理解し、自らを納得させるのに要した時間といえるかもしれない。トゥーリレイクで創作の楽しさを味わった若者たちも30代半ばに達し、家庭をもっていた。しかし文学への思いを断ちがたく、1956年1月7日、ロサンゼルス地域に住む人びとが、かつてポストン収容所にいた詩人外川明の家へ集まって文学同人会「十人会」を結成した。この会はおもにトゥーリレイクで文芸誌発行の苦楽を分かちあったかつての仲間の集りであった。

当時、外川の家に集ったのは加川文一、矢野喜代士、山城正雄、藤田晃、野沢穣二、河合一夫のトゥーリレイクの仲間6人に外川明、谷崎不二夫、三好峯人、当時留学生だった沼田が加わって全部で10人であったから「十人会」と名づけられた。外川は呼び寄せ一世だが忠誠組であった。帰米二世の谷崎は忠誠組でマンザナ収容所から陸軍情報部隊(MIS)の一員として当時のビルマ(ミャンマー)で活動するなど、この会の中では異色の存在であった。しかし彼は 『マンザナ・フリー・プレス』紙に評論を書くと同時に『鉄柵』にも投稿したという関係から参加したのであろう。彼らは月に一度ほど集っては外川家名物のうどんをご馳走になって文学談義に花を咲かせたという。野沢は『羅府新報』に「置き時計」というコラムを用意して、メンバーが交代で執筆することを勧めた。皆の尊敬する加川文一が最初に執筆すると、その作品の質が高かったため、他の人は遠慮して書かず、このコラムは加川専用となった。こうしてこの会は自然消滅してしまった。

それから10年近い月日が流れ,時代は変化していた。マーティン・ルーサー・キング牧師を中心とする公民権運動で多くの犠牲が払われた結果、1964年には新公民権法が成立し、アメリカ社会は大きな転換期を迎えた。ブラック・パワー運動に刺激されて、日系人の間からも、他のアジア系の人びとと連帯してイエロー・パワー運動が起こった。エスニック・アイデンティティの覚醒が叫ばれ、日系、中国系などという区別をなくし、すべてを含めて「アジア系」とする考え方が次第に若者に支持されていった。1964年には第一次トンキン湾事件が勃発し、北ベトナムへの報復爆撃によってベトナム戦争はアメリカの戦争となった。ベトナムで戦う日系兵士も徐々に増えて、日系人は否応なく社会の激動の中に飲み込まれていった。

日系社会の人びとの流れも大きく変化していた。1947年にアメリカ軍属と結婚したアジア人花嫁の入国が許可されると、写真花嫁以来はじめて多くの日本人女性が渡米した。進駐軍兵士ばかりでなくアメリカ市民の妻として入国した日本女性の数は、1948年から増え続け、1952年には4,220名、1957年には5,003名となって、このような状態が1970年代初めまで続いた(U.S. Commissioner of Immigration and Naturalization, Annual Reports, 1947-75)。また、市民権を放棄して送還船で日本へ行った者の中にも、敗戦国日本の耐乏生活に疲れ、ふたたびアメリカへ帰ってくる者も多かった。『鉄柵』同人の水戸川光雄はいったん日本へ行ったものの1950年代の半ばにアメリカへ戻り、かつての仲間とともにガーデナとなった。

このような状況のもと、「十人会」のメンバーだった人びとが集って「南加文芸会」が発足した。トゥーリレイクからずっと行動をともにした河合一夫はすでに亡くなっていた。当時、彼らにとって日系新聞以外に作品を発表する場はなかった。それならば自分たちで雑誌を作ろうという話がまとまった。このときのリーダーも加川文一であった。加川は『收穫』、『鉄柵』、『南加文藝』と一貫してカリフォルニア日系日本語文学において指導的な役割を果した。加川をはじめとするトゥーリレイクの文芸人の努力で、1965年9月に文学同人誌『南加文藝』が生まれた。編集委員は、加川文一、山城正雄、野沢穣二、藤田晃、加屋良晴という以前からのメンバーに戦後移住者の山中真知子が加わった。男ばかりの編集委員のなかでただひとりの女性であった。トゥーリレイクの青年団時代から鉄筆を担当していた加屋良晴がふたたび鉄筆を握った。謄写版刷り、版画の表紙のついたまさに手づくりの雑誌が誕生したのである。加屋の自宅が事務局となり、彼はメンバーとの連絡、原稿集め、版下作成、販売までをひとりで引き受けた。毎回の表紙を飾る版画とカットは、山城正雄夫人の静枝が担当した。静枝は女子美術大学を卒業した画家であるが、戦後結婚して渡米した。

経費を節約するために製本なども収容所のときと同じようにメンバーによる手作業であった。この頃野沢穣二は『羅府新報』を辞めて、リトル・トウキョウでかなり手広く貿易会社を経営していた。彼は創作するよりも文芸会を維持するためのサポート役にまわった。そして自分の会社を作業場に提供したので、同人はそこで製本作業を行なった。ときにはメンバーの家族全員も手伝いに来るなど、和気藹々のうちに雑誌ができあがるところなどは、かつての収容所時代と同様であった。

「発刊の辞」のなかで加川文一は、『南加文藝』創刊の目的は南カリフォルニアの日系文芸人に発表の場を提供することであると述べている。そしてアメリカに根づいた日系人の日々の生活の中から文学を生み出し、大切に育てていきたいと抱負を語っている。人間が生きる上でもっとも大切な「誠実」をもって、この同人誌を長い間続けていきたいというところに、真摯に文学に取り組んできた加川の姿勢がにじみ出ている。創刊号は200部発行された。

野沢譲二の会社で第2号の製本を終えて、1966年2月。前列向かって左より:山中真知子、青木文子、関所澄江。後列向かって左より:野沢譲二、加屋良晴、山城正雄、加川文一。(加屋氏提供)

続く>>

* 篠田左多江・山本岩夫共編著 『日系アメリカ文学雑誌研究ー日本語雑誌を中心にー』 (不二出版、1998年)からの転載。

© 1998 Fuji Shippan

issei Japanese literature kibei Los Angeles Nanka Bungei post-war Shin-Issei southern california

About this series

日系日本語雑誌の多くは、戦中・戦後の混乱期に失われ、後継者が日本語を理解できずに廃棄されてしまいました。このコラムでは、名前のみで実物が見つからなかったため幻の雑誌といわれた『收穫』をはじめ、日本語雑誌であるがゆえに、アメリカ側の記録から欠落してしまった収容所の雑誌、戦後移住者も加わった文芸 誌など、日系アメリカ文学雑誌集成に収められた雑誌の解題を紹介します。

これらすべての貴重な文芸雑誌は図書館などにまとめて収蔵されているものではなく、個人所有のものをたずね歩いて拝借したもので、多くの日系文芸人のご協力のもとに完成しました。

*篠田左多江・山本岩夫 『日系アメリカ文学雑誌研究ー日本語雑誌を中心にー』 (不二出版、1998年)からの転載。