Masayuki Fukasawa

Born on November 22, 1965, in Numazu City, Shizuoka Prefecture, Japan. In 1992, he went to Brazil for the first time and worked as an intern at Paulista Shimbun (Japanese newspaper in Brazil). In 1995, he went back to Japan and worked with Brazilians at a factory in Oizumi-machi, Gunma Prefecture. He wrote a book, Parallel World (Ushio Publishing) about his experiences there and received Ushio Nonfiction Award in 1999. He returned to Brazil in 1999. Beginning in 2001, he worked at Nikkey Shimbun and became the editor-in-chief in 2004. He has been an editor-in-chief of Diário Brasil Nippou since 2022. 

Updated January 2022

media ja

ブラジルのニッケイ新聞12月廃刊・40年間邦字紙支えたラウル社長 - その2

その1を読む >>

ポルトガル語新聞の市場を切り開いてきた二世社長

ブラジル国内という市場に注目した場合、新聞が生き残るにはポルトガル語紙面をどう活性化させるかがカギだ。

パウリスタ新聞(当時、小川パウロ社長)が作った初のポルトガル語雑誌『Revista Arigatô』が1987年に廃刊した。当時としては画期的な取り組みだったが採算がとれなかった。

一方、日毎(「日伯毎日新聞」)はポルトガル語別冊『PáginaUm』を1979年4月から土曜版に挟み込む形ではじめていた。日毎ポルトガル語編集部の木村ウイリアム編集長を中心に、1979年4月に土曜版に挟み込まれた形で0号を出した。

邦字紙でポルトガル語面といえば1~2頁ていどのおまけのイメージの時代であり、ポルトガル語だけの別冊というのは初の試みだった。

日本語紙面とは全くトーンが異なり、二世がもつ肌身の時代感覚、たとえば軍事政権からの脱却などのもっと一般社会の時代の空気を色濃く反映していた。

創刊直後からポルトガル語紙面をつくったパウリスタ新聞、ポルトガル語別冊に力を入れてきた日毎に対して、サンパウロ新聞は1960年代頃までポルトガル語面すら作らない方針を貫き、最後まで日本語だけを重視していた。

サンパウロ新聞の水本エドワルド氏は社長在任当時の1985年、次のような発言をしている。「我々はコミュニティ全体のために新聞を作っているのではない。我々の購読者リストの95%を占める日本人のためであり、日系子孫は最低人数でしかない。だから、我々の新聞をそこに合うように急激に変化させることは意味がない。現実的ではない」。

つまり、サンパウロ新聞の考え方は、邦字紙読者はあくまで日本移民であり、ポルトガル語世代を含めた読者層に広げることを否定してきた。だからポルトガル語の紙面に力を入れてこなかった。

その点、ニッケイ新聞は別冊というオマケではなく、「Jornal Nippak」というポルトガル語独自の購読紙を創刊し、現在まで続けている。このへんにラウル社長が最初から持っている「二世として経営者感覚」があるのだろう。

40年前にコロニアは消滅すると予測した米教授

文協事務局長だった藤井卓治さんは、1976年に出た『週刊時報』創刊号に「鮮烈なペンに期待」との一文を寄せた。

いわく「十数年前に来伯して、日系移住社会のブラジル社会への融合事情を調査したアメリカ・コーネル大学のスミス教授は『後20年経ったら、日本語新聞も日本語学校も仏教や新興宗教もなくなってしまう』という結論を出した」と現実とは違うことを揶揄した。

スミス教授が予測した通りなら、邦字紙は1980年代には消滅していたはずだ。だが、事実としてはその約40年後、2021年現在でも続いている。それは、コミュニティ自体が続いていることを意味している。

さらに藤井は、「『コロニアとは何か』と聞かれれば、私は直ちに『新聞だ』と答えるであろう。新聞がなくなればコロニアは分解するだろうと思うからだ。戦時中、もし日語新聞があったら、あのような勝ち組負け組事件は起こらなかっただろう。同じように、『日本語は何時まで続くか』と聞かれれば、『日語新聞と運命を共にする』と答える外はない。ドンピシャリの答えではないが、それ程新聞の占める地位は大きい」と書いている。

藤井さんの説によれば、日本語のコミュニティが残っている限り邦字紙は続くし、二世・三世らがポルトガル語のコミュニティを続けていれば、ポルトガル語新聞も続く。

「コミュニティペーパー」があるかないかは、日系社会が続いているかどうかを計るバロメーターの一つなのかもしれない。


2000年以降、邦字紙もネット時代に

日本語新聞が生き残ることに関して、ブラジル国内の移民読者が減っていく中で、新たな読者層として開拓すべきなのは、ブラジル国外にいる日本人、たとえば日本の日本人だろう。

その点、ニッケイ新聞は時流に合わせてネット対応をしてきた。

2001年にサイトを立ち上げ、2012年からは「PDF版」の発行も始めた。現在は、サイトの有料記事もPDF版も見られる「Web版会員」、企業・学校等の「団体向けアカウント」も行っている。団体向けアカウントには早稲田大学、神田外語大学などもある。

また、東京支社(輿石信男支社長)が把握する日本国内の購読者には、日本銀行などの主要な金融機関や投資機関はもちろん、ブラジルに進出・投資する企業、「◎◎総研」のような研究所、有名大学、各種官庁部署などが多く含まれている。

ヤフーニュースと記事掲載契約を結んでいる関係から、紙媒体として読まれるよりも、ネット記事として読まれる方が現在では多くなった。

なかでも、2020年4月18日付ヤフーニュース投稿の《ブラジル記者コラム「在日ブラジル人にも10万円給付を」》記事は、195万ビューを記録した。賛否両論がコメント欄では交わされ、大いに問題提起した。

たかが邦字紙の記事が、日本で200万人近くの人の目に触れるという現象は、ネット時代ならではのことだ。ヤフーニュースでは、今年だけで数十万ビューの記事が10本近く出ている。

本紙サイト記事2019年4月27日付《日系五世の高校生が堂々の祝辞=天皇陛下御即位30年式典で=北野監督、山中教授らに並んで》でもでは、いいねボタンが2500回押されるなど、記事によっては日本の人にもかなり読まれている。

このように、ブラジル国内の移民読者だけでなく、「ブラジル情報を日本の日本人向けに発信する媒体」としての役割が強まってきている。その傾向はパンデミック以降、特に顕著になっている。

ここまで育ててきたものを、むざむざドブに捨てるのはもったいない。この部分をさらに伸ばすことを、次の時代の課題にしたい。

 

 

Read more

media ja

ブラジルのニッケイ新聞12月廃刊・40年間邦字紙支えたラウル社長 - その1

「ニッケイ新聞」の2021年11月18日号2面において、高木ラウル社長が「12月18日号をもって廃刊する」と公表した。残念なことだが、あと1カ月で本紙(ニッケイ新聞)は幕を閉じる。

ノロエステ連合日伯文化協会の元会長、白石一資さんにそれに関するコメントを求めると、「新聞がなくなると本当に困る。毎日読まないと、日系団体のことが分からなくなるし、日本語を忘れてしまう」と邦字紙の価値を再認識させてくれた。

白石さんは1935年6月11日、サンパウロ州ガララペス生まれの二世だ。

さらに「父も邦字紙を読んでいた。ボクが日本語学校で12の巻きを終えたとき、もうそれ以上先を教える教科書がなくなってしまった。父にそれを言うと、『おまえも新聞を読め。最初は分からないところもあるだろうから、それは飛ばして、とにかく毎日読め。そうすればだんだん分かるようになる』と言われた」とのエピソードを披露した。

白石さんは、父の言う通りにして新聞を読めるようになった。以来、欠かさずに邦字紙を読んでいるという。


40年間、邦字紙一筋に働いてきたラウル社長

ラウル社長は「私が40年間、邦字紙で働いてこれたのは、愛読者のおかげ。ここまで続けてこられたことに、心から感謝したい」と繰り返す。

ラウル社長は1946年1月、聖市生まれの75歳。カトリック大学法科を卒業して、西功法律事務所に務めていた時、同じビル内の日伯毎日新聞(以下、日毎)の中林敏彦社長と親しくなった。西弁護士は日毎の法定責任者も務めていた。

その縁で1981年に日毎に入社し、そこから40年間の邦字紙生活だ。そして、「83年からこっそりと社長を引き継いだ」という。

なぜ「こっそり」かといえば、当時はまだ37歳の若造で、いきなり「邦字紙社長になった」といっても、周りから信用されないのではとラウル社長が心配したからだ。

中林さんに「しばらく公表しないで、こっそり引き継ぎをして欲しい。自然に知られるようになるのを待ちたい」とお願いして就任したという。

ラウル社長は「中林社長の願いを引き受けるに当たり、最初に相談したのは、一百野さんだった。彼が『ラウルなら私も続ける』と言ってくれたので、決断した」と振り返る。一百野雄吉さんは当時の編集長だ。

当初、中林社長が後継者として白羽の矢を立てたのは、ソールナッセンテ証券を創業して大成功していた戦後移民・若松孝司さんだった。若松さんは元パウリスタ新聞記者であり、邦字紙事情にも詳しくて、資金力も充分あるため適任と思われたからだ。

だが、若松さんが自分の社員を一週間、新聞社に送り込んで財務状態を調査させた結果、「引き受けられない」と返事をしてきたという。

すでに労働裁判なども抱え、経営状態はかなり悪化していたからだ。その結果、二世で現地事情に明るく、法科卒の弁護士として裁判慣れしているラウル氏が選ばれた。

日毎は二世が社長になったことで、当時3紙あった邦字紙の中で、雑誌出版などの多角化、ポルトガル語紙面の充実などに力を入れるようになった。

平版印刷機でガッチャン、ガッチャン

ラウル社長は「私が社長になった頃、印刷機は平版で、一枚、一枚、ガッチャン、ガッチャンと印刷するものだった。だから印刷だけで6時間もかかった。パウリスタ新聞とサンパウロ新聞はすでに最新の輪転機を導入しており、1時間もかからない。ボクも印刷から、配送部の折りの作業、配達まで手伝ったことあるよ」と思い出す。

当時の経営の苦労として最大のものはハイパーインフレだったという。「インフレが酷くて、給料が払えないことが良くあった。だから、なんとかバーレ(食券)だけは毎週金曜日に必ず配った」と振り返る。

そして「長年働いていてくれたある従業員が亡くなって、お葬式に行ったら、家族を紹介された。何番目の息子は弁護士、何番目は医者などと、子どもが皆立派な職業に就いていて本当にビックリした。どうしてあの給料で子どもにそんな教育を与えられたのかと、すごいと思った」としみじみ語った。


パウリスタ新聞と日毎が98年に合併、23年間の歴史

振りかえれば、パウリスタ新聞(1947年1月創刊)と日伯毎日新聞(1949年1月創刊)という、共に半世紀の歴史を誇る邦字紙が合併して、ニッケイ新聞は1998年3月3日から始まった。

何のセレモニーもなく、突然新聞が切り替わる形で始まり、それから23年の歴史を刻んできた。

同創刊号の中で、吉田尚則編集局長は《「読者と共に考える」創刊の辞にかえて》として、次のように論じている。

日本の地方紙は地域に根ざした独自のテーマを抱え、何十年も変わることなく追及しており、それに習って《時流に即応した編集姿勢と時を超えた編集方針》をニッケイ新聞の有り方として掲げている。

その上で、後続移住者が途絶えた今、一世から一世にバトンを手渡すことができない時代を迎えたとし、《一世の体温が伝わるバトンを直接、子孫に託さなければならない》と論じる。

ブラジルという人種と文化の混交化が進む実験国家において、《本紙は「地域主義におけるグローバリズム」の情報発信体として、実験の過程と成果を日本や他の移民先発国のコミュニティに伝え、それらの地域から学び得た情報を日系社会に報告する。そのような新聞でありたいと念じています》と宣言した。

その高い志がどの程度実現できたが…。正直言ってはなはだ心もとない。

だが少なくともその間、皇太子殿下(現天皇陛下)のご来伯を頂いた移民百周年(2008年)、外交関係樹立120年(2015年)、眞子さまをお迎えした110周年(2018年)と重要な節目を記事として残してきた。

なかでもコロニア出版物部門に力を入れ、日本語、ポルトガル語のどちらも数々の刊行物を出してきた。

2009年4月には百周年記念写真集『百年目の肖像~邦字紙が追った2008年~』(日ポ併記、オールカラー)も刊行した。

当時本紙記者だった堀江剛史さん(広島在住、現広島日伯協会理事)の尽力で実現した、2009年のアマゾン入植80周年を記念した連載をまとめた『アマゾン—日本人移民80周年』が、その後に続く出版事業の端緒となった。

2016年1月からは、日ポ語両語を並記した著作『日本文化(Cultura Japonesa)』シリーズを、サンパウロ青年図書館と共に刊行しはじめた。

年2、3冊を出し続け、2019年3月には『日本文化』第9号を、眞子さまご来伯特別写真集として刊行して好評をえたことは記憶に新しい。

また、パウリスタ新聞は1990年から研修記者制度を始めた。日毎は80年代から日伯交流協会生を毎年受けれて、両方の流れを合計すれば、70人を軽く超える人材が記者研修制度から育っている。

この研修生にはマスコミ志望者が多く、帰国後にかなり新聞社やテレビ局に入っている。朝日新聞、読売新聞、NHK、中日新聞、北海道新聞、高知新聞、岐阜新聞、神戸新聞などあちこちで活躍している。

ブラジル日系社会を知っている記者が日本でそれだけ活躍している。そんな人材育成も邦字紙の重要な役割だ。高木ラウル本紙社長はそのような「日本の若者育成」という新聞社の役割をつねづね強調してきた。

その2 >>

 

Read more

ja

ハワイ日本移民史とブラジルの繋がり - その2

その1を読む >>

元年者の前から現地に住んでいた日本人も

『ハワイ移民史』を見てオヤッと興味深く思ったのは、明治元年(1868年)にハワイに渡った最初の日本人移民〝元年者〟がホノルルに着いたとき、すでに日本人が3人現地で暮らしていたという記述だ。

元年者150人の一人、牧野富三郎が無事にホノルル港に到着したことを告げる手紙が12頁に転載されており、《酔っ払いや乱暴を働く人間もおらず、平穏で幸せを感じている。到着した時には日本人が3人いた。神奈川県出身の仙太郎が残り、通訳や相談にも乗ってくれて「地獄で仏」に会ったようだ》と書き送っている。

笠戸丸移民の2年前に、〝実験台〟として渡伯した鈴木南樹(鈴木貞次郎)の体験談を書いた『伯国日本移民の草分』(1932年)には、彼がペトロポリスの公使館を最初に訪ねた時に、すでに現地在住日本人として出入りしていた二人が「伯国に於ける日本人の元祖」として紹介されている。

一人はやはりハワイ移民の転住者の「秋葉じいさん」だ。《ハワイから英国船に乗ってサントスに上陸し、転々として遂にペトロポリスに来た。つい先頃迄公使館の料理人をして居たのであるが、その頃は頭の上にお菓子箱を載せて、チャルメラのような音をたてる笛を吹きながら、大道を売って歩いて居た》(PDF版、16頁)。これが1906年の話だ。

さらに《秋葉さんははっきりと自分の歳も知らないし、伯国に何年居るかも知って居らない》とあるから、本当に〝国際的な仙人〟のような存在だった。

もう一人が「軽業師の万治さん」で、《軽業師竹沢万次の謎を追う=サーカスに見る日伯交流史=第1回=明治3年頃に上陸、全伯公演?》で連載にして紹介した「竹沢万次」だ。

きっとハワイの3人にも興味深い物語が埋もれているに違いない。


古谷重綱(ふるやしげつな)ゆかりの「上陸拒否事件」

加えて「上陸拒否事件」(93頁)にも目を引かれた。《移民会社は契約移民の枠に外れた人たちや、移民の希望者に携帯金の50ドルを貸し渡し〝自由移民〟にみせかけて送り出す抜け道を考え、積極的に移民を募集した。貸し付け金は上陸後に回収するという「見せ金」という方法》であり、それがハワイ政府から《携帯金の出処が不明朗、不合理である》として1100人余りを入国拒否した事件だ。

これに対して日本政府は1897年4月、外務省の秋山雅之助参事官を軍艦浪速でホノルルに派遣、ハワイ王国政府に強い姿勢を示した。《浪速には東京から毎日・国民・中央・時事・万朝の各新聞記者を同行させメディアも動員した》(93頁)とある。

ちなみにこの時の「国民新聞」の記者が古谷重綱で、戦前のブラジル同胞社会では外交官としてよく知られていた。だが外交官になる以前は、徳富蘇峰が経営する「国民新聞」の記者だった。

『在伯日本人先駆者傳』(433頁、パウリスタ新聞社、1955年)によれば、1896年、ハワイで日本移民上陸拒否事件が起きた時、古谷は特派記者として軍艦浪速で現地入り。その後、社主徳富蘇峰を説得して、ミシガン大学法科で勉強し、卒業後、国民新聞に復帰。

1902年に外交官試験に合格して、海外勤務を経て1921年には外務省通商局長に。1926年にアルゼンチン、パラグアイ、ウルグアイをかねる全権大使に。帰国後、栄転を断って1929年にブラジルに移住した。古谷の息子綱正は新聞人の血を引き、日本で毎日新聞論説委員になった。

外交官上がりで移民した古谷は、ジュキア線セドロでバナナ園を経営した。1936年から38年まで教育普及会の会長を務めたが、終戦直後に負け組の幹部として勝ち組強硬派に真っ先に襲撃された。元ジャーナリストらしく情報収集に熱心で、戦中も北米邦字紙を購読していた。当時蜂谷商会に務めていた藤田芳郎に、コロニアに正しい情報を広めることの重要性を説き、藤田は薦めに従って1949年に太陽堂書店を創業した。リベルダーデ日本広場に現在も続く、あの太陽堂書店だ。


悪徳移民会社追い出しや最初の日本酒製造

ハワイ初の日本人小学校開校は1896年。日伯修好通商条約の翌年だ。ブラジル初の移民船土佐丸は1897年8月に東洋移民会社から出るはずだったが、「コーヒー暴落」を理由にドタキャンされた。

実際に1908年にブラジル移民が始まる直前、1900~1907年の間だけでハワイには7万1千人の日本人が渡航していた。3年間の農地労働の束縛が解けた後、多くがより報酬の良い本土に移った。特にカリフォルニア州だ。

116頁によれば、1904年だけでハワイから本土への転航者は1万1132人を数えたという。本土に比べて移住条件が緩かったハワイが踏み台になった形だ。その中で、ハワイでの二世出生数は1901年に一千人の大台を超えて1134人、1903年にはピークの3437人を記録した。ブラジル日系社会にとっては大先輩だ。

どこの国にも移民を食い物にする会社は現れるようだ。《京濱銀行や移民会社が移民を食い物にする現状、これらの会社の肩を持つ斉藤幹総領事に対する非難がホノルルの日本人識者からわき起こった。1905(明治38)年5月7日、志保沢忠三郎らが中心となり革新同志会を結成、決起大会には約1400人が参加した》(130頁)という出来事もあった。それから1年も経たずして京濱銀行・移民会社はハワイからいなくなったというから、すごい影響力だ。

ちなみに1908年には仁保島村出身の住田多二郎が日本酒の製造に成功した。《日本酒が海外で製造されたのは、ハワイが最初である》(142頁)との歴史もある。《日本から杜氏を呼び寄せ、四季のないハワイで〝日本の冬〟を再現して試行錯誤、想像を越える多額の投資に悩みながらもわずか1年で製品化に成功》とある。

外地で何十年ぶりに飲む日本酒には、郷愁という〝隠し味〟が利いており、格別な味がしたに違いない。

* * * * *

日本国内でも外国人住民が激増してきた昨今、「かつて日本人はどこへどう移住したのか」に興味を覚える日本の人もいるかもしれない。

ハワイ移民史料館仁保島村サイトの館長挨拶には、《今、わが国では日系ブラジル人の里帰りを始めとする諸外国からの就労者や居住者も多くなり、急速な国際化への対応が大きな課題となっております。かつてハワイ移民は、日本人排斥運動・日本語学校への圧迫・太平洋戦争など大きな難問に直面しました。これらを見事に乗り越えたハワイ移民の歴史とその叡智は、多くの国籍を持つ人たちとの共生が目前となった現在の日本に、様々な形の示唆を与えてくれます》とあった。

移民史は外国の歴史ではなく、日本の近代史として認識されるようになり、教科書などにもしっかりと記述されるようになってほしい。

 

*本稿は、『ニッケイ新聞』(2021年6月29日)からの転載です。

 

Read more

migration ja

ハワイ日本移民史とブラジルの繋がり - その1

突然、日本の友人から『ハワイ日本人移民史 1868~1952』(ハワイ移民史料館仁保島村 館長 川崎壽、2020年刊、3800円、以下『ハワイ移民史』と略)が郵送されてきた。

日伯間の郵便業務は昨年4月から停止されていると思ったから、ビックリした。一部は業務を再開しているようだ。とはいえ2月にSAL便で出して6月末着、4カ月間だから通常の2倍ぐらいかかっている。

「ハワイ移民史料館仁保島村」という存在自体、初めて知った。広島県広島市南区仁保にある私設資料館だ。入場料は無料だが、メールなどで事前連絡が必要とある。

送ってくれた友人の手紙には《この本には館長の移民に対する溢れんばかりの情熱が凝縮されています》とあるが、その通りだ。A4判、全247頁には図版が満載されており、舌を巻いた。

館長の本業は建築業らしいが、忙しい本業の傍らコツコツと長い時間をかけて移民資料を集め、自分でこの資料館を建て、その収蔵品を織り込みながらこの移民史を編纂したようだ。

川崎館長が書いた序文には、ハワイとの関わりが紹介されている。姉がハワイの戦前移民だった関係で、真珠湾攻撃後、カリフォルニア州にあった最も反米的だった移民が集められた強制収容所に家族まるごと送り込まれたようだ。

いわく《私の義兄(従兄)は極めて反米的であるとしてハワイで逮捕され、アメリカ本土のツールレイク収容所に抑留されました。妻(長姉)と子供4人の家族全員が同行しました。戦後解放されると、驚くことに広島県呉市に置かれた英連邦占領軍司令部の通訳兼運転手として、姉は士官クラスの食堂の賄い方としての職を得て帰国して来ました。住宅が見つかるまで数カ月の間、我が家に滞在していました。生まれて初めて長姉との対面、そしてこれが私と〝ハワイ〟との出会いの始まりでした》(2頁)とある。

同史料館サイトの館長あいさつには、さらに深い関係が記されていた。

《私の父は、ハワイ島のヒロのプランテーションでサトウキビ列車の機関手として働いた経験を持ちます。兄1人・姉4人はハワイボーン、ハワイに永住しています。もちろん全員アメリカ人です。私は横浜生まれ、同じ兄弟でも生まれながらにして国籍を異にしています。

太平洋戦争の最中は敵と味方に分かれました。父の弟妹は5人もハワイに移民、全員が渡航以来定住し、それぞれの家庭を築いています。これらの家族は3・4・5世の時代を迎え、今やその人数は在日本の我が家系を遥かにしのいでいます》との自己紹介が書かれている。

つまり、日本の血筋を継ぐために館長は本家に残され、それ以外はハワイに移住したような家系に見える。家族ぐるみの深い繋がりが今もあるから、これだけの作業が根気よくできるのだと納得した。

米国の排日運動を受けブラジルに転住する流れ

『海外移住統計』(JICA、平成6年10月版)によれば、戦前に世界へ出た日本移民の数を県別に調べると、広島県が断トツ1位だ。約9万7千人にもなり、全移住者の約15%を占めている。ハワイから始まり、世界に散らばっている。2位が沖縄県、3位が熊本県と続く。

ブラジルに限ってみると、戦前戦後合わせて一番多いのは熊本県の2万3575人、2位は沖縄県で2万449人、3位が福岡県の1万9509人、4位が北海道、5位に広島県が来る。

そして何より、米国日本人移民は、ブラジル日本人移民にとって「兄貴分」だ。明治時代にはアメリカ行きが全盛となったが、日露戦争(1904~5年)に日本が勝利したことで、欧米に危機感が生まれて黄禍論となり、日本移民排斥が強まった。1905(明治38)年にカリフォルニア州議会が排日法案を提出して1913(大正2)年に成立するという黄禍論の高まりをみて、北米に見切りを付けた者が南米に活路を求めた。

つまり、米国が門戸を閉じなければ、ブラジルが世界最大の日系社会を持つ国にはならなかった。

例えば、日本力行会は元々米国への送り出しが中心業務だったし、ブラジルには縁が深い永田稠2代会長も元米国移民だ。

だからブラジルへの初期移民の多くは、米国からの転住者だった。1915年に初入植したモツーカの東京植民地、アリアンサ移住地の初期も米国転住者が多かった。

だいたい我々邦字紙の創世記を先導したのは北米からの転住者だった。

ブラジル初の邦字紙である週刊『南米』を創立した星名謙一郎は、ハワイで日本語新聞経営に携わった経験を持っていた。1887年、東京英和大学(現青山学院)卒業後、中国上海へ。移植民に興味を持つようになり、1891年までに契約労働者としてハワイに渡った。甘藷農園ではたらき、労働条件改善のためにストライキを先導したりしている。キリスト教の伝道でも活躍し、1895年からホノルルに出て、税関の通訳をしながら日本語新聞『日本週報』の刊行に関わっていたという。

このハワイ初の邦字紙『日本週報』は1882年創刊。その写真は『ハワイ移民史』74頁に出ていたが、星名の姿は無かった。星名が『南米』を創刊するのは1916年だから、36年後。ハワイの歴史は古い。

その詳しい経緯が『移民の快傑・星名謙一郎の生涯 ハワイ・テキサス・ブラジル』(飯田耕二郎著、不二出版、2017年)で描かれている。

〝邦字紙創立請負人〟のように3紙の創立に関わる輪湖俊午郎、『ブラジル時報』創立者の黒石清作、『ノロエステ民報』の梶本北民、移民向け教養雑誌の最初『塾友』を創刊した小林美登利らも、北米での苦い経験から、できるかぎり伯国政府を刺激するような批判をさけ、移民の側が適応すべく自粛するような内にこもる論調をつくり、批判するなら移民会社や日本政府という基調を全体的に形成していった。

その2 >>

 

*本稿は、『ニッケイ新聞』(2021年6月29日)からの転載です。

 

Read more

migration ja

自分史に見るブラジル戦後移民と戦争の深い関係

現在世界最大200万人の日系社会を誇るブラジルも、最初は日本人移民25万人から始まった。戦後移民はそのうちの約5万人を占める。

戦後派の最大の特徴は「戦争経験者」「元満州移民や満州生れ」が多いことだ。調査がないので実数は分からないが、邦字紙記者25年の実感としてはこうだ。戦後移民の半分は数年で日本に帰国したが、残った人の4分の1から3分の1ぐらいは満州経験者ではないかと思う。

満州から本土に引揚げてしばらく生活したが、大陸で生活した経験からすると、日本の国土では何かと「狭苦しさ」「窮屈さ」「食糧難のひどさ」などから、再び外地に出たいという希望が湧き、当時数少ない移住再開国だったブラジルに大挙して渡った部分があると想像される。

だから、移民の書く自分史には戦争体験が多い。たとえば2005年に日系社会の文芸賞「コロニア文芸賞」を受賞した自分史『草原』はその代表格だ。

著者は野澤今朝之さん(けさゆき、故人)で、幼い頃を過ごした北満州での厳しい開拓の生活や家族の死、日本へ引き上げてからも続いた戦後の不幸や、コチア青年として1957年に来伯してからの様子、デカセギ時代など激動の人生が素朴な言葉で淡々と書かれている。

ニッケイ新聞にも2007年に全文転載し、好評を得た。当時の神田大民デスクは記者コラムの中で、《元陸軍の将校だったという八十二歳は、ぜひ野澤さんの所に香典を届けたい、焼香したい、と住所を問い合わせてきた。満州における悲劇からもう六十二年経ている。きけば、実兄が旧満鉄に務めていて、野澤さんの家族、親類と同じ目に遭った、他人事とは思えない、ということだった。毎日涙なしには読めない、と言い、筆者と話をしている間にも泣いた。声がつまって話が聴き取れなくなった。この人にとって、まだ満州は風化していない。野沢さんの文章を読んで感極まったのである》と読者から寄せられた感想を紹介している。


シベリア抑留者には大したことなかったアマゾン移住

1957年、アマゾン移民としてパラー州グアマ連邦移住地に家族で渡った谷口範之さん(のりゆき、広島県出身、故人)は2009年、人生の締めくくりに当って壮絶な戦中戦後の体験を記した自分史『私のシベリア抑留記』を遺した。満州出兵、シベリア抑留という戦後移民ならでは悲惨な体験を記したものだ。

終戦の半年前に第119師団歩兵連隊機関銃中隊に入隊し、満州国の北西部に渡った。伊列克得(いれくと)で陣地の築城作業中にソ連軍が侵攻し、「わずか4日間の戦闘で、連隊は半減した」という地獄を見た。

8月18日にロシア軍に抑留され、「家畜のごとく」貨物列車に一晩詰め込まれて収容所(ラーゲリ)へ。「朝点呼で起きて外に出たら、ウッと息ができない。あまりに空気が冷たくて」。食うや食わずで移動させられ、強制労働。ツルハシを地面に振り下ろすと、カンッという甲高い音と共に跳ね返された。地表は完全に凍結していた。

抑留を終え、1947年1月、長崎県佐世保に着いたとき、入隊時に58キロあった体重は40キロに減っていた。「飢餓線上をさまよい、音さえ凍る極寒と強制労働に耐え、灼けつくような望郷の思いに苛まれた抑留の日々であった」と当時の経験が綴られている。

シベリア抑留後から帰国10年後の1957年5月、妻の家族と共にパラー州のグアマ連邦移住地に入植した。入植時の受け入れ施設はまったく整備がされておらず、雨期には農地が水没するような酷い移住地で、入植者の多くが夜逃げした。だが、谷口さんは「シベリアに比べれば大したことなかったですよ」と笑い飛ばした。


満州から戻ると故郷の村民の半分が戦死

ブラジル沖縄県人会長や沖縄文化センター理事長を歴任してきた戦後移民・山城勇さんは、2017年、自分史『回顧録―おしどり米寿を迎えて』を出版した。

1928年に糸満市米須で生まれた山城さんは、43年に満蒙開拓青少年義勇軍に入隊し満州へ渡った。終戦後は大連で2年間の避難生活を経験した後に引き揚げ、58年に第4次沖縄産業開発青年隊としてブラジルに渡った。

山城さんは16歳の時に満州で終戦を迎えた。玉音放送の直後、義勇軍の《上官たち数人が、部隊で飼われていた豚を、軍刀で片っ端から切り殺していく姿を目の当たりにした。良く見ると、豚は首半分切りの頭を引きずりながら、血を吹き、広場を駆け回っている。半殺し豚があちこちでぶつかり合っていた。軍人魂の悔し紛れの仕打ちとは理解するものの、あまりにも酷い感じがした》(118頁)と生々しい描写がされている。

大連で2年近く避難生活を続け、47年にようやく引揚げ。《故郷沖縄は厳しい地上戦で家族は全滅してしまったものとばかり思いながら、長崎佐世保に引揚げた。胸中、県民玉砕で家族全滅の沖縄に帰っても仕方ないので、北海道に行先をきめて、収容所で待機していた。その時、恩師山城幸吉先生と偶然出会い、家族の生存を知らされた。急きょ方向転換し故郷米須(こめす)に帰還しました》(挨拶)。

父と弟の二人は戦死したが、他7人は九死に一生を得ており、4年ぶりに涙の再会を果たした。米須は、現在ひめゆりの塔が建つあたりから海岸までの地区で、沖縄本島最南端に位置する。地上戦の決着地であり、最も被害の多い地区だ。山城さんによれば同地区の250家族中、全滅が62家族。人口でいえば1252人中、半分以上の648人が戦没者だった。

終戦後も沖縄は米軍に占領され続け、《県民は拘束状態で軍靴に踏みにじられ、産業のない島で食糧や職業が少ない。さらに海外引き揚げ者も多く、人口の自然増は毎年2万人とあって、大きな社会問題となっていました》(挨拶)。

そんな引き揚げ者の多くが再び海外を目指した。《しかも1950年に朝鮮動乱が勃発すると占領軍は、軍事基地拡張のために強制的に農地接収を至る所で行うようになった。沖縄が再び戦乱に巻き込まれはせんか、と県民は不安におののいた。そこで平和でよりよい生活を求めて海外へ海外へとの気運が再燃しました》(同)という経緯でブラジルへ移住した。


「島は動かせないが、人は移民できる」

戦後移民・赤嶺園子さんの自分史の叩き台を読ませてもらった時、衝撃を受けた。沖縄戦の最中、血だらけになって「私はもう死ぬのですか」と父に問うシーンで始まっていたからだ。

普通の自分史なら「いつどこで生まれたか」という描写から始まり、子供時代の幼い頃の懐かしい、ほのぼのとした思い出がつづられる。ところが彼女のそれには、懐かしさを漂わせるニュナンスは一切ない。子供時代の温かい思い出など存在しないかのようだ。いきなり沖縄戦の厳しい描写から、その人生の1ページが始まる。

彼女が生まれた西原村は、沖縄本島中部の那覇市の反対側に位置し、米軍が激戦を繰り広げた場所の一つだ。その結果、家族5人が尊い犠牲となり、幼かった彼女自身も、山の中の避難所にいたにもかかわらず爆撃を受けて火傷を負った。その時の言葉が冒頭の問いかけだ。

この体験がトラウマとなり、彼女と家族の人生を決めた。移住動機を質問した時、彼女は「島は動かせないが、人は移民できるから」と答えた。そんな風に考えた人がたくさんいたから、戦後、沖縄からたくさんの移民がでたのだろう。

戦前にブラジルに渡っていた伯父が良い生活をしていると聞き、《戦争のない国ブラジルへの渡航を決意しました。以後機会あるごとに父母にブラジル行きを懇願するのですが聴許かないません》。だが結局は拝み倒して家族ごと移住した。

「万が一、また戦争に巻き込まれたら…」との恐怖感に背中をおされて、南米へ向かった形だ。沖縄に残った人たちは「少しでも戦争を遠ざけたい」から、ことある毎に基地問題を持ち出す。移民も基地問題も、裏には理屈をこえたトラウマがある。

地上戦を生き抜いてきたことへの感謝、「自分が今生かされているのは、ご先祖様のおかげ」という想いが、日々の行動の根底にある。

園子さんが人生の大事な判断をするとき、つねに秤の一方には「戦争」があった。「戦争」と「異国での苦労」を秤にかけたら、後者に軍配が上がった。平和に暮らせるなら、国籍や文化や言葉が異なる海外移住も厭わないというわけだ。

自分が言い出して家族をブラジルへ連れてきた責任感からか、身を粉にして家族に尽くす。どんな困難にも前向きに立ち向かい、ありとあらゆる知恵を駆使して解決してきた。日本にいたら開発できなかった隠れた自分の才能を、困難に直面することによって発揮し、ブラジルでの人生を切り開いてきた。

終戦から76年が経ったが、沖縄県には今も日本全国の米軍基地の7割が集中している。この事実からは「緊張感のある状況」は変わっていないことが分かる。もしも北朝鮮が核ミサイルを発射したら、中国の人民解放軍が攻めてきたら、真っ先に狙われるのは沖縄であり、いつの日か、再び戦場になる可能性は否定できない。

だから、彼等にとって戦争のないブラジルで末裔を増やすことは重要なのだ。沖縄県人は、いざという時の布石をすでに打っている。

父が亡くなった時、連絡が取れなかった弟が出棺直前に突然帰宅したなど、家族が見えない糸でつながれている実話が自分史には描かれる。「土地を移ることで言葉や文化が変わっても、たいした問題ではない。家族の絆さえ変わらなければ」。そんな確信が行間からにじみでている。とにかく子孫を残す。それがご先祖様から命を受け継いだウチナーンチュの宿願だ。

* * * * *

沖縄であれ、日本本土であれ、個人の力ではどうしようもない故郷が持つ属性を、国民の方が「国境を超える」というプロセスを踏むことによって、自分の人生においてプラスに作用するように向けることが「移住」の本質なのだと、ブラジルの戦後移民を見ていてしみじみ痛感する。

 

Read more