深沢 正雪

(ふかさわ・まさゆき)

1965年11月22日、静岡県沼津市生まれ。92年にブラジル初渡航し、邦字紙パウリスタ新聞で研修記者。95年にいったん帰国し、群馬県大泉町でブラジル人と共に工場労働を体験、その知見をまとめたものが99年の潮ノンフィクション賞を受賞、『パラレル・ワールド』(潮出版)として出版。99年から再渡伯。01年からニッケイ新聞に勤務、04年から編集長。2022年からブラジル日報編集長。

(2022年1月 更新)

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明治初期に南米公演した軽業師・ブラジルに住んだ最初の日本人は誰か? - その2

その1を読む>> 1873年5月にサンパウロで公演? 1873(明治6)年1、2月にウルグアイで公演し、翌3月には亜国ブエノス・アイレス市の(旧)コロン劇場にも出演した。なんど「Satsuma」で検索しても残念ながらブラジル国立デジタル図書館サイトでは、今のところ引っかかるものはない。 ただし、「japonesa」で調べた時、なんと『コレイオ・パウリスターノ』紙1873年5月10日付がひっかかってきた。開いてみると4面に、日本人軽業師の広告があるのを見つけた。 《初公開、大きな梯子を使った超難易度のA Escada Japoneza(日本式階段芸)executados pelo appulaudido artista Jeronymo e o menino Joannito(絶賛を受ける芸人ジェロニモとジョアニット少年による)》とある。 これはペレイラ兄弟サーカス団の公演の一部で、場所はサンパウロ市ラルゴ・サンベンド、1873年5月10日(土)夜8時からだ。なんと笠戸丸35年前にサンパウロ市セントロ区のサンベントで、日本人として初めて軽業芸を披露していたようだ。これは、日伯交流史を大きく塗り替える出来事といえる。 ウルグアイ、アルゼンチン公演と同じ年の5月に、サンパウロ市で日本人軽業師が公演している。ということは、何らかの理由でサツマ座の一部が分かれて、ブラジル公…

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明治初期に南米公演した軽業師・ブラジルに住んだ最初の日本人は誰か? - その1

ブラジルに最初に足を踏み入れた日本人は、1803年にサンタカタリーナ島にロシア軍艦で着いた、若宮丸の漂流民4人であった。だが彼らは通過しただけだった。 幕末に最初にブラジルの土を踏んだ日本人は、1866年10月25日、榎本武揚ら幕府留学生が開陽丸でオランダの港を出発し、リオ・デ・ジャネイロを経由して、翌1867年3月に横浜港に帰着した時だ。 最初にブラジルに「骨を埋めた」日本人は、1870(明治3)年にバイア湾沖の英国軍艦で割腹自殺を遂げた、薩摩武士の前田十郎左衛門であった。 日本開国以降で初めてブラジルに渡った日本人は、ブラジル軍艦アルミランテ・バローゾ号で渡航した「大武和三郎」だと言われている。その船は1889年7月に横浜に到着、リオに帰港したのは1890年7月29日だ。 ちょうどその間にブラジル帝政が軍事クーデター(1889年11月)によって倒され、共和国宣言が出されたすぐ後だった。 1889年といえば、日本でも大きな節目の年だった。自由民権運動の訴えをうけいれて「明治憲法」の発布が行われた年だ。以後、帝国議会を開催されるようになり、日本国の背骨が作られたときだった。 そんな時に、ブラジルに来ていたのだから、間違いなく早い。第1回移民船「笠戸丸」は1908年だから、それより約20年もさかのぼる。 ところがウルグアイ、アルゼンチンの研究者の調査を総合すると、どう…

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ブラジルのニッケイ新聞12月廃刊・40年間邦字紙支えたラウル社長 - その2

その1を読む >> ポルトガル語新聞の市場を切り開いてきた二世社長 ブラジル国内という市場に注目した場合、新聞が生き残るにはポルトガル語紙面をどう活性化させるかがカギだ。 パウリスタ新聞(当時、小川パウロ社長)が作った初のポルトガル語雑誌『Revista Arigatô』が1987年に廃刊した。当時としては画期的な取り組みだったが採算がとれなかった。 一方、日毎(「日伯毎日新聞」)はポルトガル語別冊『PáginaUm』を1979年4月から土曜版に挟み込む形ではじめていた。日毎ポルトガル語編集部の木村ウイリアム編集長を中心に、1979年4月に土曜版に挟み込まれた形で0号を出した。 邦字紙でポルトガル語面といえば1~2頁ていどのおまけのイメージの時代であり、ポルトガル語だけの別冊というのは初の試みだった。 日本語紙面とは全くトーンが異なり、二世がもつ肌身の時代感覚、たとえば軍事政権からの脱却などのもっと一般社会の時代の空気を色濃く反映していた。 創刊直後からポルトガル語紙面をつくったパウリスタ新聞、ポルトガル語別冊に力を入れてきた日毎に対して、サンパウロ新聞は1960年代頃までポルトガル語面すら作らない方針を貫き、最後まで日本語だけを重視していた。 サンパウロ新聞の水本エドワルド氏は社長在任当時の1985年、次のような発言をしている。「我々は…

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ブラジルのニッケイ新聞12月廃刊・40年間邦字紙支えたラウル社長 - その1

「ニッケイ新聞」の2021年11月18日号2面において、高木ラウル社長が「12月18日号をもって廃刊する」と公表した。残念なことだが、あと1カ月で本紙(ニッケイ新聞)は幕を閉じる。 ノロエステ連合日伯文化協会の元会長、白石一資さんにそれに関するコメントを求めると、「新聞がなくなると本当に困る。毎日読まないと、日系団体のことが分からなくなるし、日本語を忘れてしまう」と邦字紙の価値を再認識させてくれた。 白石さんは1935年6月11日、サンパウロ州ガララペス生まれの二世だ。 さらに「父も邦字紙を読んでいた。ボクが日本語学校で12の巻きを終えたとき、もうそれ以上先を教える教科書がなくなってしまった。父にそれを言うと、『おまえも新聞を読め。最初は分からないところもあるだろうから、それは飛ばして、とにかく毎日読め。そうすればだんだん分かるようになる』と言われた」とのエピソードを披露した。 白石さんは、父の言う通りにして新聞を読めるようになった。以来、欠かさずに邦字紙を読んでいるという。 40年間、邦字紙一筋に働いてきたラウル社長 ラウル社長は「私が40年間、邦字紙で働いてこれたのは、愛読者のおかげ。ここまで続けてこられたことに、心から感謝したい」と繰り返す。 ラウル社長は1946年1月、聖市生まれの75歳。カトリック大学法科を卒業して、西功法律事務所に務めていた時、同じビ…

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ハワイ日本移民史とブラジルの繋がり - その2

その1を読む >> 元年者の前から現地に住んでいた日本人も 『ハワイ移民史』を見てオヤッと興味深く思ったのは、明治元年(1868年)にハワイに渡った最初の日本人移民〝元年者〟がホノルルに着いたとき、すでに日本人が3人現地で暮らしていたという記述だ。 元年者150人の一人、牧野富三郎が無事にホノルル港に到着したことを告げる手紙が12頁に転載されており、《酔っ払いや乱暴を働く人間もおらず、平穏で幸せを感じている。到着した時には日本人が3人いた。神奈川県出身の仙太郎が残り、通訳や相談にも乗ってくれて「地獄で仏」に会ったようだ》と書き送っている。 笠戸丸移民の2年前に、〝実験台〟として渡伯した鈴木南樹(鈴木貞次郎)の体験談を書いた『伯国日本移民の草分』(1932年)には、彼がペトロポリスの公使館を最初に訪ねた時に、すでに現地在住日本人として出入りしていた二人が「伯国に於ける日本人の元祖」として紹介されている。 一人はやはりハワイ移民の転住者の「秋葉じいさん」だ。《ハワイから英国船に乗ってサントスに上陸し、転々として遂にペトロポリスに来た。つい先頃迄公使館の料理人をして居たのであるが、その頃は頭の上にお菓子箱を載せて、チャルメラのような音をたてる笛を吹きながら、大道を売って歩いて居た》(PDF版、16頁)。これが1906年の話だ。 さらに《秋葉さんははっきりと自分の歳も知らない…

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