Yuri Brockett

東京での大使館勤務後、夫の大学院留学のため、家族で渡米。ニューヨークでは子育ての傍ら大学で日本語を教え、その後移ったシアトルではデザインの勉強。建築事務所勤務を経て現在に至る。子どもの本、建築、かご、文房具、台所用品、旅、手仕事、時をへて良くなるもの・おいしくなるもの…の世界に惹かれる。ワシントン州ベルビュー市在住。

2015年2月 更新

war ja

おばあさんの手紙 ~日系人強制収容所での子どもと本~

第二章「集合所」という強制収容所: 1942年春から秋にかけて (4)

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4. 「集合所」と外の世界をつなぐ

鉄条網に囲まれた中で生活していても、外の世界があると実感できれば、将来への希望を紡げます。ブリードが本や手紙を送り続けたのも、二世の若者が集合所内の学校や図書館の仕事を志したのも、先生姉妹が「サラミと学校を運び続けた」のも、今まで新聞社の掃除をまかされていた高校生を新米通信員にしたのも、「集合所」まで訪ねて来て下さった方も、そう、慣れない収容所内の図書館員に励ましと本を届けた司書の方々も、それぞれのやり方で、子どもたちに寄り添い、子どもたちに外の世界があること、子どもたちを信じて待っている人がいることを伝えたかったのかもしれません。

手紙

先日 ...

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おばあさんの手紙 ~日系人強制収容所での子どもと本~

第二章「集合所」という強制収容所: 1942年春から秋にかけて (3)

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2. 自分の手の届くところから、できることから

子どものまわりの大人たちは、気がついた所から、必要がある所から、どんどん自分でできることを始めます。こんな環境でも、できるだけ住みやすくしようと自発的に動き始める様子には、一世、二世の不屈の、そして前向きのエネルギーが感じられます。時は春。自然のリズムとも呼応します。図書館設立もこのように始まったのですが、その話はもう少し後で。ここでは、雨の多いピュアラップでの例を二つ。 

ジム・アクツは食堂の仕事をしていました。ある日、お皿に残ったパンを包んでいる人に気づき ...

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おばあさんの手紙 ~日系人強制収容所での子どもと本~

第二章「集合所」という強制収容所: 1942年春から秋にかけて (2)

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ぶつける批判

高校生ともなると、学校で教わった、人権を守る憲法とは、あまりにも違う政府のやり方に批判をぶつけることもありました。次は、ブリードさんの子どもたちの一人、アイコ・クボの兄、高校3年生のカイゾウが残したものです。

ぼくの世界は眼の前で砕け落ちた。有刺鉄線で囲われた目的地に一歩足を踏み入れた瞬間から、心に違和感を覚えた。この瞬間まで保っていた空威張りは、魂が抜けたように消えていた。ちっぽけな自分、一人ぼっちの自分という感情が突然襲った。投獄されたという実感が湧いてきた。

遠方の冷ややかで暗い監視塔の輪郭は、ぼくを脅かし、かかって来いと言う。その醜い巨大さと ...

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おばあさんの手紙 ~日系人強制収容所での子どもと本~

第二章「集合所」という強制収容所: 1942年春から秋にかけて (1)

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…… 集合所の暮しがどうなるか明確なことはわかりません、ましてやその後に行く所については。でも、わたしたちは国際家畜展示場を改造したポートランド・キャンプに入所する4,000人のオレゴン日系人のなかの一人になります。(収容所内では)できる仕事も限られているので、多くの人が退屈にただ時間を過ごすことになりそうです。こんなに込み合った環境での親の一番の心配は、子どもたちのことです。どうすれば子どもたちを有害な影響から守れるか、どうすれば子どもたちを創造的で建設的な生活に導けるか……1

これは、仮収容所に入る直前に、アンドリュー・クロダが友達にあてた手紙です。日系人たちにとって、一番気にかかったのは、やはり子どもたちのことでした。コートの襟の折り返しの所と持ち物に ...

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おばあさんの手紙 ~日系人強制収容所での子どもと本~

第一章 立ち退きまで (4)

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4. 立ち退き令 <1942年春> 

いよいよ、西海岸に定められた軍事地域からの日系人の撤退が始まります。自主的に軍事地域から移動した家族もいましたが、11万人以上の大移動です。恒久的な内陸部の収容所建設が間に合わず、臨時の「集合所」へと旅立ちました。立ち退きは、軍事にもっとも差し障りのある地域から始まりました。

近くに海軍基地のあるベインブリッジ島には、3月24日、いち早く立ち退き令が貼られました。ベインブリッジ島はシアトルから西へフェリーで30分の所にあり、当時約250名の日系人が主に農業や漁業にたずさわって暮らしていました。持って行けるものは自分で持てるだけのもの。寝具、洗面用品、衣服 ...

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