ディスカバー・ニッケイ

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ブロケット ゆり

(Yuri Brockett )

@yuri_brockett

東京での大使館勤務後、夫の大学院留学のため、家族で渡米。ニューヨークでは子育ての傍ら大学で日本語を教え、その後移ったシアトルではデザインの勉強。建築事務所勤務を経て現在に至る。子どもの本、建築、かご、文房具、台所用品、旅、手仕事、時をへて良くなるもの・おいしくなるもの…の世界に惹かれる。ワシントン州ベルビュー市在住。

2015年2月 更新


この執筆者によるストーリー

おばあさんの手紙 ~日系人強制収容所での子どもと本~
第五章 戦後の新たな出発:1945年以降(6)

2015年8月10日 • ブロケット ゆり

第5章(5)を読む >> 4. 子どもにとっての痛み 収容体験が子どもにあたえた影響は、一人一人異なりますが、年齢、それまでの生活環境、サポートグループの有無、親の精神的安定度等によって大きく違ってくるようです。日系アメリカ人であることだけで、収容所にいれられたわけですから、日系であることを恥じたり、日系であることに罪の意識をもつことになりました。 しかし、幼少期を収容所で過ごした多くの人は「楽しかった」、「一日中野球をしていて楽しかった」と言います。親が子どもを守っ…

おばあさんの手紙 ~日系人強制収容所での子どもと本~
第五章 戦後の新たな出発:1945年以降(5)

2015年8月3日 • ブロケット ゆり

第5章(4)を読む >> 公聴会———1981年 7月から12月にかけてアメリカ各地で開催された公聴会が、シアトルにやって来た時のことです。その頃、マコ・ナカガワの父親は、自らの米寿の祝いに誰を招待するかで頭が一杯だったのですが、この公聴会で証言することは大事なことだと考えて、娘と一緒に参加しました。 父は耳が遠くなっていたので、二人で合図を決めました。ポン、ポン、ポンと父の肩を軽く3回叩くと、「始めて、お父さん。何でも好きな事…

おばあさんの手紙 ~日系人強制収容所での子どもと本~
第五章 戦後の新たな出発:1945年以降(4)

2015年7月27日 • ブロケット ゆり

第五章(3)を読む >> 3. 沈黙をやぶって———賠償運動   <1970年代から1980年代 > 60年代のアフリカ系アメリカ人の公民権運動とマイノリティ(少数派民族)運動に力を得た日系の若い二世、三世も、大学にアジア研究学部を創設し、アジア系や女性の教官を増やすようにと声をあげはじめます。トパーズ収容所では赤ちゃんだったカシマも、この頃にはゴードン・ヒラバヤシの弟のジムとデモの先頭に立っていたと言…

おばあさんの手紙 ~日系人強制収容所での子どもと本~
第五章 戦後の新たな出発:1945年以降(3)

2015年7月20日 • ブロケット ゆり

第五章(2)を読む >> 2. 閉じた記憶をひもとき始めて <1960年後半から> 『マンザナールよ さらば』———ジャンヌ・ワカツキ 「ねぇ、おばさん、僕マンザナーってところで産まれたんだけど、どんなところだったの?」と、唐突に甥っ子に聞かれたの。実家の家族以外の者から聞いたはじめての「マンザナー」だった。そこでキャンプのこと、すごい砂嵐、まずい食事、どんな遊びをしてたか……を話している…

おばあさんの手紙 ~日系人強制収容所での子どもと本~
第五章 戦後の新たな出発:1945年以降(2)

2015年7月13日 • ブロケット ゆり

第五章(1)を読む >> もう一つの戦い  数々の手柄をたてたシロー・カシノたち第100歩兵大隊1を含む第442連隊戦闘部隊を前にして、1946年7月15日、トルーマン大統領は、ホワイトハウスの庭で「諸君は敵と戦っただけでなく、人種差別とも戦かった。そして勝ったのだ」と語りました。第442連隊戦闘部隊はその活動期間と規模からして、アメリカ陸軍史上でもっとも多くの勲章を受けた部隊です。 しかし、これだけの活躍をして帰って来た第442連隊戦闘部隊の兵士たちにたいしても、一…

おばあさんの手紙 ~日系人強制収容所での子どもと本~
第五章 戦後の新たな出発:1945年以降(1)

2015年7月6日 • ブロケット ゆり

第四章(6)を読む >> そうです。青木祥子さんが前号(「子どもと本」第136号)の表紙に書かれたように、収容所を出た日系人は、長い間、負った傷をだれにも話さずに来ました。日系人には何の落ち度もなかったのですが、収容所に入れられたことで、何か自分たちに落ち度があったのかも知れないとの恥や罪の思い。話すことによって、心の底に埋めた怒りや痛みが吹き出してくることへの不安。済んだことは済んだこと、しかたがなかったとの諦め。子どもに食べさせるだけで精一杯で、他のことは考えられなか…

おばあさんの手紙 ~日系人強制収容所での子どもと本~
第四章 荒野の強制収容所:1942年から1946年にかけて — 後編(6)

2015年6月29日 • ブロケット ゆり

第四章(5)を読む >> 3. 1945年 キャンセルになった対抗試合———早春 1年中砂嵐は止まず、雪もちらつく早春のマンザナーですが、高校の男子バスケットボールチームは近くの町のビショップ高校との親善試合に備えて熱気にあふれていました。何しろ初めて相手校に出向いて行く試合でしたから、みんなの気合いも相当なものです。西部防衛司令部の外出許可もとり、チームが出発するという2、3時間前に、ビショップ教育委員会は急に試合をキャンセルして…

おばあさんの手紙 ~日系人強制収容所での子どもと本~
第四章 荒野の強制収容所:1942年から1946年にかけて — 後編(5)

2015年6月22日 • ブロケット ゆり

第四章(4)を読む >> 2. 1944年 交換船で日本からの慰問品届く———早春 日米間の捕虜の交換船で懐かしい祖国の薫りが届きました。日本での「敵国在留同胞救援資金募集」で集まった資金で調達した物資が、赤十字経由で届いたのです。1 第一次交換船では緑茶が、第二次交換船では緑茶、味噌、醤油、薬品、娯楽品、書籍が届いています。シアトルの日本語学校の先生をしていたミニドカ収容所の吉武とみかの日記から—&mda…

おばあさんの手紙 ~日系人強制収容所での子どもと本~
第四章 荒野の強制収容所:1942年から1946年にかけて — 後編(4)

2015年6月15日 • ブロケット ゆり

第四章(3)を読む >> 子どもの日常———夏  高校生ぐらいになると、野球、バスケットボール、ダンスパーティと組織的な娯楽が多くありましたが、ローティーンの組織的活動は限られていて、グループで収容所内をぶらついていて、問題を起こすことが多かったようです。そこで、管理局はボーイスカウト、ガールスカウトの活動を導入したり、少年を集めてタクル・フットボールチームを作ったりしています。ハートマウンテン収容所で少年時代を過ごした13歳のベーコ…

おばあさんの手紙 ~日系人強制収容所での子どもと本~
第四章 荒野の強制収容所:1942年から1946年にかけて — 後編(3)

2015年6月8日 • ブロケット ゆり

第四章(2)を読む >> 出立のとき 27番目と28番目の質問に「イエス、イエス」と答え忠誠と認められた人々は、入隊、または仕事、学業で早く収容所を出て、アメリカ中西部や東部の町に移るよう奨励されました。学業半ばで立ち退きにあった二世の学生を大学に戻す手助けをするために、クエーカー教徒のアメリカン・フレンズ・サービス委員会が後押しをして、全国日系アメリカ人学生転住協議会をつくり、すぐに仕事にとりかかり、4,000人以上の学生を軍事制限地区以外にある6,000以上の大学へ…

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