Yuri Brockett

東京での大使館勤務後、夫の大学院留学のため、家族で渡米。ニューヨークでは子育ての傍ら大学で日本語を教え、その後移ったシアトルではデザインの勉強。建築事務所勤務を経て現在に至る。子どもの本、建築、かご、文房具、台所用品、旅、手仕事、時をへて良くなるもの・おいしくなるもの…の世界に惹かれる。ワシントン州ベルビュー市在住。

2015年2月 更新

war ja

おばあさんの手紙 ~日系人強制収容所での子どもと本~

第三章 荒野の強制収容所:1942年から1946年にかけて — 前編(3)

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学校のない九月———

アメリカの学校の1年は6月に終わり、約3ヶ月にも及ぶ長い夏休みをはさんで、9月から新しいスタートを切ります。9月、夏の間に大きくなった背丈に見合う新しい洋服とノートや鉛筆を用意してもらい、久しぶりに友だちと再会するのは楽しみです。しかし、1942年の9月は、強制収容所に移ったばかりの日系の子どもたちにとっては勝手が違いました。シアトルで通っていたガーフィールド高校のウィルス先生にあてたマサオの手紙から。

親愛なるウィルス先生、

今、僕は何もすることがなく、ミニドカ転住所の中にいます。仕事をしようと思ったのですが、面接係官に高校を卒業するまで待つように言われました。学校といえば、ほんの3ヶ月前には、夏休みにはいるのを心待ちにしていた学生達を、先生がまた教えられるのは素敵なことですね ...

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おばあさんの手紙 ~日系人強制収容所での子どもと本~

第三章 荒野の強制収容所:1942年から1946年にかけて — 前編(2)

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収容所内新聞から見るコミュニティ図書館

各収容所では当初ガリ版刷で新聞が発行され、WRAからの通達からコミュニティ・ニュースまでを、各家庭に届ける重要な役割を担っていました。WRAは、この新聞にも、原稿をまとめた時点で、ロウ原紙に鉄筆かタイプライターで書き上げた時点で、そして、印刷した時点でと、3回も入念な検閲を課していました。マンザナーにあったのは、マンザナー・フリー・プレスという名前の新聞でしたが、ある被収容者は「なにがフリー・プレスだ。フリーなのは新聞が無料だってことだけで、言論の自由なんてないじゃないか」と憤慨しています ...

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おばあさんの手紙 ~日系人強制収容所での子どもと本~

第三章 荒野の強制収容所:1942年から1946年にかけて — 前編(1)

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またもや受け入れ準備不完全なまま、陸軍は「集合所」から人里はなれた内陸部にある「転住所」に日系人を移動させることを決行。ピュアラップ仮収容所から、普段使われていない古い車両で、2日間、窓のシェードを下ろしたまま、硬い座席に座って煤だらけになり、ようやくミニドカについた日系人を迎えたのは、見渡す限りの砂漠と砂嵐。1

それと、1942年9月10日付けキャンプ内新聞、ミニドカ・イリゲーター創刊号に掲載されたこの言葉でした。

我々がここにいるのは自らの意志によってではない。しかし抵抗によって、ここにいるという事実を変えることも、戦勝するまでい続けるであろうという可能性を消すことも ...

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おばあさんの手紙 ~日系人強制収容所での子どもと本~

第二章「集合所」という強制収容所: 1942年春から秋にかけて (6)

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5. 図書館設立にむけて

各収容所で図書館をつくる動きがはじまります。ピュアラップ仮収容所の図書館設立に関わったマーガレット・ババ・ヤスダは当時十七歳でしたが、その過程を「草の根運動、ボランティア活動、(なんにもしないで)キャンプで腐っちゃうより何かしなきゃ、とみんなが考えた結果」と言います。タンフォランとポートランドの仮収容所図書館の場合をメアリー・オギがライブラリー・ジャーナル(1943年5月1日号)に寄稿した記事とツボイ姉妹のレポートに沿って設立当時の様子を追ってみます。


タンフォラン仮収容所図書館2

仮収容所に入って最初の数日は ...

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おばあさんの手紙 ~日系人強制収容所での子どもと本~

第二章「集合所」という強制収容所: 1942年春から秋にかけて (5)

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訪問者

ある日、高校生のフランク・ヤマサキのバラックに、メッセンジャーがやってきて、外部からお客様だと伝えます。ピュアラップは、この日は雨じゃなかったようですね。

誰かなぁ……と、心当たりを色々考えながら行ってみると、クイーン・アン高校の先生でした。でも、その先生とはそんなに親しくなかったので、ちょっとびっくりしました。握手をして歩きはじめたのですが、先生はとても静かでした。しばらくして、「どこか座って話せる所がある?」ときかれたので、特別観覧席に案内しました ...

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