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孤独な望郷 ~ フロリダ日系移民森上助次の手紙から

第37回 地獄の門一つ手前で助かる

古いトラクターを運転し、パイナップル畑に向かう助次(© 撮影・提供: Akira Suwa [諏訪徹])

南フロリダの大和コロニーの一員として渡米、コロニー解体後もひとり最後まで現地にとどまり生涯を終えた森上助次は、戦後、夫(助次の弟)をなくした義理の妹一家にあてて手紙を書きつづける。土地寄付の記事が新聞に出たため、アメリカ国内だけでなく日本からも含めて百通近くの手紙が来たが、そのほとんどが「金の無心だ」と呆れる。体が自由に動かないといいながらもトラクターに乗ることもあるようだが、あるとき溝にはまって転倒し投げ出された。「地獄の門一つ手前で助かった」という。

* * * * *

〈もう本は送るな〉

1975年1月

玲さん(姪)、お手紙や本を沢山ありがとう。この本は新刊だろう、読んだあとがない。殆どが自己批判だ。私には何の興味もない。読書は唯一の慰め。費用の点もあるから、注文以外のものは送ってくれるな。

「陽気」も「人間医学」も「農業および園芸」も一時中止してくれ。毎号ほとんど同じような記事だ。日本も同じと思うが、こちらは徐々に不景気が深刻になりつつある。インフレで支出は増え、収入は減る一方だ。

私の気分は別に変りはない。同じことを繰り返している。今日は足が立たぬ。次の日は手が動かぬ始末だ。どうにもならぬ。苦しむより外ない。闘病、はや五ヶ年になった。これも運命だろう。明子(姪)が男児出産とか。何より目出たく、善一さんがケガされたとか。私も足をケガして走ると痛む。だがまだ一寸、死にそうにない。

注文した種子は既に発送されたとか。何とかして蒔きつけたい。昨今、寒さが続く、私にはなにより禁物だ。昨日の東京の気温午後9時で41度(℃)。こちらは70度(約21℃)だった。


〈アリゾナへ移住しないかと勧められる〉

1975年2月5日

美さん(義妹)、玲子さん、御無沙汰しました。

別に書く事ないのです。お互い泣き言も飽いた。人の悪口でもいわないと書く事がない。こちらは不景気で労働者は大なやみ、一時の好景気に浮かれて宵越しの金を持たないというのは天罰です。

前便で話したかも知れんが最近、老一世が死んだ。私より一つ年下、独身で大金持ち、自己本位で友達一人なく、死んだあと二、三日は知られなかった。あおい顔して痩せこけ栄養不足の様だった。ケチでカー一つ持たず、古いガタガタピックアップに乗っていた。

巨万の富を誰にもやらず、死んでも天国に持っていけず、思い悩んだまま遺言書も書かず死んで行った。私とは気が合わず近くに住んでいて、十年近くも逢わなかった。今夜は是丈。

2月5日12時過ぎの午後、気分すぐれず。何もする気にもならず、休んで居る。色々沢山、本うけ取った。ずっと前、注文した「物語アイヌの暮らし」、「梅花一輪」、「立春の光」、「野の若竹」がまだ来ないが。 

アリゾナ州フェニックス市在住の米人と結婚した日本婦人がアリゾナへ来いという。移住すれば私の病気はよくなることうけあいとの事。年中雨のないカンソー(乾燥)地、冬の朝夕はかなり寒いが、夏は暑く百度以上に上るとの事。ブドーとキャンタロープの名産地、日系の成功者が多い。如何したらいいか、老齢の身、思い迷っている。

別に書く事がない。お互いインフレや不景気で大変だ。マンゴーの実が親指位になった。パイナップルは今、花盛り。遠からず食べられる。


〈土地寄付の記事で百通近くの手紙〉

1975年3月18日

玲さん、お手紙ありがとう。本は先日皆着いた。これで暫く楽しめる。何時も人生は与えたり貰ったりで、お返しを当ての親切は真の親切ではない。自己本位の世の中、うかうか人の好意も受けられん。お返しの出来んときは困る。

土地寄付の記事が新聞に出た為、全国や日本から百通近く手紙が来た。真に喜んでくれたのは10通にも満たぬ。殆どが金のムシン(無心)だ。あきれた。今後は私の許可なしで書かぬよう新聞社に依頼した。

あんた達のように真の信仰に生きている人達は別だが、神をだしにして食っている者が少なくない。「陽気」等の記事を見てつくつく感じた。

こちらははや夏模様だ。日中、風のないときはかなり暑いが、夜は至って涼しい。時には毛布も要る。

食欲は別に変らないが、玄米は止めた。健康のため何もかも犠牲に供しては生きる甲斐もない。もっとも私は煙系もあわぬし酒ものまぬ(好きだがやめた)。これという楽しみは読書の外ない。旅行は好きだが、歩行不如意ではどうにもならぬ。今のままでは富士登山、南米横断も夢になる。

私は相変わらず夢を見る。以前は死んだ人ばかりだったが、種切れになったのか、今は生きている人達を見出した。70年前のこの月、私は京都に居た。一ヵ月程居た。金がなかった為、京極は一度、素通りしただけだった。ヤキイモの味と貸本の楽しみはまだ忘れぬ。


〈あてになるのは自分自身だけ〉

1975年3月26日

玲さん、前便で本の注文を忘れた。左記を送ってくれ。

大地の母第一部
       ④ 霊山の秘    出口和明著
大地の母第二部
       ⑤ 狭霧の海    出口和明著
       ⑥ 天雷の声    出口和明著
       ⑦ 火水の戦    出口和明著
       ⑧ 怒涛の響き   出口和明著
  第三部
       ⑨ 丹波の曙    出口和明著
       ⑩ 天下の秋    出口和明著
       ⑪ 東雲の風    出口和明著
       ⑫ 永久の道    出口和明著

昨今、気候が好い為、手足がずっとよくなった。このままでいけば、秋の雨期までには全快するかもしれません。食欲は上々、何でも食べるが、玄米だけはご免だ。不遠、パイナップル、バナナやアボカト、木苺等、熟する。野菜類は近所から貰えるし、自らも作れる。

一般に不景気で家や土地はとんと売れないが、税金は上がる一方で、見込み買いした連中は青息吐息。破産だ。少し頭のよい者は予期した。何もおどろく事はない。良かったあとは悪いに決まっている。宵越しの金をもたない連中には覿面(てきめん)だ。自己本位の世の中、神様が何と言われようと、当てになるのは自分自身だけだ。苦しいときの神頼み、お蔭のあるなしはお賽銭次第だ。今日も暑い。70年前の京都の3月は涼しかった。


〈トラクター事故で下敷きに〉

1975年5月12日

玲さん、近くに住む友人の奥さんがガンと初めて聞いて驚いた。一年近くもたつがすこしもよくならない。50歳未満で三男一女の母、今は夫君がオフィス勤務を止めて家事をしている。教養もありクリスチャンとして信仰もある。今は運命とあきらめ朗らかに日々を送っている。

二年前、私は親友の一人をガンで亡くしました。医者に見はなされたら万事休すだ。米治(助次の弟)は天理に助けられ全快した。こうした話はよく本や雑誌で見る。医者も薬も役立たぬ人は神に生きるより外ない。精神療法に頼る外ない。

友人と天理教のことを話したら本人も家族も大喜び。一、二年、奈良の教会でお世話になったら、よくなるかも知れん。問い合わせてくれとの事になった。滞在費の点は心配なく、兎に角、英文での天理教のことを書いてあるものを一冊、至急航空便で送ってくれ。道友社なら英文天理教教典と天理教稿本、天理教教祖伝を発行している。

こちらは真夏だ。風がないのでやけつくように暑い。夜はずっと涼しい。稀なカンパツ(旱魃)で作物は不作。暑さとドライに強いパイナップルさえみすぼらしい有様だ。最近食料品が少し値下がりした。いつ跳ね返るか分からぬ。

明子(姪)の子供は天真爛漫、全く天使の様だ。数日前、トラクター事故にあった。回転して、転覆して深いドブ溝に落ち込んだ。私は下敷きになったが、幸い泥が深かったので這い上がった。

近所にはあいにく誰も居ない。這うようにして半哩近くの家にたどりつき、タウンへ電話をかけた。引き揚げ機が来た。しかし、大きな重いトラクターなのでビクともしない。他の一台も呼んでやっと引き揚げた。三時間近くかかった。私は地獄の門、一つ手前で泥の為、助かった。今こうして生きて居るのが不思議に思われる。玲さん、人間、すべて運命だ。人力では何も出来ぬ。


1975年5月28日

玲さん、変わりはないか。長い事、便りはなく、本も雑誌も来ぬ。多分前金切れの為だと思う。送付は一時中止し、不足額知らしてくれ。長い事、迷惑かけた。感謝する。

先達て、みよさんから長い手紙が来た。昨年の暮れから全身不随だという。近いうちに返事すると伝えてくれ。

(敬称略)

続く >>

 

© 2020 Ryusuke Kawai

farmer florida issei Sukeji Morikami yamato colony

About this series

20世紀初頭、フロリダ州南部に出現した日本人村大和コロニー。一農民として、また開拓者として、京都市の宮津から入植した森上助次(ジョージ・モリカミ)は、現在フロリダ州にある「モリカミ博物館・日本庭園」の基礎をつくった人物である。戦前にコロニーが解体、消滅したのちも現地に留まり、戦争を経てたったひとり農業をつづけた。最後は膨大な土地を寄付し地元にその名を残した彼は、生涯独身で日本に帰ることもなかったが、望郷の念のは人一倍で日本へ手紙を書きつづけた。なかでも亡き弟の妻や娘たち岡本一家とは頻繁に文通をした。会ったことはなかったが家族のように接し、現地の様子や思いを届けた。彼が残した手紙から、一世の記録として、その生涯と孤独な望郷の念をたどる。