インタビュー:マイク・シノダ

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Linkin Parkの主要メンバー、マイケル・ケンジ・シノダはカリフォルニア州ロサンゼルスの郊外にあるアゴーラヒルズで日系アメリカ人の父と白人の母親の元に生まれ育ちました。

このアルバムでは、2006年1月16日に行われたインタビューからの8つのクリップを紹介します。(略歴を含む)

1. 初めての作曲

2. ペーパーナプキンに描いた絵

3. ロサンゼルスで見つめる自己アイデンティティ

4. 日本への親近感

5. 日系人収容所に対する家族の見識

6. 音楽で表現する政治的メッセージ

7. アーティストとしての役割

8. 一般人の良きモデルとして

* このインタビューは、ディスカバーニッケイのインタビューセクションへもアップされています。

Slides in this album 

初めての作曲

楽器を弾くという意味で私が初めて音楽に触れたのは、まだとても小さい時、確か3歳か4歳くらいだったと思います。母が私をピアノ教室に 通わせた時です。子供向けのヤマハピアノ教室のようなところで、ピアノを初めて習う色々な年代の子供たちを10人から15人集めたグループレッスンでし た。鍵盤に指を正しく置く方法、座り方など基本的なことを教わりましたよ。だけどうまく言ってなかったんだと思います。確か途中で教室が閉鎖されてしまっ たんです。閉鎖になる時、先生が「(これからも)ピアノを教え続けるので、よかったら個人レッスンをしますよ。」と言ったので、弟と一緒にその先生の(個 人)レッスンを受けるようになったんです。あれは12歳の頃だったかな。初めて応募した作曲コンクールで優勝したんですよ。しかも生まれて初めて書いた曲 だったんです。小さなコンクールでしたけど、その先生のもとで応募したのです。優勝したときはとても誇りに思いましたね。他の応募した子たちは5歳も年上 で、しかもこのコンクールのために何度か作曲したことがあったんです。これは私にとって非常に大きな出来事で、「僕にだって曲が書けるんだ。曲作りってす ごく楽しい!」そう思いました。

Mike Shinoda Interview #1: First experience writing music
提供: editor

ペーパーナプキンに描いた絵

絵を描き始めたのは丁度ピアノを始めたころか、それより少し前だったかもしれません。外食にいくと、よく両親は私にペンとナプキンを持たせていたんです。基本的に私を大人しくさせるためでした。ペンと描くものを持たせておけばいいって気づいたんです。私はまだ小さかったので、みんなより早くに食べ終わってしまい、両親が座っている間も落ち着きなくあちこち引っかきまわしたり、すぐウロウロしたがったんです。でもペンと描くものを持たせておけば、とたんに大人しくなって両親も問題なく夕食を済ませることが出来たんです。実用的な理由からでしたが、私が絵を好きなことに両親も気づいていたようですね。ペンさえ持っていれば、ずっと絵を描いていましたから。

Mike Shinoda Interview #2: Drawing on paper napkins
提供: editor

ロサンゼルスで見つめる自己アイデンティティ

自己アイデンティティ、特に人種のアイデンティティへの問いかけは、ロサンゼルスの若者達の間では常にあります。特にロスという場所は多様性があ りますからね。私は[San Fernand] Valleyの学校に通っていましたが、色々な子供たちがいましたよ。本当に色々な(バックグラウンドの)人がいましたね。特にWoodland Hills地域の学校に通っていた時は、友達はみな違うバックグランド、人種、宗教だったんです。だから、若い人なら誰でも考えるように「自分はどこに入 り、どこに所属するのか?」という切実な疑問を抱くようになりました。ある時期では、誰もそんな違いを気にせずに、単に同じ場所にいて気が合うというだけ で友達になりますが、ある時期になると、他の人に対して自己のアイデンティティを意識するようになるんですよね。私のように自分のルーツに多くの人種が ミックスされていると・・・父は日本人、母は白人系アメリカ人ですが、祖先をさかのぼると多くの人が初期のアメリカ入植者に家系をたどることができるんで す。2面性があって面白いことだと思うんです。片方はものすごく白人的なのにもう片方は日本人であり、日系人なんですよね。日本人と日系アメリカ人もまた 違いますから。年をとるたびに何故かそんなことを意識し始めるのです。

Mike Shinoda Interview #3: Contemplating identity in Los Angeles
提供: editor

日本への親近感

初めて日本に行ったのは、Linkin Parkのツアーの時でした。自分のルーツに戻り、自分の原点に触れられたことが、ある意味とても興味深く楽しい経験でした。このツアーで一番印象に残った不思議なことは、はっきりとした理由もなく、なんとなく(日本に)親しみを感じたことです。例えば人の身振りや話し方。日本語が話せないので、みんなが何を話しているのかはわかりませんでしたが、自分の家族のせいか、ちょっとした事がなんとなく身近に感じたのです。別に何か特にこれといったものや、明らかなものがあったわけではないんですけど、微妙な何かを感じたのです。ですからこのツアーは、私に何かを考えさせるきっかけになったと感じています。私はハーフで日本語は話せませんが、それでも、ある種の親近感を個人的に感じたんです。「うん、この場所のどこかに少しつながりがある。何か通じるものがある。」といった感じでね。

Mike Shinoda Interview #4: Connecting to Japan
提供: editor

日系人収容所に対する家族の見識

収容所に関しては、父がかなり昔に話をしてくれました。随分小さい頃だったと思います。父からその話を聞いた時は、余りよく理解できなかったのを覚えています。その概念を完全に理解するには小さすぎましたし、その頃は他の事に興味がありましたから。少し大きくなってから学校の歴史の教科書などで、収容所に関することを見るようになりました。真珠湾攻撃の写真が半分ぐらいを占めていて、それがどれだけひどいことだったかに重点を置くばかりで、収容所に関してはほとんど載ってなかったんです。

そのとき「おかしいなぁ。お父さんが今まで話してくれたことについてあまり触れないなんて変だ。何故なんだろう?」と感じたのを覚えています。その理由を突き止めるため、念密な研究を行ったわけではありませんが、徐々に自分なりに情報収集するようになり、折に触れては親戚の人達に質問をするようになりました。しかし不思議なことに誰もその話しをしたがらず、収容所での経験に関することになると、あいまいな答えしか返してくれないので凄く気になりましたね。みんなが「仕方がない」という態度をとるのです。当時はそう考えた方が都合が良かったのかもしれません。しかし今の私としては、その考えには同意できないと言いますか・・・私たちの世代には余り為にならないと思います。自分より年上の親戚や高齢者が「仕方がない」といった考えから少し離れてくれればと願っています。そうなれば私たち(若者)も彼らの話から学ぶことが出来るからです。

Fort Minorというニューアルバムを制作していた時、ソロのプロジェクトだったので、自分自身の経験に重点をおいたうえ、創造性と合わせて作品を作ろうと心がけたんです。私はプロデュース、ミキシング、歌詞を全曲自分で手がけますが、Fort Minorでは自分の個人的なものを取り入れたいと思いました。そこで収容所の話題を少し取り入れることにし、13人兄弟姉妹の-13人全員が健在というわけではありませんが-下から2番目の父や、長女である伯母にインタビューをしました。彼らが収容所にいれられた1940年代当時、父は3歳、伯母は20歳代と年が離れていたので、2通りの見方を得ることができ、収容所で何が起きたかについて深い見識が得られたと思います。

Mike Shinoda Interview #5: Insights from family on Japanese American internment
提供: editor

音楽で表現する政治的メッセージ

学生のころは、Public Enemyの音楽が大好きでした。このグループは常に政治色が濃く、人々が口にしない問題を好んで取り上げてました。例えば911(緊急電話番号)の対応時間の遅さ(人種によって対応時間が違う)についての批判や、ある時・場所で起きた政界内での人種差別などです。こうした問題を常に歌に取り込んでいく彼らをみて、「なんてかっこいいんだろう!この種のものはもう余りヒップポップにはなくなったな」と思いました。ある意味ロックにもそれはなくなっていました。そこで、もう少し政治的なメッセージを自分の曲に含めることができたらと考え、歴史的事実と個人的なものが合わせた形で何か創りたいと考えてたんです。そうしてできたのが「Kenji 」です。私は収容所の話を語るのに十分な情報を持っていましたし、たとえ十分でなかったとしても、さらに情報をくれる人がいましたから。多くの人達はただ単に収容所の話を知らないだけなので、知ってもらうためには自分ができることは、これだと思ったんです。

Mike Shinoda Interview #6: Politics in music
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アーティストとしての役割

アーティストとしての私の役割は、常に変化していますね。というのも、私がひとつのところに留まるタイプではなく、同じ事を何度も繰り返すことに満足できないからです。常に新しい世界で、新しいものに挑戦したいんです。創造活動をする人の多くは、常に純粋な創造的アイディアというのを追い続けていると思うんです。「100%オリジナルで、100%自分のものをついに創り上げた!」と言えるようにね。それを実現できるよう、日々努力しているんです。その一方、芸術的な不満足感という感覚がつきまとうんです。自分に厳しく、完璧主義なので、自分達のしていることを吟味し、もう少し上手くできないだろうかと常に考えてますから。

基本的に、私は歌やアートを楽しんで創っています。時には、ばかげたことをやってみたいとか、人を喜ばせたり、楽しませたり…楽しい時間を過ごすためにね。しかし時には、他の人々に自分自身や世界を考えてもらうえるよう、そのきっかけとなるものを創りたいと思うときもあります。アートというのはそういうものではないでしょうか。(自分の作品を通して)自分の感情を表現したい、すなわち感情吐露のようなもので、その一方、他の人達にも何か感じてもらい、感情的に何かを示してもらいたいんです。私の考えられる限りの言葉で自分の感情を表現することで、「そう感じるのはあなただけじゃない!」と共感してもらい、共有できる何かを感じたいのです。

Mike Shinoda Interview #7: Role as an artist
提供: editor

一般人の良きモデルとして

Linkin Parkとしては、現在ここまでこられたことをとても幸運に思いますし、今やっていることで食べていけること自体、恵まれていると感じています。ある時点で、2、3年前だったと思いますが、私たちもやっと一人前になった、つまり他の人からもちゃんとした目で見られるようになった、と感じました。良きモデルと言われたり・・・呼び方自体はどうでもかまいませんが・・・そう言われるようになってもう少し意味のあることに目を向けるべきでないか、と考えるようになったんです。自分の事しか考えないやりたい放題のロック・スターでは、全く意味がないですから。社会にでてみんなに模範を示していかなくてはと考えたのです。

そこで私とメンバーは慈善事業に参加するようになったんです。アルバムFort Minorのヘッドラインツアーでは、メンバーのひとりひとりが、6回行ったライブの1回分の報酬を、それぞれが自分達の好きなように慈善事業に使いました。各メンバーは同額の報酬を得るのですが、それをユナイテッド・ウェイや赤十字、あるいはDenshoや全米日系人博物館のような団体など、様々なところに寄付をしました。私は、(母校の)Art Center College of Designで奨学金を立ち上げ、他のメンバーはUCLAなどで奨学金を立ち上げました。

Mike Shinoda Interview #8: Being a good example for people
提供: editor

プロフィール:マイク・シノダ

マイケル・ケンジ・シノダはカリフォルニア州ロサンゼルスの郊外にあるアゴーラヒルズで日系アメリカ人の父と白人の母親の元に生まれ育ちました。3歳の時、ピアノを習い始めたのが音楽との出会いです。高校、大学時代は、友達とともにXeroという名のバンドを組んでいましたが、同じ名前のバンドが既に存在していたため、バンド名をHybrid Theoryと変更。最終的にLinkin Parkの名前に落ち着きました。2000年には最初のアルバムをリリース。以来、Linkin Parkの活躍は目覚しく、2002年には「Crawling」でグラミー賞最優秀ハードロックパフォーマンスを受賞、2006年にはJay-Zとのコラボレーション「Numb/Encore」でもグラミー賞(最優秀ラップ/ ソング・コラボレーション賞)を受賞しました。

2005年、シノダはFort Minorのプロジェクトをたちあげ、初のソロアルバム『The Rising Tied』をリリースしました。これは自ら作曲・プロデュースしたヒップホップのアルバムです。このデビューアルバムの中にある「Kenji」は全米日系人博物館を訪れたのをきっかけに作った曲です。第2次大戦中に収容所経験のある親戚から話を聞き、父親と叔母のインタビューの一部を歌に組み入れています。

また、カリフォルニア州パサデナにあるArt Center College of Designで学んだ彼は、音楽のキャリアのほかに、視覚芸術の分野でも活躍しています。Linkin Parkの出版物やウェブサイトのデザインなども手がけており、Linkin ParkやFort Minorのアルバムカバーのデザインも彼の作によるものです。

このように多くのプロジェクトを手がけているにもかかわらず、慈善事業にも多数参加しています。母校のArt Center College of Designで奨学金を立ち上げ、さらにはユナイテッド・ウェイ、Denshō 、Make-A-Wish Foundation、全米日系人博物館のような団体もサポートしています。2005年に行われた、ロサンゼルスでの二世ウィーク祭のパレードにも参加。2006年には、彼のアメリカ文化へのクリエイティブな貢献に対し、全米日系人博物館から賞を受賞しています

(2006年10月19日 更新)

Mike Shinoda
提供: editor

Album Type

Video interview

editor — 更新日 6月 28 2021 1:49 a.m.


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