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草の根「9066ミーティング」

アキミ・チングさんとご主人のクリフォードさん

米大学フットボールの祭典「ローズボール」で有名なロサンゼルス郊外パサデナ市に住むアキミ・チングさん(76)宅で先ごろ、草の根「9066ミーティング」が開かれた。チンさんは、中国系3世と結婚した日系3世だ。内科医の頃は仕事と子育てに専念していたので、「活動家」でも何でもなかった。ところが近年、「第2次世界大戦中の日系人強制収容の歴史を後世に伝えなくてはならない」という切迫した気持ちを持つようになっていた。そこで開いたのが「9066ミーティング」だ。

「もう時間がない」という緊急性を感じたのには理由がある。この2,3年の間に、パサデナ・コミュニティー・カレッジで長年洋裁を教えてもらった2世のメアリー・ウチヤマさん(享年92歳)や12歳年上の実兄カズオさんが相次いで他界して、「第2次世界大戦中の日系人強制収容を体験した世代が次々とこの世を去っていくことを実感した」からだ。チングさんの両親は、強制収容所時代のことを一切語らなかったし、自分は強制収容所で生まれたから、当時の様子を覚えていない。だから、体験者とか当時を研究している人たちに、強制収容時代の状況を当時を知らない人たちのために伝承してもらいたいのだ。

「イスラム教徒やユダヤ教徒、また、移民の人たちのためににも、米国史の汚点である日系人強制収容のような誤りを二度と繰り返してはならない」とチングさんは断言する。これまで、日系人の強制収容に関する教育的なイベントやプログラムは、JANMや大学など大きな団体や組織が主導してきた。チングさんは、自分の家族や友人に気軽に集まってもらい、身近な場所で学んでもらいたいと願った。集まったのは、チングさんのいとこ、洋裁とスペイン語のクラスメートなど20人ほど。日系人だけでなく、白人、ヒスパニック、英国人などチングさんの交友の広さを表している。

チングさんは1943年、アリゾナ州のヒラ・リバー強制収容所で生まれた。戦後、家族で加州北部にあるアカンポという小さな町へ移った。父親のいとこが梨園を営んでいて、そこで働く労働者のまとめ役を頼まれたからだ。その後、ロサンゼルスから北へ車で一時間半ほどの高級住宅地サンタバーバラに隣接するカーピンテリアへ引っ越し、チングさんは子女教育で有名な「モンテシト女学院(Montecito School for Girls、現Casa Dorinda)」で学んだ。名門カリフォルニア大学バークレイ校卒業後、同アーバイン校メディカルスクールの第一期生。100名の入学生のうち、女子は10名。その一人に選ばれた。同校卒業後は、内科医として退職するまでカイザー・パーマネンテに勤めた。

チングさんの両親、カズオ・オキノさんとヒデコさんは戦前、サンタモニカでも人気のフルーツ・スタンドを経営しとても繁盛していた。1920-30年代にハリウッドで名声を博したピーター・ロアも得意客の一人だった。「『株価が大暴落して大恐慌が始まった時、母はロアの小切手をまだ手元に持ってた』って母が言ってたわ。後の祭りよね」とチングさんは悲哀のある微笑みを浮かべた。

ヒラ・リバーへ強制収容された時、チングさんの家族はすべてを失ったが、七転び八起きの精神を持つ両親は戦後、加州へ戻り、また一から生活の基盤を作り始めた。「父が学校の用務員になったから、妹と私はモンテシト女学院へ入学できたのよ。」

チングさんが数日間かけて準備してくれた夕食を楽しんだ後、「9066ミーティング」が始まった。「9066ミーティング」の名前は勿論、日系人の強制収容を可能にしたルーズベルト大統領の「大統領命令9066」から名付けた。この日は、JANMでファシリテーターとしてボランティアをしている友人のマービン・イノウエ氏が講演者。同氏がまず、第二次世界大戦が勃発した直後の1942年、米西海岸に住んでいた日本からの移民1世と米国籍の2世約12万人が、マンザナやクリスタル・シティーなど人里離れた砂漠地に建設された施設10か所へ強制的に収容されたことを説明。クリスタル・シティー強制収容所には、イノウエ氏の両親と祖父母も収容されていた。同氏がそもそも、日系人強制収容の歴史を研究しようと思い立った理由は、チングさんと同様、イノウエ氏の両親も祖父母もそれについて何も話さなかったからだ。

イノウエ氏は、米国内での日系人強制収容の歴史を調べる過程で、第二次世界大戦中に南米に住んでいた日系人も米国へ連行され強制収容されたことを知った。オンラインのデンショー百科辞典(Densho Encyclopedia)によると、当時、約1,800名の日系ペルー人が米国へ強制収容された。「その日系ペルー人たちは戦後、ペルーが受け入れを拒否したため母国へ帰還できず、受け入れを承諾した日本へ移り住んだんだ」とイノウエ氏が説明すると、あちこちで驚きのため息が聞こえた。

イノウエ氏の解説が終わると、チングさんの提案で、参加者ひとりひとりが自己紹介と参加理由を述べた。米中西部出身という20代の女性は、日系人の強制収容について学校では全く勉強しなかったという。一方、英国出身の年配女性は、「70年代にイギリスでは既に、大学で勉強した」と語る。「UCLAでもその頃からやっと、日系人の強制収容について勉強するようになったわ」とイノウエ氏の妻、ドナ・ミトマさんが同調。しかし、参加者のほとんどは、ペルーはもとより、米国の日系人強制収容について学生時代に学ばなかったという。4世の男性も、「家族から強制収容についてほとんど聞いたことがない」と話す。

出席者の中だたった一人、強制収容を体験したのが、チングさんの従兄、ジョージ・スギモトさん(93歳)だ。チングさんの従兄だ。「アキミが収容所で生まれた時、僕は17歳だったよ」と優しく笑う。スギモトさんも、強制収容について余り深く話したくないようだ。「収容の大統領命令が出て余り時間がなかったなぁ。そそくさと荷造りして(北カリフォルニア)サン・ワキン・バレーの自宅を出て、ヒラ強制収容所へ向かった」とだけ話す。辛酸をなめたとか、米政府に対する怒りというような否定的な感情は見えない。根っから楽天的で、同時に人一倍の働き者だから、現在も現役だ。ほとんど毎日、通勤している。航空業界で財を成し、ロサンゼルスの日系社会では有名な慈善家だ。

知人や身近な人がある史実に関わっていると、その歴史的な事件が一層緊迫感を持って迫ってくるし、その史実の重要性を実感を持って会得できる。草の根「9066ミーティング」は、そんな機会を与えてくれるようだ。大きな組織が大会場で著名な講演者を迎え、大衆を相手に開く集会も大切だ。一方、家の近くで開かれ、気軽に参加できる小さな会合も同様に必要だ。

チングさんが、志を同じくする人がこの「9066ミーティング」を続けてくれることを願っていた矢先、イノウエさん夫妻が手を挙げた。幼少の頃から「第二の母」と思っている黒人のバーバラ・ウィリアズさん(93歳)が、「私の体験を今、話しておきたい」と言ってきたからだ。ウィリアムズさんは、キンダーガーテン時代からイノウエさんの親友であるマーカスさんの母。「黒人の目から見た強制収容」と題して、ポットラックランチを挟んで「9066ミーティング」を開くことにした。JETプログラムで2年半前から日本で英語補助教員をしている双子の息子、リキオとマコトが休暇でロスへ帰ってくる週末を選び、友人や近所の人たち35名ほどが集まった。その中には、半年前にロサンゼルスへ着任したばかりの在ロサンゼルス日本国総領事館の武藤顕総領事、三佐子夫人とお嬢さまの紗穂理さんの姿もあった。

イノウエ宅での草の根「9066ミーティング」の様子

ウィリアムズさんは、ロサンゼルスのダウンタウン西側に位置するデイトン・ハイツ、別名J-フラッツで生まれた。ミシシッピー州出身で黒人だが奴隷でなかった曾祖父とボストン生まれの白人の曾祖母がロサンゼルスへ引っ越してきたので、4代目のカリフォルニアンだ。「J-フラッツでは、右隣も左隣りも日系人。カキバさんとホシザカさんの間に自宅があった」という。「人種なんて関係なく、普通の近所付き合いをしていたわ。美味しい料理を作ったらお隣さんにお裾分けしたり、してもらったり。うちでも池に鯉を飼っていたわ。隣の家に遊びに行ったり、来てもらったり。だから母は私に『あなたも日本語学校へ通ったら』と言ったくらいよ」と話す。

「近所の人が皆、サンタ・アニータ集合所へ連れて行かれた時のことは、よく覚えてるわ。母はその朝、何時間もかけてビスケットや卵焼きやコーヒーを『最後の朝食に』と言って作ったのよ。それからも後も、チキン・パイやアップルパイを作って、サンタ・アニータまで持っていって差し入れしてたわ」と言う。

サンタ・アニータは元々競馬場で、日系人たちは、最終目的地であるワイオミング州ハートマウンテン強制収容所へ向かうまで、馬小屋で寝起きしなければならなかった。ウィリアムズさんがそのことを思い出し、感極まって、言葉を失っていると、中年の小柄な日系人女性が手を挙げた。「私の祖父母に代わって、ウィリアムズさんのご両親に心から『ありがとう!』とお礼を申し上げたいです。私はウィリアムズさんの隣に住んでいた『カキバ』の孫です。」ウィリアムズさんだけでなく、参加者全員が驚いて目を丸くした。「あなたのご両親は、私の祖父母が大切にしていた着物や三味線や日本人形などが入ったトランクを第二次世界大戦中ずっと大事に保管しておいてくれました」というジョアン・カキバ・アサオさんの説明に、目頭を押さえる参加者が多い。日系人を裏切らず、約束を守ってくれた白人らの美談を書物やJANMの展示で見たり聞いたことがある人は多い。実際に助けてもらった人と助けた人の親族から、その話を目の前で直に聞ける機会はそうそうない。そんな機会を与えてくれるのも、草の根「9066ミーティング」の利点だ。

ウィリアムズさんのミニ講演が終わるや否や、武藤総領事夫妻がウィリアムズさんのところへ駆け寄った。「素晴らしいお話をありがとう。」総領事は、日本国外務省発行の生け花のカレンダーをウィリアムズさんに贈りながら礼を言った。三佐子夫人も米日系人の歴史に大変興味を持ち丁度、「サウスランド(”Southland”)」(Nina Revoyr著)を読んでいるところで、「家族で、本当に良いお話を伺えました」と感想を述べていた。

イノウエ宅での記念写真(写っているのは、前列右から武藤顕総領事、ウィリアムズさん、ウィリアムズさんの姪キウィ・バーチさん。後列が、右から三佐子総領事夫人、ドナ・ミトマさん、マービン・イノウエさん、ジョアン・カキバ・アサオさん)

ニューヨークを中心にCOVID-19感染が急増する中で、不安やヒステリアが中国系アメリカ人のみならず日系人を含むアジア系米国人やアジアからの移民に対し、偏見や差別がおこらないためにも、第二次世界大戦中に日系人強制収容の苦い経験は積極的に語り継がれなければならない。

 

© 2020 Makiko Nakasone

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