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孤独な望郷 ~ フロリダ日系移民森上助次の手紙から

第31回 日本は戦争には負けたが……

助次が日本に送った絵葉書から フロリダのかんきつ類の 収穫の様子。color photo by H.W. Hannau とある。

南フロリダの大和コロニーの一員として渡米、コロニー解体後もひとり最後まで現地にとどまり生涯を終えた森上助次は、戦後、夫(助次の弟)をなくした義理の妹一家にあてて手紙を書きつづける。1972年の1月、グアム島で確認された旧日本軍の軍人、横井庄一のことを知り思いを寄せる。アメリカのヒッピー文化について触れ、若い男性が髪を伸ばし女性のようになっているのに目を見張り、相変わらず日本から野菜の種を送ってもらい畑仕事に精を出す。

* * * * * 

〈注文していた柿の木が日本から届く〉   

1972年1月5日

美さん(義妹)、玲さん(姪)、

お手紙ありがとう。色々心配かけてすまぬ。この冬はまれな暖かさで夏のようだ。足の具合もずっとよく痛みも少し薄らいだ。胃潰瘍も全快、何でも食べられるようになった。

奈良(の明子=姪)から手紙が来た。両人ともベビーで張り切っている。新興宗教の本で天理教(※義妹の家では天理教を信奉している)の内容を委しく知った。いままで誤解していた。

教会兼用の大きな家を建ててあげたいが、今の処、不可能だ。美さん、あんたの歳がいくつか知らんが、とうに引退をされてもいい頃と思う。郊外の静かなところに隠居所を建ててあげたいと思うが、事情にうとい私は何もわからんので明子に相談した。

今日は今年も早や5日。京都の正月の賑わいも少しは薄らいだ事と思う。こちらは正月は名ばかりでほとんど祝わない。百姓は忙しい時なので皆、働く。気候がよいので作物は上出来、相場もかなりだ。

注文してあった日本柿50本が元日に着いた。準備が出来てなかったので、鉢に植え替えした。自家用の野菜も蒔いた。大部分が試作用の新種だ。

気分のよい時は畑に出る。夜は疲れてよく眠る。今年ははどんな年だろうか。悪いように考えると悪いようにしかならぬ。最善を尽くして天命を待つよりない。私は気分の好い時は何もかもやる。洗濯もするし散髪もやる。床屋へ行くと、ブーブーチョキチョキ、2、3分で2弗75セント取られる。混んでいるときは半時間も一時間も待たされる。馬鹿馬鹿しいので止めた。

この頃の若い男はヒッピーとかで髪やあごひげを伸ばす。床屋はあがったりと思ったら如何して如何して、普通より手入れがいるので大繁盛。一回5弗以上との事だ。

送って下さった物、何もまだ着かぬ。もう着く頃だ。楽しみに待っている。私にはかけがえのない友の一人が死んだ。私を兄のように慕い、私も妹のように心から愛した。一ヵ月ばかり前ガンに斃れた。私は初めて泣いた。この段、委しく話す。


〈日の丸が見えると血が湧く〉

1972年1月13日

美さん、小包を落手。珍しい品で早速賞味。ありがとう。玲子からベビーの写真が来た。中々愛らしい。私が百になる頃には美しい娘さんだ。こちらは相変わらずで、海岸は大賑わいだ。

蒔いた野菜がきれいに生えた。3月頃には食べられる。気候かそれとも薬の為か、足の具合が少し良い。痛みも薄らいだ。今のところ、全治は望めんが、跛(びっこ= 片方の足に故障があること)でもいい、歩きたい。

今、アメリカでも数百万の人が悩んでいる。私はまだ軽い方で、ひどくなると全く歩けない。ガンのように死なんので却って厄介だ。天気予報では2月は寒いらしい。気分の好い時は畑に出る。それでも無理するとすぐこたえる。

注文したレッドシダー(※日本の檜の一種)の苗木五千本が来た。五英町の土地に植え付ける。数年後には六、七呎の立派なクリスマス・トゥリーになる。今の日本は冬でも野菜や果物は豊富だと思う。私が京都に居た頃はグリーンハウスもなく、親指大の茄子が一個20セントもした。

近くの港へ日本の大汽船が出入りする。鉄くず等を積み込んで行くが、数ヵ月後には立派な自動車や建築材料となって戻ってくる。日本は戦争には負けたが、勝った国を圧倒しつつある。十年後が思いやられる。豪い国民だ。風にはためく日の丸の旗が見えると、血が湧く。

今、この国は自動車の競争が甚だしい。内国製、外国製、特に日本製は圧倒的だ。今、私が使っているのは独逸製だが、あまり好かん。とおからず日本のトヨタか、ダットサンにかえようと思っている。足が不自由で歩行が困難でもカーのドライブにはさしつかえぬ。


〈暖冬で、海岸は大賑わいだ〉

1972年1月18日

明ちゃん、手紙と写真ありがとう。ベビーは思ったよりずっと可愛いし、お母さんから珍しい物が沢山来た。日本からものは何でも嬉しい。あんたはよいお母さんがあって幸せだ。母は二人とない。大切に。私は別に変りはない。よく食べるしよく寝る。気候はよし、気分のよい時は畑に出る。

この冬は稀な暖かさで、トーリスト(旅行者)は大喜びで海岸は大賑わいだ。市内もハイウェイもカーと人間の洪水で、足の弱い者など危険なので出られない。

近くの港には日の丸掲げた日本の船が絶えず出入りする。鉄屑を満載して行くが、立派な自動車や建築材料に変わって帰ってくる。日本は戦争には負けたが今は勝った国を圧倒している。

私は日本の野菜が好きだが、ここでは得られない。自ら作るより外ないが、なかなかできない。先日蒔いた日本の球葱がよく生えた。新種(4種)の試作だが、4月ごろにならんと結果はわからない。

今、欲しいのは紫蘇と小型の栗南瓜だ。極、新鮮な種子があったら少し送ってくれまいか。シソ、中サジで2、3ばいと南瓜10粒で沢山だ。普通便では遅くなるようなら航空便で頼む。極、丈夫な状袋なら安全だ。

マンゴーや大抵の熱帯の果物は豊富だ。今日本でも年中、何でもできると思う。ない物は南洋から来る。尤も値は少し張ると思うが、今、京都は寒く、宮津はあたたかいという。一寸不思議な天候だ。天気予報では2月はずっと寒く、州の北半分は雨が多いが、南部はドライとの事だ。

この頃の若い男は殆ど、カミやアゴヒゲをのばす。中には男か女か分からないものもいる。先日も運転免許証のライセンスの書き替えに行った。期日がせまっていた為に大変な人混みだった。五十人計り一列になっていた。私の二、三人前に年頃の娘がいた。金髪碧眼、人目を引く美貌である。振り返った際、私を見て、ニッコリ、ハローと言った。私は不思議に思い、よく見ると知人の息子のジョンではないか。「なんだ。君か。ユー・フールド・シー」と言った。また話が脱線した。書けばつきんが、今日は是で止めよう。

今、朝の6時過ぎだが、少し冷える。ヒーターの側で書いた。


〈66年前、京都の思い出〉

1972年3月×日

明ちゃん、手紙と種子受け取った。種子は直ぐ蒔いたが、まだ生えぬ。好きな南瓜を不遠、食べられる。年取ると食べ物が何よりのたのしみだ。

66年前の今月、私は京都に居た。費用がキリキリだったので京極も一度素通りしただけで何一つ見なかった。京極の突き当りに焼き芋屋があった。二銭も出すと食べきれぬ程、買えた。嵐山の近くの川で、きれいな娘さんたちが、素足で盥に水を張って野菜を洗っていた。親指位の茄子が一つ廿銭(20銭)もした。


〈横井さんのようにジャングルへ逃げ込みたい〉

1972年2月7日

玲さん、お手紙ありがとう。「中心」(天理教系の雑誌)もうけ取った。暇に任せて読んでいる。お母さん卒倒、吃驚した。すぐ直って安心した。私も昨年より左腕が急に動かなくなり親指、人差し指がはれ上がって夜昼なしでズキズキ痛み、箸もスプーンも持てなくなった。痛みは少し和らいだが、肝心の畑仕事は全然できぬ。

家の事について相談したが、お母さんからも明子からも返事がなかった。あんたの手紙から察すると何かと都合が悪いらしい。遺言書は急ぐので家の事はかかぬ事にした。物事には機会がある。是を逸するとなる事も成らぬ。人生は短い、取り越し苦労など馬鹿の骨頂だ。

昨年の暮れに蒔いた廿日大根がやっとできた。早速大根おろしにしてご飯を炊いて賞味した。味噌がないのが物足らん。身体は半身不随だが、食欲は盛んで何でもうまい。ただ、クック(料理)が面倒なので、缶詰で過ごす日も多い。

ここ一週間ばかり冬らしい天候で二、三日前、40度(約4.4℃)近くまで下がった。横井さん(注)の事は新聞で見た。帰国の事は何も聞かぬ。世の中がだんだんうるさくなり、横井さんでなくとも、どこかのジャングルに逃げ込みたい気分になる。

最近、フィリッピンのジャングルで石器時代のくらしをする土人が見付かった。現代の生活が果たして幸福か、疑問である。別に書く事もないので是で止める。今日、久し振りに商用で往復50哩ほど走った、ドライブした。ハイウエイーの混雑で時々ヒヤヒヤさせられた。さようなら。

(注)横井庄一さん。 元日本兵。太平洋戦争終結から28年目、 アメリカ合衆国領グアム島で地元民に発見された。


〈今、フロリダは建築ブーム〉

1972年2月14日

美さん、お気分は如何、誰しも丈夫な時ほど無理をする。私も若い頃、随分無理をした。今も祟りで苦しんで居る。私の健康は相変わらずでよくなったり悪くなったり、天候次第だ。

ここ二、三日寒い。今、朝の5時前、ヒーターの側でこの手紙書いている。空はよく晴れて風一つない。さて家の事だが、あんたの決心がつくまでは何一つ出来ぬし、物価騰貴で金があり土地があっても住宅一軒建てるのは容易でない。また、何をするにも一々許可を得なければならぬ。

急いだりあせったりしてはならぬ。今、フロリダは建築ブームで住宅がドンドン建っている。二、三人住まいの屋敷は用水、下水、電気、完備で最低一万五千弗位だ。しかし家具は付いてない。私は日本の現状は少しも知らぬ。

建築に関した新法があったら二、三冊、参考に送って下さい。今日は寒いようだが好天気。終日苗木の植え付けで忙しい。この次、宮津へお出かけの節、市役所で杉山の委しい地図を貰って送って頂きたい。

杉山といってもご存じないと思ふが、宮津の今福の上から普甲峠へのところ、広大な地域だ。この山に私はあこがれを持っていた。私は今も変わりはない。今は国有か、市有か私有か知れん。一部分でも植林出来ぬかと思う。これは私の夢であり、希望である。私は老いたが、今からでも遅くない。実現されれば宮津の一大資源になる。宮津は風光明媚だが、小さな天橋立だけではだめだ。人間のしこう(嗜好)も変わった。

(敬称略)

続く >>

 

© 2020 Ryusuke Kawai

family florida issei Sukeji Morikami yamato colony

このシリーズについて

20世紀初頭、フロリダ州南部に出現した日本人村大和コロニー。一農民として、また開拓者として、京都市の宮津から入植した森上助次(ジョージ・モリカミ)は、現在フロリダ州にある「モリカミ博物館・日本庭園」の基礎をつくった人物である。戦前にコロニーが解体、消滅したのちも現地に留まり、戦争を経てたったひとり農業をつづけた。最後は膨大な土地を寄付し地元にその名を残した彼は、生涯独身で日本に帰ることもなかったが、望郷の念のは人一倍で日本へ手紙を書きつづけた。なかでも亡き弟の妻や娘たち岡本一家とは頻繁に文通をした。会ったことはなかったが家族のように接し、現地の様子や思いを届けた。彼が残した手紙から、一世の記録として、その生涯と孤独な望郷の念をたどる。

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