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孤独な望郷 ~ フロリダ日系移民森上助次の手紙から

第30回 弟も死にとうとう一人に 

Morikami Museum & Japanese Gardens に展示された森上助次の写真

南フロリダの大和コロニーの一員として渡米、コロニー解体後もひとり最後まで現地にとどまり生涯を終えた森上助次は、戦後、夫(助次の弟)をなくした義理の妹一家にあてて手紙を書きつづける。1970年は天候不順で作物は大きな影響をえたという。呼び寄せる予定だった姪の渡米ははっきりしなくなり、弟が死んだという知らせを受ける。すでに他界している妹のことも思い、とうとう自分が最後になってしまったと肩を落とす。

* * * * *

1970年6月4日

美さん(義妹)、先日、本5冊(同一のもの)を出版所から直接に送りました。着き次第、樋口氏、宮津市、宮津高校、宮津市青年会へ一部ずつ配布して下さい。残りの一冊はあんた方、読んで下さい。

私の近況は先日、玲子へ委しく書きましたからここでは申しません。孤独で病むほど惨めなものはない。日ごろの心構えの甲斐もなく悲観に陥るのです。


〈弟の死、心残りが〉

1970年7月3日

美さん、お手紙落手。政兵エ(弟)の死は意外でした。先月の中頃政兵エ危篤の報に接しましたが、度々の事であり余り気にもかけませんでした。彼の遺族からはまだ何の通知もありません。筆子(妹)の時のように来ないかもしれません。政兵エとはことあるごとに相反したとはいえ、世で只一人の肉親、一度逢いたいとは思いながらついに、ここまでになったのが心残りです。

生きるとは必ず一度は死ぬこと。永遠の眠りである。善きも悪しきも帳消しである。病んで苦しみ、廻りの人達へ迷惑をかけるより、心置きなく旅路に立った方が幸福ではなかろうか。私もいよいよ最後の一人となった。何時か順番が回って来る。仕事は山ほどあるが、死は天命、どうすることも出来ぬ。

年のせいか、寒さも暑さも人一倍こたえる。雨が多いので植えた苗木は太る。三年後の事を思うとそんな苦しみも忘れてしまう。気分は少しも変わりませんが、食欲はずっとよくなりました。この頃は猫も杓子もベケーションで大騒ぎです。私にはこれという行く先はない。暇さえあれば寝転んで居る。是が何より楽しみです。京都も賑やかになったでしょう。毎月の宮津行きはあんたにはなによりの楽しみになると思います。さようなら。


〈1ベッドのトレーラーハウス暮らし〉

1970年7月27日

玲さん(姪)、15日付の手紙、うけ取った。書類無しで旅券が下付になる。一寸意外だ。あんたは準備出来たが、こちらはまだ家も建たぬ。今居る家は1ベッドルームのトレーラー。男同志か、夫婦者にはいいが、オジ、メイには狭すぎる。

承知のように建築ブームで人手不足、材料払底、物価高騰で、田舎で家一軒建てるのは面倒で容易でない。市内ではアパートがドンドン建って行き、買う事も借りる事も即座に出来るが、中々多々高くつく。

都会住まいはご免だ。先日もスナイダーさん(友人)が来ての話だが、いままで田舎で土地を買い家を建て独りで住んでいた。家を売りに出したら家は売れたが土地の値上がりで(新しい家は)買えず、売った家は明けねばならず、やむなくアパートに移ったという。二つのベッドルーム付きで一ヵ月200弗、諸雑費がかかるので250弗になる。今は新聞社の方は止め、ある大雑誌社の通信係りをしている。

あんたが来れば私は迎えにいく。手足不自由な上、地理に暗い。私のドライヴは危険なので、スナイダーさんに行ってもらう事になっている。初めて逢うあんたが吃驚するだろうと思ったので、あの様な事を書いた。皆本当だ。いま暫く待つより外ない。

旅券を得た今急ぐことはない。英語の勉強でもするのもよし。幹男(甥)、明子(姪)という二人の先生も側に居る。要はあんたの努力次第だ。なにより一言でも多く話す事だ。

ユスラ梅(宮津地方ではユスランメと呼ばれている)の種子ありがとう。好い種子、早速蒔く。うまく生えればいいが、一寸心配でもある。前の2回は一本も生えなかった。

私は相変わらずだ。身体がだるく、何もする気になれん。無理に始めても直ぐ疲れる。医者は多年無理した祟りで心身共に疲れ切っているという。心配事がなにより悪い。静養するより外ないという。

先日も地租の事でタウン(街中)へ行った。弁護士に調べて貰ったが、一寸した手遅れの為、1750弗余計に払わねばならぬとの事だった。友人の宅に立ち寄った。生憎留守だったので、疲れているし庭の樹蔭の寝台で眠り、起こされたのは夜の9時近くだった。

○○さんが初めて政兵エの死去を知らせて来た。写真では思ったよりずっと老けて見える。心配した為だろう。どんな事があったか知らぬが、気の毒な立場だ。すぐ里へ帰った方がよかったかと思う。

あんたの最近の消息は如何か。得手な裁縫でもやって居るのか。まさか家のお梅どん役ではあるまい。明子は如何か。よくなって宮津へ帰ったと思う。

樋口さんから手紙が来た。本のお礼と政兵エの悔みだ。また時々は郷愁にかられ引き揚げようと思う事もある。故郷にいるころ、夏になると釣り好きの私はよく出かけた。コチ、ハゼなどがよく獲れた。今はどうか。終戦直後、(天橋立近く)文殊の出鼻と須津崎の辺りまで・・・、一本松の辺まで埋立を計画した事もあった。今は夢である。


〈住宅の事が予定通り行かぬ〉

1970年9月16日

美さん、お手紙ありがとう。私の現状や健康状態は先達て玲子へ委しく書き送った通りで別に変りはありません。住宅の事が予定通り行かぬので誤解を避ける為に事実をありのまま述べて諒解を求めた。しかし結果は失敗、一片の返事さえなかった。今は私の考えも変わった。余命、長からぬ身、詰まらぬことをクヨクヨするのでなく、何事も成り行きにまかせることにした。

政兵エの跡始末も円満に行き何より喜ばしい。あんたも父の遺産を貰えてよかった。筆子は滝馬の家を貰い、残り全部は政兵エの借財の返済などに。私は何一つ貰わなかった。父母は一生、まじめに働いてやっと食っていた。……憐れな生涯であった。

当地はなお台風期間、すでに数回の来襲も幸いまぬかれたが、まだ2ヵ月もあるので少しの油断も出来ぬ。昨今連日の夕立で植え付けた果樹は太り始めた。

人間誰でも欠点がある。何年経っても文通だけでは中々見つからぬ。人情はだんだん薄らぎ、万事自己本位の世の中、物事を頼まれても都合の良い間はちやほやされるが、少しでも面倒になってくるとろくに返事もせぬ。さようなら。


〈果樹の手入れで多忙〉

1971年4月8日

美さん、写真とお手紙有難う。明子はいくつか知らんがきれいになった。日本服(和服)もよく似合う。明子からも手紙と写真が来た。単に一片の儀礼に過ぎないが、相談はあったが、結婚の通知はなかった。あんたの手紙で初めて知ったが、なお住所は知らず。写真で見る幹男は随分大きくなったようだ。チビなあんた達の間にはさまって四角張って居るとまったく大関のようだ。

当方別に変りなく手足が不自由で、大分馴れたが寒気と湿気がこたえる。こちらもまだ寒い。4月というのに昼間70度(21℃)、夜間50度(10℃)内外。寒がり屋の私は、夜は電気毛布にくるまって寝る。

今年も昨年に劣らぬ天候不順で霜は降る、氷は張る。そのうえ希有の旱魃で病虫発生の為、野菜類はほとんど全滅。品払底の為、途方もない値上がり。トマト、茄子、胡瓜、唐辛子、豆類等、店で買うと一斤25セントから50セント位。肉類も高値で上物1斤1弗から1弗50セント位。

最も安いチキンでも30セント内外だ。私は果樹の手入れや植付け、整地等で多忙を極めている。好く眠り、好く食べる。何を食べてもおいしいが、クチはうるさい。時には缶詰で過ごす。何年経っても飯の味は忘れられぬ。特に夏の食欲のない時にはお茶漬けにこす物はない。

常用の漬物類は手製。茶は印度産。日本茶は、香りは好いがしぶみが足らぬ。世の中ますます複雑になって来た。人間が利己一辺で少しもあてにならぬ。口先ばかりで誠意がない。今日もまた寒い。今、朝の8時前だが、空は晴れて北風がビユービユー吹いている。パイナップルの除草が遅れているので昨日、新しい除草機を買った。人手は一時程払底してないが、横着になって以前のように働かぬ。書けば切りがないから今度は是で止める。さようなら。

65年前の今朝、横浜を出帆した。さみだれの降る寒い朝であった。青雲の志を抱いて長途の旅、波乱の一生、思いは感慨無量である。玲子が送ってくれたユスラ梅の種子は一本も生えなかった。芽も切らなかったのだ。


〈鼠に足の親指をかじられた〉

1971年5月15日

美さん、度々お手紙ありがとう。多忙と疲労で書く気になれん。五月に入ってようやく夏らしくなった。昼間90度、夜間70度内外。今日は5月15日。私の一生の一大記念日。65年前、当地に着いた。

先日、(明子の嫁ぎ先の)三濱のお父さんから手紙が来た。明子が大変お気に入りのようで何よりだ。一昨日10ヵ月ぶりで大雨があった。大助かりだがまだ足りん。今に嫌というほど降るだろう。

昨年植え付けた30本の日本の柿が見事に太りだした。うまくいけば来年は実がなる。五種の試作で結果がよければもっと植える。秋になると(故郷)滝馬の柿を思いだす。したい事はうんとある。人はこの年でと笑うが、先の短い者にはゆっくりしておれん。

宮津も滝馬も大分変ったようだが、人口が減ったのは一寸意外だ。人口4万の都会で新聞一つないのが不可解だ。北近畿はいい新聞だった。

私の健康は別に変りない。よく食べ、よく眠る。ただ困るのは足が不自由でタウンで街路を横切る事だ。最近お隣が一つ増えた。あのヴァジニヤ・スナイダーさん一家が私の土地に移って来た。夫君ロスは市の建築物確認監査役。ヴァジニヤは相変わらず新聞記者。両人とも大学出、好い人達だ。

猫がいなくなったので、鼠が増えた。今夜も大きな奴が入って来て、足の親指をかじった。人参とでも間違ったんだろう。また雨がシトシト降りだした。今夜は涼しい。近くで鰐の鳴き声がする。おやすみなさい。

(敬称略)

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© 2020 Ryusuke Kawai

family florida issei Sukeji Morikami yamato colony

このシリーズについて

20世紀初頭、フロリダ州南部に出現した日本人村大和コロニー。一農民として、また開拓者として、京都市の宮津から入植した森上助次(ジョージ・モリカミ)は、現在フロリダ州にある「モリカミ博物館・日本庭園」の基礎をつくった人物である。戦前にコロニーが解体、消滅したのちも現地に留まり、戦争を経てたったひとり農業をつづけた。最後は膨大な土地を寄付し地元にその名を残した彼は、生涯独身で日本に帰ることもなかったが、望郷の念のは人一倍で日本へ手紙を書きつづけた。なかでも亡き弟の妻や娘たち岡本一家とは頻繁に文通をした。会ったことはなかったが家族のように接し、現地の様子や思いを届けた。彼が残した手紙から、一世の記録として、その生涯と孤独な望郷の念をたどる。