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「花の都:エスコバール」日本人移住90周年(2019)と自分のルーツ再認識

アルゼンチンの首都ブエノスアイレス市の北部50キロに位置するエスコバールは「花の都」として知られている1。毎年10月には「花祭り」が開催され、国内外からの新しい品種の展示やその品評会、エスコバール日本人会を含む複数の地元団体によるカーネションなどで飾った花車のパレードやミス花祭りコンクールが行われる2。二週間に及ぶこの祭りには全国から(?)数十万人が訪れるため、毎年各商店は待ち遠しく準備を進め、街の大きな事業となっている。また、エスコバールにはコンパクトながらも本格的な日本庭園があり、地元の重要な名所となっている3

花の都エスコバールの花祭り、花車、エスコバール日本庭園50周年記事、地元日本人会のゲートボール・グルプ(父とその仲間、2017年)

エスコバールの花卉栽培は、北海道出身で花卉栽培専門の農業技師だった賀集九平氏が、1929年にこの土地にやってきたのがその始まりといわれている。賀集氏は、1918年に隣国のチリからアンデスを渡ってアルゼンチンに到着した。当初はワイン製造で有名なメンドサに滞在するが、数年後ブエノスアイレス市のベルグラーノ地区で花や観葉植物の店を開店する。花卉栽培のために幾つかの候補地を探していた賀集氏は、エスコバールの土地はあまり低いところがなく土壌も肥沃なので、花卉栽培に一番適しているという結論に至り、エスコバールへやってきた4。地元では誰もが知っている小池氏、久木氏、本田氏、中西氏、渡辺氏らとともに花づくりに専念した。結果、エスコバールはアルゼンチン最大の花卉産業地となったのである。

19世紀末、エスコバールにはすでに鉄道が引かれていた。そのため、花卉栽培者は次第に新鮮な切り花を大きな籠に入れてブエノス市内に汽車で出荷するようになった。1942年、日本人移住者らはイタリア人やポルトガル人移住者と共に花卉業者組合を設立する。戦後出荷量が飛躍的に増えると、花だけを運ぶ運送業者も現れた。賀集氏をはじめとする花卉栽培の日本人先駆者たちは、日本人会や日本語学校、事業組合や研究会、広報機関等を設立してブエノスアイレス郊外の同業者らと交流と連携を図った。

父は結婚後、1961年にブエノスアイレスからエスコバールに転住した。そのきっかけは実は日本で賀集氏の妻静子さんの話を聞いていたからである。1956年ごろ静子さんは神奈川県の農林省農業技術研修所で、若手研修生に海外移住やアルゼンチンの素晴らしさや可能について話をした。当時その研修所で研修を受けていた父は、静子さんの話に魅了された。教員の推薦もあって戦後の外務省海外農業実習生1期生として1957年にブエノスアイレスに移住し、その4年後にエスコバールへやってきた。転住当初は、既に花卉農業をやっていた細川氏や平井氏に助けられ、賀集氏からも様々な指導を受けたという5

私自身も賀集家には、いろいろな形でお世話になっており、賀集家には感謝してもしきれない。中学と高校の間は、九平さんの次女で地理学の先生だったテレサさんから学ぶ機会を得た。日本へ留学生として来日してからは、現在岐阜県に住んでいる九平さんの孫で、弁護士・写真家の賀集イレーネ氏6にお世話になっている。また、九平さんの孫のグスターボは、私の中高等学校の後輩で、今でも交流がある7

イレーネ賀集、高校卒業時の二次会(賀集テレサ校長も参加、1979年)、医師のグスターボ賀集、久木家とひ孫のホセフィーナ(2017年)、サンビセンテ・デポール中高等学校、ベロニカ小池とアブリル小池(JICA研修員)。

私が生まれた1962年には、すでにエスコバールは街としても栄え、140世帯400人ぐらいの日系人が住んでいたとされ、日系社会も発展していた。ベレンクラブ(後の日本人会)という日系団体や日本語学校等もかなり整備されていた。私が小学校に入学した際、クラスメイトの約三分の一は日系人だった。私塾である日本語学校には住み込みの河野先生ご夫妻が毎日国語と漢字を教えてくれた。学芸会や運動会などもあり、小学校の6年間は準バイリンガル教育を受けた8

また当時は、地元社会との交流も増え、我々日系人に対する評価はとても良かった。日系人が地元政界に出馬したという記録はないが、九平さんの長男アンヘル清氏はエスコバール市の様々な役職に就き、国会議員にもなった9。次男で会計士のアルベルト氏は、在京日本大使館の商務参事官職を歴任する。

一方、エスコバールには日本語力の高い日系人が多いということで、1970年代にはブエノスアイレス郊外の鉄道路線電化事業を担っていた日本の商社やメーカーには、エスコバールの日系人が多く採用された10。90年代にはトヨタ工場に就職した日系エンジニアや会計士、技師等が多数存在する11。とはいえ、今ではコミュニティ内の世代は進み、日系諸団体の運営は二世から三世へ移行してきた。また、非日系人との婚姻も多くなっているため、日本語力は低下している。

しかし、近年は留学やJICA研修で来日する三世以降の若い日系人が増えている。JICA横浜で日系研修員の受け入れやブリーフィングに関わっている私は、ときどき地元エスコバールの日系人と会うことがある。知り合いの孫と出会ったこともある。数年前にエスコバール日系社会の先駆者の一人である小池さんの孫と曾孫、久木さんの曾孫に会うことができたのは、この上ない喜びであった。

現在、エスコバール市の人口は5万5千人で、郡を含めると22万人いる。今や首都圏でもかなり大きな自治体となっている。日系社会は、つい最近の聞き取り調査によると、日系人は約300人ぐらいいるというが、それによると一世が50人、二世が144人、三世が149人、四世が84人、五世が3人である12。花や野菜を栽培している日系二世・三世もいるが、今は観葉植物の栽培が多いようだ。

2019年11月エスコバール日本人会の会館で賀集九平さんの到着を記念して日本人移住90周年の祝賀式典が行われた。来賓者を含めこれまでの功労者や多くの日系人が出席したが、この祝賀行事は州や市も公認したものである13。地球の裏側からは、この私はエスコバールを「花の都」にした九平さんとその先駆者たちに敬意を表し、そこで生まれ育ち、多くの仲間に恵まれたことに、改めて感謝したのである。

90周年祝賀会、1950年代の賀集久平さん(提供:イレーネ賀集)、エスコバール日本人の集い、小学校2年生のときの記念写真。

注釈

1. Canio Nicolás Iacouzzi (Rotary Club Escobar), La Fiesta de la Flor, escobarsite, 1983.5.10 
Fiesta de la Flor (公式サイト)

2. 初代花祭りクィーンは日系二世のエステル吉宮という女性がその王冠に輝いた。

3. Ciro Jacuzzi, Un clásico que no pierde su encanto: 50 años del Jardín Japonés de Escobar, El Día de Escobar, 2019.10.08
Qué ver en Escobar (Escobar turismo)

エスコバールの「日本庭園」は東京農大を卒業し1966年にアルゼンチンに移住した猪又康夫氏によってデザイン施工され、1969年10月4日に開園した。2019年の50周年式典には、市長をはじめ州政府の代表、駐アルゼンチンの中前大使と古川領事、ロベルト広瀬花祭り協会会長、そして市から改めて表彰された猪又氏も出席した。この庭園は、地元日系社会がアルゼンチン社会への感謝として市当局に寄贈したものなのでメンテナンスなどは市が行っているが、園内植物などの維持には常に猪又氏をはじめとする日系人の姿が見られるという。
- “El primer Jardín Japonés” (Escobar Web TV)

4. 賀集九平氏は、最終的にはエスコバールが花弁栽培に一番適していると判断し成功しただけではなく、次世代の育成や諸団体の設立にも関わり、日本政府からも叙勲された。1987年、90歳で死去した。

5. アルゼンチン香川県人会編、「大正生まれの青年は語る~ブエノスアイレス市近郊北部在住者男性座談会(3頁~44頁)、『香川県人会創立35周年記念誌』、2005年。

6. イレーネは九平さんの次男アルベルトの娘。

7. グスターボは九平さんの長男アンヘル清の息子。現在アルゼンチン中央陸軍病院のICU棟に勤務しておりコロナ禍に対応している医師の一人である。

8. 賀集九平氏がエスコバールに定住する前、ブエノスアイレスに移住していた日本人の中にはかなりのインテリもいたが、日系子弟に対する日本語教育の必要性について激しい議論があったようだ。九平さんと友人の小松慶也や有水藤太郎氏は日本語教育必要派だった。当時の日本のアジア植民地政策や思想対立は海外の移住先にも影響していた。エスコバールでは、戦前・戦後を問わず子弟の日本語教育を重視してきたので、二世や三世の多くは日本に留学する機会を得、両国間の架け橋になってきたと言える。

出典:睦月規子「秀和初期在亜邦人社会ー『週刊ブエノスアイレス』の世界ー」『ラ米研究年報』Nº29、2009年.

9. 賀集アンヘル清氏は、戦後のペロン政権のもと、大統領府法制局部長、統計局長、国会議員(1955年の軍事クーデターゆえに就任期間は5ヶ月間)、ブエノス州商工会議所監事、国内外企業のコンサルタント等を歴任したが、1985年8月2日、59歳の若さで死去している。

10. 鉄道の電化には丸紅、日立製作所などが参加し、電話電信事業の近代化にはNECが大きな役割を果たした。

11. サラテ・トヨタ工場はエスコバールから北部40キロに位置している。 この工場では年間3万台を輸出しており、8億ドルの外貨収入になっている。23年前(1997年)の設立以来、累計100万台を生産してきた。
- “Toyota alcanzó el millón de unidades exportadas desde su planta de Zárate”, ámbito 2020.8.3.

12. エスコバール日本人移住90周年事業として行われ、2019年9月に実施された調査だが、実際エスコバールに居住しているのは285人である。しかし他の街や国内外に住んでいるものも含めると430人になる。1948年から49年には多数の日本人がパラグアイから転住してきており、そのあと他の隣国や日本からも1970年まで移住がやってきている。1990年には、多くの日系の若者が日本に出稼ぎに行っていることも把握できたという。出所:エスコバール日本人会、責任者の一人であるウンベルト小池氏から情報提供(2020.10.14)

13. 州政府のメディアでも取り上げられている。
Escobar: 90 años de la colectividad japonesa”, Canal Provincial Noticias, 2019.11.22  

Asociación Japonesa de Escobar (Facebook)

 

© 2020 Alberto Matsumoto

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