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南米の日系人、日本のラティーノ日系人

父のアルゼンチンでの64年間 ー その1

アルゼンチン移住初期の写真とエスコバル日本人会での役員職や香川県人会元会長として県庁訪問

これまで中南米と日本の日系人について、この「ディスカバーニッケイ」というこのサイトへ多くの記事を書いてきた。その中には私が生まれ育ったブエノスアイレス郊外にある「花の都:エスコバール」についてや、自分がマルビーナス戦争に従軍したことなど、記録すべきストーリーを綴らせてもらったことには感謝の言葉しかない。しかし、今回でこのシリーズも最後を迎える。最後の記事として、亡き父の「海外移住」という生き様を紹介したい。

父松本毅(つよし)は、戦後外務省海外農業実習生第1号として1957年に22歳で「あめりか丸」でアルゼンチンへ渡った。初めの3年はブエノスアイレス市郊外南東部にあった東江(あがりえ)新一氏の野菜農場で働き、移住前に農林省農業研究所園芸部野菜科で学んだ知識をフルに活用して、当時としはとてもめずらしいクリスマス前出荷のトマト栽培に成功した。経営者の東江氏はその栽培方法を拡大し、かなりの売り上げを得たという。

しかし、当時の父の月給は800ペソ。これはトマト二箱分に相当する額で、父はその成果に見合った分益小作を提案したが残念ながら受け入れられなかった。そのため、独立を決意して私の母になる和子との結婚を機に「花の都エスコバール」(ブエノス市北部50キロ)に転住し、3人の子供をもうけた。

母の和子は、父の妹のクラスメイトだったらしくその縁で1961年にアルゼンチンにやってきたそうだ。我々は3人兄弟だが、僕も弟も未熟児で産まれたので、当初の生活は大変だったと聞いている。しかし、近所の日本人の助けもあり、子供たちはみんな元気に育てることができた。

多くの実習生が語っているように、初期のパトロン(雇い主)の対応によって良いスタートをきったものもいれば、父のようにゼロからのスタートをきったものもいる。父は切り花の栽培にはあまり関心がなかったようだが、同県人の先輩や戦前から花卉栽培で成功していた移住者の支援で土地を借り、温室を建ててカーネション等で生計を立てたのである1

私が幼稚園に上がる前に父はスクーターを購入した。私はスクーターの前の小さなスペースに立ち、母が後ろに座ってよく一緒に出かけたことを覚えている。また小学校に上がると、父は仕事にも役立つ中古のピックアップトラックを買った。私はトラックに乗りたくて、買い物や父の用事に一緒に行きたいと泣きついたものである。

家の近くには、パラグアイから転住してきた日本人が多数おり、互いに助け合っていた。小学校の同級生にも、パラグアイからの転校生がいた。

エスコバールには140世帯500人で構成する日系社会が存在していた。そのおかげで毎日3時間授業の日本語学校があり2、小学校の時から父は保護者会や生産者団体などで精力的に活動し、地元日本人会の幹事も歴任し、その後は香川県人会の会長職も6期務め87歳で他界するまで顧問理事としてその任を全うした。またこの街には日本人向けの老人ホーム「日亜荘」もあり、父はそこの役員職も長年務めた。

こうした役職はすべて無報酬で、父が30代、40代のときは農園が最も忙しく不作の時は経営も厳しかったので、母がとてもぼやいていたことを覚えている。夏休みや冬休みには私も、雇われていたペオン(農業労働者)と同じ時間、農園の仕事を手伝ったものである。日系社会の団体運営に関わっている家庭は、どこもこうした状況だったといえる。

私が小学校3年生の頃、町から9キロ離れたJICA分譲の「ローマベルデ移住地3」に転住した。父は、当初はカーネーション栽培も行っていたが、新しい移住地でバラや菊の栽培に必要な設備投資(ガラス温室と暖房設備)を行い、多額の資金を投入したのである。この時期、アルゼンチンの不安定な経済情勢に振り回せられながらも利益が出ると予想されていたので、多くの花卉栽培業者は拡大路線に走り、父も同じ道を選んだのだ。

しかし、コロンビア産の切り花輸入によって花卉栽培業者は大きな打撃を受けた。そこで父は、母の強い説得もあって、得意分野である野菜栽培に転じ、トマトをはじめその後は5ヘクタールにも及ぶイチゴ栽培に従事した。さらに移住地外の土地も借り、4~5世帯のボリビア人と分益栽培契約をして中央市場や地域のマーケットに大量に出荷したのである。高校生だった私は、休みの日は一緒に荷下ろしを手伝い、その後に市場のレストランで父ととてつもなく大きい牛カツ「ミラネッサ」を食べるのが楽しみだった。

エスコバールには大きなボリビア人コミュニティーが存在するが、これは分益栽培契約をしたボリビア人たちが、次第に親戚を呼ぶようになり、お金を貯めて土地を買うようになったからである。ボリビア人たちは、1980年代から次第に野菜市場を支配するようになり、ブエノスアイレス市の北部と南部にビジネスがしやすい大きな生産者組合を築いた4

80年代の終わりから90年代にかけて、エスコバールからも日本に出稼ぎに行くようになった。それまでの投資に伴う債務超過や競争の激化、経済低迷や若者の高い失業率ゆえに、父の一部の仲間やその子弟が借金を返済するには、その選択しかなかったのである。日本への出稼ぎは大きなチャンスであった。

我が家は幸いにも、イチゴ栽培のおかげで債務返済はほぼ終えていたようで、園の経営も移住地に引っ越してからある程度順調だったといえる。1990年4月に私が国費留学生として来日し、学位取得後日本に残ったことで、「逆日系移住現象」の一端を担うことになった。そして私は、日本で中南米の日系就労者の相談業務等に深く関わったことで、自分のそれまでの体験と知識をプラスにフィードバックすることができたのである。

その2 >>

注釈:

1. 「ブエノスアイレス市郊外北部在住者男性座談会」、『アルゼンチン香川県人会創立35周年記念誌』13~17頁、アルゼンチン香川県人会、2005年。

2. 当時は河野先生夫妻が住み込みで、1年生から6年生を午前・午後に分けて教えていた。その時代に日本語学校で学んだ日系二世の多くは、後に日本の企業や公的機関で勤務するようになる。また、日本への留学や研修にも有利だったとも言える。給食の時間もあり、休み時間を合わせると4時間になり、厳しい規律の中で国語と漢字を勉強した。学芸会や運動会もあり、立派な教育機関であった。

3. 42ヘクタールの土地に15世帯が入植。花卉や観葉植物の栽培に従事した人が多い。1969年にJICAによって設立された。

4. 「第3章:アルゼンチンの多文化共生政策〜隣国移民政策(ボリビア人コミュニティー)からの日本の移民政策を考える」浅香幸枝編『地球時代の多文化共生の諸相〜人が繋ぐ国際関係』行路社、2009年。

 

© 2022 Alberto Matsumoto

Argentine family Issei Migration

このシリーズについて

日本在住日系アルゼンチン人のアルベルト松本氏によるコラム。日本に住む日系人の教育問題、労働状況、習慣、日本語問題。アイテンディティなど、様々な議題について分析、議論。