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アメリカ本土初の日系移民、若松コロニー入植から150周年

番外編: 「おけい」報じた最初の記事

排日運動の最中、北米最初の日本人移民団の存在伝える

今から150年前の1869年(明治2年)、日本からカリフォルニアにやってきた北米最初の移民団はエルドラド郡ゴールドヒルでアメリカ本土初の日本人入植地「若松コロニー」を形成した。このシリーズでも最初に紹介したが、その一員で19歳という若さで亡くなった少女おけいはアメリカ本土の土に眠る最初の日本人女性とされている。今回、彼女の存在を1916年に最初に世に知らせた竹田文治郎(雪城)の記事をここに紹介したいと思う。排日運動の波が吹き荒れる当時の日系社会に、おけいと彼ら以前にいた北米最初の日本人移民団の詳細を伝えた記事である。

入植者たちは茶と絹の生産を試みたが若松コロニーはわずか2年で崩壊。その一員でコロニー崩壊後、現地の家族に引きとられたおけいは17歳で会津若松から渡米し1871年に19歳という若さで亡くなった。数奇な運命をたどった彼女はアメリカ本土の土に眠る最初の日本人女性とされ、その墓は今もゴールドヒルの小高い丘の上にある。

彼女の墓は死後、長く知られることはなかった。訪ねる人の姿もなく、ただ小高い丘の上で故郷会津若松の方角を見つめていた。かつてその場所で彼女がそうしていたように―。

月日は流れ、カリフォルニアにはその後日本から多くの移民がやってきた。だが誰一人としてそこにかつて日本人移民団の入植地があったとは知るよしもなかった。こうして彼女の墓の存在は忘れ去られたかに思われた。

おけいとその墓の存在を世に紹介した竹田文治郎(山本一洋氏著「若松コロニーの跡を尋ねて」より)

しかしその沈黙が破られる時がくる。1916年、当時渡米して間もない新聞記者だった竹田がおけいとその墓の存在を記事にし世に紹介したのだった。同年7月、サクラメントの邦字紙「櫻府日報」の1面に4回にわたって竹田が書いた「おけいさんの墓に詣づるの記」と題した寄書(寄稿)が掲載されたのだ。

竹田が最初におけいのことを書いた記事に関してはすでに羅府新報新年号や英語版紙面でも触れたが、日米新聞の1924年7月12日付には竹田が書いたと思われる記事があり、「自分が『おけい』を覚束ない(おぼつかない)筆ながら世に紹介して以来―」とあり、筆者が8年前に「おけいの墓に詣づるの記」を書き、独立記念日におけいの墓に向かったことなどもつづられていた。

しかし、どの媒体に掲載されたのかは恐らく長く知られていなかった。なぜなら竹田はサンフランシスコに拠点を置く邦字紙「日米新聞」の記者だったからだ。別の新聞社に寄稿した記事であったことが過去の研究者たちの調査を難航させた。しかし羅府新報の調査によると、竹田は日米新聞1932年6月10日付紙面で帰国の折に書いた「我が心境を語る」と題した連載で櫻府日報のことに触れ「櫻日社(櫻府日報)とも私は浅からぬ関係に繋がれてたのであるが」と記述しており、櫻府日報との関わりを少なからず示唆していた。

今回、羅府新報は若松コロニーに関する歴史などを調査する「海外移住150周年研究プロジェクト」の研究者の協力のもと、問題となっていた竹田の記事を紙面で紹介するに至った。おけいの存在を世に知らせ、北米における最初の日本人移民の歴史を日系社会に伝えた記事である。

そこにはおけいの墓がある場所の様子や、墓の側には春になると咲き誇る野ばらが植えられていることなども詳細に書かれている。

上段の「櫻府日報」の上から3段目に掲載された竹田が書いた「おけいさんの墓に詣づるの記」と題した寄書の抜粋。1916年7月12日から4回にわたって連載された

記事の中で竹田は墓の付近に住む老人におけいの在りし日のことを尋ねている。その老人こそヘンリー・ビアキャンプであるとされる。ヘンリーはコロニー崩壊後、おけいを引きとったビアキャンプ家の長男で、家族の一員として晩年、おけいがともに過ごした人物のひとりである。老人はその昔、シュナイルという男(シュネルのこと)が日本人の移民団を連れてゴールドヒルに来て茶と桑の栽培を試みたと説明しコロニーの存在を竹田に物語る。

また「松之助(桜井松之助)」「國五郎」「進之丞」といったコロニーのメンバーの名も老人は覚えており、竹田に伝えている。竹田は記事の中で「彼らがまだ生き残っているだろうか」と思いを馳せ、また同時に、遠い昔に17歳という若さで海を渡りアメリカで生涯の幕を閉じた一人の少女おけいの冥福を祈るのだった―。

この記事が掲載されてしばらく経った後、おけいと北米最初の日本人移民団の存在は一躍日系社会に知れ渡った。排斥運動が押し寄せる当時の日系社会で苦労を強いられていた日系人は自分たちよりも以前にカリフォルニアに来たこのパイオニアをたたえ、以降、おけいの墓参りに訪れる人は絶えなくなった。

竹田は1915年に渡米し、日米新聞のサクラメント支社の通信員として日々サクラメント近郊の情報を北カリフォルニアの日系社会に発信していた。20年代から30年代にかけてもおけいに関する記事を執筆し、日系諸団体が企画したおけいの墓参りに同行するなどしていた。32年に帰国し40年10月20日、東京で死去。「おけいの良き友」といわれ、帰国の際「一番寂しがるのはおけいだろう」と惜しまれた。


協力
UCLA Southern Regional Library Facility
会津若松市
会津若松市立会津図書館
邦字新聞デジタルコレクション
フーヴァー研究所ライブラリー&アーカイブス
山本一洋氏著「若松コロニーの跡を尋ねて」
海外移住150周年研究プロジェクト(飯野正子、飯野朋美、小澤智子、北脇実千代、粂井輝子、菅美弥、長谷川寿美)

 

*本稿は、「羅府新報」(2019年2月23日)からの転載です。

 

© 2019 Junko Yoshida

agriculture california colony japanese american migration okei Wakamatsu

このシリーズについて

今から150年前の1869年(明治2年)、会津若松(福島県)から22人の移民団が夢と希望を胸に、カリフォルニア州北部にアメリカ本土初の入植地「若松コロニー」を形成した。150年前にアメリカ本土へと海を渡った先駆者たちの勇気と開拓者精神に思いを馳せ、彼らの歴史をここに振り返り、日米両国にいる彼らの末裔の先祖への思いを紹介する。

*「羅府新報」(2019年1月1日)からの転載。