南フロリダの大和コロニーの一員として渡米、コロニー解体後もひとり最後まで現地にとどまり生涯を終えた森上助次は、戦後、義理の妹一家にあてて手紙を書きつづける。気ままさと寂しさが背中合わせの毎日で、農作業を精を出し、かつて見た京都の桜を思い出す。フロリダにいながらいつか南米を旅する夢を抱いているという。
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1951年5月17日
〈やっぱり日本食が〉
美さん、
私は至って壮健です。ここ2週間ほどは、なにもせず夜昼なしで寝通しました。気の弛みと疲労で身体中だるく、半病気状態です。秋作に取り掛かるのにはまだ2か月余りあります。農具の手入れ、家屋の修繕、農園耕転(耕して雑草を取り除くこと)です。
私は自炊しています。食べたい物(日本の物ではありません)を食い、食べたい時に食い、ごく自然に近く、簡易生活をしております。一人住まいの気楽さ、行儀作法もありません。
パンツ1つでドアのステップに腰かけ、猫を相手に畑を眺めながらフライパンからスプーンで食べています。レストランでの食べ物にはもう飽き飽きしました。私はやはり日本人です。余り食欲のないときは香の物(漬物)を食べたいと思います。ここでも魚類は至って豊富ですが、高価な上に気候の関係か、日本で食べたような味はしません。
子供の時は魚釣りが好きで、蔵に入れられるのを覚悟で学校をさぼって釣りにでかけました。夜中に起きて4、5里もある(宮津の)栗田の浜辺まで行ったのものです。ここでは、カーで行けば半時間以内に大西洋で釣りができますが、その気になれません。しかしこの夏は近くの運河で少し試してみるつもりです。小魚ですが、沢山います。
〈南米はあこがれの地〉
デルレービーチも近ごろ少し静かになりました。避寒客は皆去り、土地の人も余裕のある人達は皆避暑にでました。私も旅行は好きですが、いつも都合悪しく10年ばかり何処へも出かけていません。
しかし一生のうちに是非一度、カーであなたと中米を経て南米を一周したいと思います。南米は私の夢の国、10年も年が若かったらと、若い人達を見ると羨ましくてなりません。
この国も生活難の声がだんだん高くなって来ました。特に百姓にとっては買うものは高く、売るものは安く、バランスが取れません。
美さん、今日の新聞では(朝鮮戦争で)中共軍が盛り返したとか、鬼ごっこのような朝鮮事変、何時果てる事か。遅かれ早かれ、世界大戦になる事と思はれます。マッカーサーの説に賛成する者が圧倒的です。
GEO
1951年7月×日
〈この夏はスイカが豊作〉
美さん
暫くご無沙汰しました。今日はサンデー、朝から降り出した雨は一寸では止みそうもありません。フロリダ州を除く当国南部諸州は近年、稀な酷暑と旱魃のため、作物の被害が大きく、ある地方はほとんど全滅の有様です。幸いイリゲーション(灌漑)の設備があった作は上々、青々と繁っております。
水瓜とメロンを10種試作しています。送って頂いた種無し水瓜は6本育ち、ベビー(赤ちゃん)の頭位が12、13見えます。送ってあげた水瓜の種の結果はどうでしょうか。多分お植えになった事と思います。この夏はずっと通して水瓜が沢山あったので飽きる程食べました。
さて、嫌々ながら、吾々日本人も帰化権を与えられて、これで人並みに列し得る訳です。こちらの新聞には一言半句もこの事に就いて報じておりません。送って頂いた新聞で初めて知った次第です。私の帰化は未定です。帰国と決っても帰化は不必要です。一世の大部分は60歳以上、帰化を望む者はあまりいないと思います。
〈久しぶりに鏡を見て驚く〉
写真ありがとう。皆さん達者で何よりです。私も至って壮健です。少し痩せました。水と水瓜で生きているようです。先日、タウンで鏡を見ました。驚くべし、残り少ない頭髪はほとん無くなり、茶褐色の頬は痩せこけて見える。全くガッカリしました。
こんな面相で美さんに遭ったら十年の恋も一瞬でさめてしまう。……不安になりました。私は鏡は絶対に用いません。家には鏡は一つもないのです。以前は一つあったが、一昨年のストームでこわれてしまいました。億万長者のロックフェローだったと思うが、死ぬ少し前、一青年のピチピチした腕を眺めて、もし青春が戻ってくるなら私のすべての物をあげてもかまわないと嘆したそうです。
玲子さんへミシンを買ってあげたいが、日本製はどの位しますか。今日は雨のお蔭でいたって涼しく、80度(約27℃)を超しません。
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美さん、今日はアメリカの独立祭、仕事は休みです。手紙を書くことにします。ご依頼のベーキングブック、見つけましたから送ります。こちらは何の変わりもありません。ここ二、三日、夕立があるので夜は少し涼しいです。猫の子も丸々と太っています。今は眼も開き、ヨタヨタ歩き回っています。名はつけてありません。
1952年3月×日
美さん、三月もはや中頃となりました。嵐山(京都)の桜も盛りに近いことと思います。思いは四十六年の昔、一九〇六年、眼の養生のため京都で過ごしました。嵐山を訪れたのはたしか月末で花は既に散り果てただ青葉のみでした。道すがら盥(たらい)で女達が野菜物を洗っておりました。京都の野菜は見るからに好いが、母が作った程の味がないように思われました。
当市第一の商店は数百人の顧客で雑踏を極めております。商品は皆正札付でセルフサービス。一セント、二セントを争うご婦人達が買いにきます。今も避寒客らしい一婦人が茄子を一つ一つ手に取って見て、なお決し兼ねる様子です。私はそばで「奥さん、お手伝いしましょう」と言うと婦人はニッコリ笑っています。私は一つを取り上げていいました。「茄子をお買いの時は光沢がよく、柔らかでサイズの割になるたけ軽いのを選ぶことです。固く重いのは種が多いんです」
聞けば婦人は茄子のできぬアラスカから来ているということです。重いほど好いのだと思っていたとのことでした。
美さん、私は全く聞こえなくなりました。多分風邪の為です。夜も更けてました。今夜はひとつ大金持ちになった夢でも見て眠りましょう。三月十六日夜、最愛の美さんへ
(敬称略)
★参考:大和コロニーと森上助次。「大和コロニー〜フロリダに『日本』を残した男たち」(川井龍介著、旬報社)より