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孤独な望郷 ~ フロリダ日系移民森上助次の手紙から

第4回 あなたに会いたい

大和コロニーでの収穫物を鉄路で運ぶための出荷場に集う日本人(©Morikami Museume & Japanese Gardens )

南フロリダの大和コロニーの一員として渡米、コロニー解体後もひとり最後まで現地のとどまり生涯を終えた森上助次は、戦後、義理の妹一家にあてて手紙を書きつづける。手紙を通じて家族同様の存在となった彼らに親愛の情を示し、健康への心配、将来のことなど義妹に揺れる気持ちを吐露している。

* * * * *

1950年○月×日 

今、ちょうど朝の二時、今夜は余り咳も出ず、よく眠れました。御無沙汰をお詫びします。天候は不順続きで先週の金曜日の朝には今冬十回目の降霜がありました。十一回目の寒気は大西洋の気圧の為、途中でうろついています。

私の病状は悪くなり一時肺炎になりはせぬかと心配しましたが、咳も少なくなり、食欲もでてきたので大丈夫と思います。米で育った者はまさかの時はやはり米でないといけません。私は永い間、粥と漬物で過ごしました。漬物といっても茄子とたまねぎを細かくきざみ、塩でいため、砂糖と醤油で味付けた、いわば福神漬です。昔の話ですが、米のない土佐の山奥では、病人が息を引き取る時、米を竹の筒に入れてガチャガチャ振って聞かせ病人もこれでこの世に思い残す事はないと満足して死んでいくということです。皆さん用心して病気せぬ様にしてください。


〈記録破りの寒波、雪が降る〉

御手紙有り難う。心配させて済みません。今は食欲も回復し頭痛も止みましたが、咳がどうしても止まらないので困っています。日本でいう百日咳というのでしょう。昨夜も久し振りにムーヴィーへ行きましたが、咳が出だしたので中途で出てきてしまいました。

案じていた寒波がつい先週の金曜夜に来襲、時速50マイル近い寒気が吹き荒れ、雨さえ加わって寒くてほとんど眠れませんでした。降雨の為、降霜はなかったのですが、寒風雨の為、作物は被害を受けました。全く半死半生の有様です。残り数百万本のトマトやペッパーの苗が生えてから間もないのでほとんど全滅です。今度の寒波は全くレコード破りでフロリダ中部以北一帯で雪が降り、あるところでは2吋も積もりました。

当市の西北50マイル一帯の牧場では5000頭からの牛が凍死しました。こんな寒さは私が在米中で初めてです。私は最後の一弗を投げ出してまで努力しています。勝敗が後三週間で決します。成るも成らぬも運命です。私は最善を尽くしました。泣きも恨みもしません。

美さん、また暫くご無沙汰がちになっても忘れません。心配せぬ様にしてください。私は大丈夫です。

* * * * *

御手紙頂きました。これ程まで私を思って下さるあなたに対し何一つお報いする事が出来ぬのが何より苦しい。あなたに会いたい。夫と呼ばれ、父と呼ばれたい気持ちで胸いっぱいです。私は今一度、運命を試すために奔走中です。この手紙も不景気なことばかりで、何一つあなたを喜ばせることを書けないので、あなたに手紙を書く事が罪悪の様に思われて恐ろしくなりました。お察しください。

戦後の不景気と気候の不順の為、当地方の農家は悲境に陥いり好い事一つないようですが、悪い事も続かぬでしょう。いずれ遠からずお互い笑う時が来ると思います。

美さん、私は今、タウンから帰宅したばかりで寝るには少し早すぎる故、何か書く事にしました。今日、久し振りに雨も降らず、終日アトランティックからは涼風がきて、ほとんど暑さを感じませんでした。夕方7時頃まで働いて10英町(エーカー)の土地を縦横にトラクターで耕転しました。少しの疲労も感じません。十英町といえば日本の約4町歩、640呎四方の面積です。馬で耕したら少なくとも10日間以上を要します。

 経費は、ごく僅かで10ギャロンのギャスと1クウォートの油、2ドル50セントです。馬耕のように歩く事もどなる必要もなく、カーをドライブするのと余り変わりません。3時過ぎ、お腹が少し空いてきました。あなたが片手に明ちゃんの手を引き、片手にお弁当をさげて来てくれるような気がしました。またデードリームかとお笑いでしょうが、事実だから仕方ありません。

この頃、気候のせいか、何を食べても味がありません。日本の御飯、野菜の漬物、熱い番茶が恋しくなります。今夜もレストランで夕食をとりました。半分も食べません。何時も給仕してくれるリリアン(リルと皆が呼んでいます)が曰く……。

私は痩せるどころか、近頃はうんと太りました。昨日久し振りに着物の洗濯をやりました。週1回来る黒人の婆さんも孫が生まれたので、今週は来ないので一週間分を自分で洗濯しました。シャツ5枚、ズボン5足、シーツ2枚、ピローのスリップ2枚、タオル5枚、ハンカチーフ6枚、靴下8足半。9足あるはずが片方、どうしても見つからないのです。多分、隣のスポテー(子犬)が持って行ったんでしょう。せんだってもスリッパが片方見つからんのです。翌朝隣の細君が返しにきました。隣といつても一哩余りあります。


〈美女に占ってもらうと〉

美さん、西瓜や胡瓜などを全部で10英町ばかりに植付ける予定で準備中です。蒔き終わり次第2週間ばかり旅行の予定です。無論商用ですが、先年、商売をした頃(約15年間)は毎夏、1、2ヵ月旅行しました。ひと夏、多分家を建てた前の年だと思いますが、船でバルティモアまで行き、ワシントンに着き、・・・余りの暑さに逃げ出したことがあります。船中、年若き一婦人と知り合いになりました。

彼女はジョージア州のある大学に籍を置き、夏期で故郷に帰るところでした。質素な身装をした良家の御嬢さんらしく、あのギリシヤの彫刻のような容貌でした。手相を研究しているとの事で私のも見てくれました。すると、こんなことを言いました。          

「あなたは日本人、なかなか読書好き。日本の人はたいてい読書好き。(なかなか詳しい)。あなたは大金持ちになる相がある。イヤすでになっている。しかし注意しないと無一文で終わりますよ。それからあなたは死ぬか生きるかの大病を患うかも。長命で結婚もすごく遅い。」

私は当時、意にも留めなかったが、年を経て随分、彼女の予言が一々適中する様に思われる。とくに最後の二つは疑っている。

* * * * *

美さん、一度、私は財産の整理をする。今後は1ヵ年に必要と思われる額を知らせて頂きたいのです。一度に全部の送金は不可能ですが、月あるいは隔月に割りあて送金すれば、あなたが嫌な思いで請求されなくてもすみます。できない場合は私のローヤーで友人から間違いなく送金します。実際、お金の相談ほど嫌な事はありません。私も時々、貸金の催促に出かけますが、気の弱い私には実に辛いです。

送金の額は定めても私の経済の許す限り、できるだけ多く送ります。誤解のないように願います。

在米の同胞一世も次々と死んで行く。今日の新聞でも藤木某(70歳)の入水自殺を報じている。遺書には私は老いて働けず、またお金も無し、もうお暇乞いして行きますと。何たる悲惨な事。彼も青雲の志を抱いて渡米した者でした。私はわが身を省みて感慨無量でした。

日本人が少ない地方に住んでいるので、浪花節も聞かず、日本の映画等も一度も見た事はありません。聞けばあの絹代等(注)、大のアメリカ通となり、雨の降る日にサングラスで歩いたり、箸が満足に持てない様なカッコーして見せたり「ワタシ、ソノトキユキマシタ」等、外国人の片言日本語の話し振りで得意になっているようです。1

少し眠くなりました。今晩はこれでおしまい。お休みなさい。(6月10日夜11時14分)。

* * * * *

美さん9日付けのお手紙、今朝(13日)着きました。一人者の私にはあなたからのお便りが何よりの慰めです。まだまだ来てないと知りつつ、つい郵便箱をオープンするたびに気を落とします。7日に差し上げた手紙、もう着いた事と思います。為替は時々、遅れて40日以上かかる事があります。着いたら御通知下さい。

美さん、私は南米に行く事を思い留まりました。私は年齢を忘れていました。気ばかり若くでも身体がともないません。人は人、私たちはお互いに助け合って生きたいと思います。在米日本人もいよいよ帰化権を申請する段取りになりました。私はどうするか未定です。

孤独の者はやはり故郷が懐かしい。突然帰国してあなた方を驚かすかも知れません。数回にわたって私の近況をお知らせしました。男らしくない泣き言と思われたかも知れませんが、私は泣き言でもなんでもなくただ事実を率直に申し上げただけです。

あなたを真の妹と思って何もかも打ち明けました。私は悲観も何もしていません。しかし、次の五年間が私の浮沈の分かれ目です。私は以前に倍して努力します。キット打ち克ってみせます。どうか。真の兄と思うて励まして下さい。折を見て手紙書きます。

                                                                                 兄より

(敬称略)

続く >>

注釈:
1. 絹代等 女優・田中絹代のこと。1950年、日米親善芸術使節として滞在していたアメリカから帰国した際、サングラスに派手な服装で投げキッスをしたり「ハロー」と言ったことなどから、渡米を後援した毎日新聞社を除くメディアから「アメション女優」(アメリカで小便をしてきただけという意味)などと叩かれる。それ以降、自殺を考えるほどのスランプに陥る。

 

★参考:大和コロニーと森上助次。「大和コロニー〜フロリダに『日本』を残した男たち」(川井龍介著、旬報社)より

 

© 2019 Ryusuke Kawai

florida issei Sukeji Morikami yamato colony

このシリーズについて

20世紀初頭、フロリダ州南部に出現した日本人村大和コロニー。一農民として、また開拓者として、京都市の宮津から入植した森上助次(ジョージ・モリカミ)は、現在フロリダ州にある「モリカミ博物館・日本庭園」の基礎をつくった人物である。戦前にコロニーが解体、消滅したのちも現地に留まり、戦争を経てたったひとり農業をつづけた。最後は膨大な土地を寄付し地元にその名を残した彼は、生涯独身で日本に帰ることもなかったが、望郷の念のは人一倍で日本へ手紙を書きつづけた。なかでも亡き弟の妻や娘たち岡本一家とは頻繁に文通をした。会ったことはなかったが家族のように接し、現地の様子や思いを届けた。彼が残した手紙から、一世の記録として、その生涯と孤独な望郷の念をたどる。